事件は明治4年※のことであるが、天道は世の中に幸いを与えぬ年であったであろう。 5月の田植えどきとなったけれども空梅雨(からつゆ)で、雨が一つも降らぬので、田畑はまっ白く乾いてひび割れてしまって、百姓はただ手をつかねて、いたずらに天をうらむのみであった。 さなきだに気がイライラしている矢先に、流言蜚語(りゅうげんひご)は遠慮なく飛ぶのであった。 その時分には元より新聞はなし、人の話が村から村へ響くのみであった。
ここに枝光村に、広島から梅吉という大工が5,6年前から来て、村の冷飯大工(ひやめしだいく※)として、かなたに3日、こなたに5日と、こちこち働いておったが、人より高いところに上がる加減か、世の出来事を聞いて来るのが早かった。 どこから聞いたのか、いま筑前の国中は大騒動、武士と百姓の大げんかが始まったげな、いまに武士がこの村にも攻めて来るぞ、みなの衆は早く竹の槍でも作っておきなさいと、村中に吹聴してまわったので、噂は噂を生みて、隣の戸畑村にも大蔵村、尾倉村にも、この話で持ち切りとなった。 村の人々は仕事も手につかぬのである。
かかるところに、さらにまた新しい話は生れて来た。上に立つ人たちが百姓町人をもぐって※、天子様のお所には年貢米が届いておらぬげな、それで、そこにもここにも百姓一揆が起って、蓆旗(むしろばた)を押し立てて、みんな竹槍をかたげて福岡に向かって攻めて行きつつあると。 流言は生まれ、風聞は飛ぶのであった。
しかるに、火の無き所には煙は立たぬというたとえ、流言は事実となって現れた。誰言うとなく我が枝光村も一揆に加わって福岡に出向かねばならぬ。 もし枝光村が加担せぬようなれば、他村から攻めて来て、枝光村全体を焼き打ちにするぞ、という交渉であったので我が村も一揆に加わることにし、一家から必ず一人出向くことに決めた。 もしこれを否(いな)む者があれば、その人の家を血祭りに焼きこさぐと言うので、村人はみな慄(ふる)いあがりて、われもわれも竹槍をかついで広場に集まった。
はや皆、殺伐な気色(けしき)となり、第一番に庄屋殿から先に焼き払えとひしめきたったので、村の老人たちは驚き制して、一方庄屋の芳賀与八郎さん方へかけつけて、応急の処置を取った。 芳賀家もさっそく酒やら握り飯などを出して、みなの門出をねぎらった。 そこで老人達は芳賀家に集まって村を守ることにし、壮年青年の若者は一家から一人あて繰り出して、およそ100人の同勢は「遠賀郡枝光村」と染め貫きたる旗を押し立てて、ブウーブウとホラ貝を吹き鳴らして、勇ましく村を出発した。(この騒動に庄屋殿芳賀家は家宝、財宝をひそかに彦島の福浦に船に積んで運んであったということ)。
わが枝光一揆軍は西に向って進軍し、尾倉村、前田村、黒崎村と通れば、各村の軍勢がこれに加わって、またたく間に5〜600人の人数となった。 陣の原まで行きて見ると、川向こうの本城に大きな家が、今盛んに燃えつつあるのを見た。その時分は、陣の原から本城には渡舟で渡るのであったが、何か向こうから鉄砲を撃っているというので、危険を感じて渡らぬことにして、川上の折尾までのぼりて、折尾の一の橋を渡って本城の方に下って来たが、もはや日が暮れたので「遠賀郡枝光村」の高張提灯の先に集まって、村人の迷わぬようにして、その辺の空家に泊ったのである。
翌朝、庚申塚(こうしんづか)に集まったが、その時の人数は実におびただしい人集りであった。 芦屋町に海路からたくさんの武士が福岡から来て詰めかけているので、芦屋の者は一人も出て来なかった。 否、福岡藩士の警戒で一人も出さなかったのである。 枝光村は自分の村から送って来たる炊き出しの握り飯を食うてから、勘七さんの音頭で前進し始めた。
本城の本村に行きて大庄屋の佐藤家に近づいた時、向こうから銃砲を撃っているとて、皆この地の方に逃げておったので、枝光軍も陣を退いた。ところが笑止にも、それは竹やぶに火が入って、竹がはしる音であったので、またそろそろ皆が詰めかけて、誠に立派な「ケシ造り※」家であった佐藤家も、一揆の者が10尺の藁把(わらたば)に幾つも幾つも火を付けて一ぱいから燃やしたので、ついに佐藤家は丸焼けになってしまった。
