やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
戦時下の八幡 [1944-1945]  
戦時中、八幡への大規模な空襲は3回ありました。
八幡は、日本国内で初めてB29による空襲を受けた都市であり、
とくに1945年8月8日の被害は甚大なもので、
20万発以上の焼夷弾が降りそそぎ、市街地が焼き尽くされました。

疎開や空襲などによって、終戦時の八幡市の人口は
戦前のピーク時の28万人から15万人となり、ほぼ半減しました。
○八幡・北九州関連のできごと(★関連資料あり)、◎国内のできごと
1938(昭和13)
◎国家総動員法の公布
1939(昭和14)
○八幡製鐵所、戦前の銑鉄生産ピーク
1940(昭和15)
 
1941(昭和16)
○鞘ヶ谷競技場の開所式(4月)
◎真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまる
1942(昭和17)
○北九州へ米軍機が初の偵察飛行(4月)
○関門鉄道トンネルが開通
1943(昭和18)
★戦前の八幡市の人口ピーク(28万人)
1944(昭和19)

○折尾町が八幡市に編入される
◎生徒・学生の勤労動員が強化され、学校の授業が停止となる
八幡への第1回空襲(6月)、第2回空襲(8月)
○八幡空襲の後、学童疎開が実施される

1945(昭和20)

◎広島に原爆が落とされる(8月6日)
八幡への第3回空襲(8月8日)
◎長崎に原爆が落とされる(8月9日)
◎終戦の玉音放送(8月15日)
【八幡空襲の概要】  ★表をクリックで拡大(PDF:238KB)
【枝光の空襲罹災MAP】 
【八幡空襲の被災状況】
★画像クリックで拡大(PDF:964KB)
★画像クリックで拡大(PDF:245KB)
八幡の空襲についての概要は『八幡市史』や『北九州市史』にも記されていますが、
『わが故郷 八幡』(1995:
北九州八幡信用金庫)より、その記述の一部を紹介。

 「空襲の基本用語と戦時中の食料事情」 PDF:193KB)
  (枝光北市民センターでの聞き取りにご協力いただいた方)  ※年齢は終戦当時
  ◆天倉一美さん(15歳)、◆田中一昌さん(10歳)、◆松尾行正さん(10歳

【ブログ記事へのリンク:八幡空襲編2017年8月8日〜