◆孤独をウリにする登場人物たち
読者が作品世界に参入するためには、たとえ境遇は違っていても、
「それな」と主人公に感情移入できる語りが大切です。
たとえばコハル (♀)の、現実世界に対する認識はこんな感じです。
誰もが、自分のことだけに精一杯な世界だ。ひとのことになんて構っていられない。自分が居る場所を守ることだけで精一杯。自分と、数人の大切な人、それだけが小さな世界を作っていて、あとはその他大勢の一部。誰もがそう。だからこんな大勢の中にいても“わたし”を“わたし”と認識している人はわたししか居ない。同じだ。わたしも、どれだけ大勢の人混みの中に居たって、そこに居るのがきみじゃないなら、ひとりでいるのと同じことだ。
大勢の中にいても、孤独な自分。わたしも、同じ…。
と、感傷好きな読者なら、きっとそう感じられることでしょう。
「まさか。わたしが一番、いらないものだよ」
そう、どんなものよりも。わたしにとってはわたしが一番いらないものだ。一番執着がなくて、一番どうなってもいいもので、できるものならすぐにでも消えたっていいと思っている。
なんという自己肯定感の低さ!ここまで自暴自棄にはなれないにしても、
思春期の若者なら、誰しも一度はそんなふうにカッコつけてみたいはず。
そうでもないか。
ただし、現実の世界でそんなツイートしようものなら
「なら、消えろ」と書きこまれるのがオチかもしれませんが。
「この世界で何ひとつ、大切なものなんて見つけられなかった」
そう過去を振り返るトーマの孤独も、なかなかのものでした。
「…ただ時間が過ぎるだけの毎日を過ごしていたんだ。そのときのおれにとって、未来を考えることは何よりも恐ろしいことで、だからずっと目を瞑(つむ)っていたし、耳を塞(ふさ)いでた。昨日が消えて、景色が変わって、何もしないのに勝手に明日を迎えることが、本当に嫌で、本当に怖かったんだ」
弟の死を「わかりたくなかった」コハルも、
何も変わらないと「わかっていた」はずのトーマも、
ひとりで何もできないでいる、どこにでもいる若者なのです。
だからこそ読者も、彼らの孤独に同情を寄せ
その感傷に共感したり、感情移入できるわけですね。
◆ちょっとおバカなヒロイン
若い読者に共感してもらうためには、
主人公の精神年齢や生活感が読者に近い方がいい。
というのが、ラノベの法則かどうかわかりませんが、
この物語のヒロイン、時間が止まってしまったコハルは、
いわば、成長を止めてしまった女の子です。
25歳という設定年齢は、あんまり意味がない。
一人暮らしをしているけれど料理は苦手、
ふだんからまともな食事はしてないようだし、
トーマに対しても口が悪かったりします。
「もう十分大人だっての。」
なんて、本人は思ってるようですが。
コハルは、男を見る目がありません。
高校卒業直後に、つきあっていた先輩にフラれて
家出をしたこともあります。
…傷心旅行かなんだか知らないけれど、こんなわけのわからないところに突然やって来て、馬鹿か、お前は馬鹿か、メロドラマの見すぎだ、今どきフラれたショックで旅に出るなんてそんな陳腐な奴どこにも居ないよ。しかもよくよく考えれば地元まで戻る電車賃も残っていないし。携帯も家に置いて来たし。
はっきり言えば、コハルは思慮の浅いバカな女の子として設定されています。
(反対に弟のハルカは、しっかり者で姉をいつも助けてくれました)
ま、ひとくちにバカといっても、
愛すべきバカと、人を不快にさせるバカがいまして。
たとえば、弟のハルカが笑いながら姉にむかって
「馬鹿だな、コハル」
という場合は、前者の愛すべきバカ。
小学生のときにコハルがケンカした相手、
「ガキ大将はとにかく自分が勝てばよしという心底馬鹿なガキだった。」
こちらの場合は、後者のバカですね。
いずれにせよ、この作品『春となりを待つきみへ』は
私たち読者と同じか、あるいはもっとバカな女の子が
「救われる」話なのです。
親鸞の“悪人正機説”は、どんな悪人も救われると説きますが、
この作品では、どんなにバカでも救われる。
否、バカだからこそ救われなければならないのです。
ねぇ、ハルカ。やっぱりわたしは馬鹿だよね。ずっとひとりだなんて思って、くだらない意地を張って。臆病なだけだったんだよ、ただの強がりな。ひとりじゃ何にもできないくせに、ひとりで何でもできるって思い込もうとしてた。
主人公のコハルは、大切なものを失い、一人ですねている子どもでした。
それが、子どものようにただ待っているだけで、
どこからか救いの手が差し伸べられ、状況は一転し、
あふれだす感動の涙でスッキリと癒されるのです。
読者は(自分と同じくらいに)愚かな彼女を見守りつつ、
安心して共感し、ささやかな癒しの夢を見ることができます。
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