それから大羅越えをして、折尾に出でて中間村の大庄屋岡部家を襲った。ところが大きな蔵があったので扉を開いた。 否(いな)叩き破って見れば、米俵がぎっしり積んであった。その所にまたたくさんの帳面があった。 その帳面をつかみ出して、ことごとく種池(たないけ※)の中に放り込んでしまった。さすがにお百姓である。米俵は全部かつぎ出して道に立派に積みあげた。大庄屋岡部家は全部叩き壊して、残りは梁(はり)くらいだけにしてしまった。 大黒柱のごときは大きな立派なケヤキ柱であったが、小さき所は三寸角くらいに、ちゃっちゃくちゃら※にしてあった。
それからさらに米蔵を、これは殿様に納めるお年貢蔵である。これを開いて見ると、中には家宝、財宝道具が充満していたが、全部引きちらかし、破りちらかししたが、そのころ唐縮緬(モス)※は、実に珍しい物であったが、美しい赤い友禅模様の唐縮緬が10反ばかりもあったので、若い者は皆、ばかいやって※2,3尺づつ首に巻いておったが、上に立つ者がやかましく言って、それを取った奴はみな竹槍で突き殺すぞと言われて、みな捨ててしまった。
それから遠賀川を渡りて、虫生津(むしょうづ)に行きかけたが、道をさらえて浅木村に向かった。 村に入って一番に酒醸家の有吉家を襲うたところ、有吉家はかねて準備していたと見え、さっそくたくさんの酒樽の鏡を打ち貫いて、また、たくさんの握り飯と肴(さかな)を出したので、焼打ちの難をまぬがれた。さらに新屋有吉家に向ったが、この方は番頭に気のききたる者がおらなかったか、あるいは吝嗇(りんしょく)家であったか、ついに焼打ちにされてしまった。女子供は泣き叫んでおったが耳朶(じだ)に残った。
日が暮れたので田の中に陣を張った。ところが川下の芦屋の方からたくさんの篝火(かがりび)が見え出した。香月村の者は勇気が余って、いざこれから芦屋を夜打ちだと言って、向こうから篝火の来たらぬ前に山鹿まで行き、山鹿の連中をかたらいて※、武士(さむらい)船も何も、焼きこさげと、勢い立って行ったという事である。 しかるに向こうから来たそのたくさんの篝火は、福岡から出張した警戒の武士たちであった。 一揆の方に向って、バリバリ銃砲を撃ちかけて進んで来たので、一揆軍はあたかもクモの子を散らすがごとく逃げ散ってしまった。
枝光軍は急いで高張提灯を消して、みな田の溝に伏せと命令して動かなかった。 警戒武士の方でも相手が百姓のことであるから、むろん脅し発砲で、空砲であったるならん。一人も銃砲で撃たれて死んだということを聞かなかった。だが我が枝光軍の指揮者は、すぐに目標の提灯を消して全員を伏せたるは、実に立派な応急処置であった。…
(途中、銃声に怖れをなして村に逃げ帰った伊三郎の挿話は省略)
一揆軍は昨日までの勇気はどこへやら、刀を二本さした武士が銃砲持った足軽を連れて、監守するので逃げられもせず、震いながら武士の命令に従うよりほかはなかった。 遠賀川より東の者は右岸に集まれ、西の者は左岸に集まれ、と言われて、命令のままに集まった。そしてそれぞれ人数を調べて、各村の主だった者を一人ずつ呼んで、何か言い渡して、村に帰ってよろしいという事になった。 それがその日の3時頃であったと思う。
ここに勇猛果敢の百姓一揆も、2夜3日をもって最後の幕を閉じたのである。 おのおの居村に引きあげた枝光組は、黒崎で日が暮れたので、例の高張提灯をともして通りかけたところ、たくさんの武士が後詰(うしろづめ)しておって、いちいち誰何(すいか)され、訊問されたけれども、事実解散を命ぜられて帰村と言うことが分かったので放免された。夜の10時、無事帰村。別れて家々に戻った。 この間、一人もケガ人のなかった事が村中の幸いであった。
その後しばらくして、百姓一揆の後始末を言って来た。一人あての罰金2貫750文※。ハッハーと恐れ入り。ここにまた一揆を流言蜚語して村中しゃべって回った大工の梅吉は、村の犠牲者となって福岡に呼び出されて、尻を百叩きされて追放された。
『我等の枝光※』「百姓一揆」(原田準吾著・昭和17年)
(読みやすくするため、一部表記を改めました。)
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