中高生が「泣ける」というライトノベルを読んでみた。
『春となりを待つきみへ』
著者: 沖田円、スターツ出版文庫(2016年)

きみがこの名を呼んでくれるなら、
必ず見つけてあげるから。

きみは奇跡を待っていて。


前に紹介した、いしいしんじの『プラネタリウムのふたご』と同じく
“双子”が登場する作品(こちらは姉弟のペア) です。
ただし、作品のクオリティも読後感もまったく違いますが。

あけすけに言うと「なんだかなぁ…」という印象でした。
でも、せっかく中学生に教えてもらって読んだ作品なので、
ただ「泣けなかった」と報告するだけではつまらない。

そこで、なぜ泣けなかったのか? なぜ感動できなかったのか?
そんな切り口の感想文もありかなと思って、楽しみながら書いてみました。
作品の評価や解釈は人それぞれで、こんな読み方もあるという一例です。

文庫の紹介文によれば、沖田円さんは“技巧派作家”として
中高生から大人まで幅広く支持されているそうです。
ジャンルとしては、いわゆる“ライトノベル”になります。

まず、読んでない方のために、あらすじを紹介します。
(※以下、ネタバレの内容を含みます)

◆『春となりを待つきみへ』あらすじ

25歳の瑚春 (コハル♀)は、双子の弟・春霞(ハルカ♂)を事故で亡くして以来、
その悲しみから立ち直れず、時間が止まったように生きていた。

ある日、コハルは街で冬眞(トーマ♂)という若者に出会う。
そのまま部屋に住み着いたトーマの“綺麗な笑顔”に、
次第に心を許してゆくコハルであったが・・・

トーマの首に下がっていたのはコハルとおそろいの宝石ガーネットで、
死んだ双子の弟ハルカ(♂)が持っていたはずのペンダントだった。

トーマ(♂)は心臓に欠陥があって、人生に絶望していたとき
ドナー登録をしていたハルカ(♂)の心臓を移植されて、人生観が一変した。
そのトーマの心臓の導きによって、街でコハルに声をかけたのだと語る。

弟の事故死の後、ずっと泣かないと決めていたコハルであったが、
約束通りにハルカ(♂)が自分を見つけてくれたことを知り、
トーマに抱き締められて、ついに声をあげて泣いてしまう…。

◆中高生向けの、甘くて感傷的な作品

ザックリとした感想を言うと、すれっからしのオトナには
甘すぎるというか、とても感傷的(センチメンタル)な作品です。

ストーリーは、コハル♀の“自分語り”で進んでいきます。
大切な人を亡くした傷心のヒロインという設定上、
その語り口が感傷的になるのは、当然っちゃ当然です。

感傷的な効果はどこから来るのか、具体例を挙げてみます。

◎意味深な前ふり・伏線の連打

冒頭から「あの日に」とか「あの日から」とか、
すでに何かが起きてしまったことを匂わせ、
心の中にいる大切な人へ「きみ」と呼びかける。

読者は「あの日」に何が? 「きみ」って誰?と、
代名詞がさし示す空白に興味が引かれる反面、
あまりしつこく繰り返されると、もったいぶった悲劇の語り手というか、
思わせぶりな感じがしないでもありません。

◎ハズいほど大げさな心理表現

世界が崩れるほどの絶望」とか、
この世には絶対に救われないものがある」とか。
この世界で、わたしが居るべき場所なんてどこにも在りはしない」とか。

自分の絶望を大げさに考えて、世界の悲しみを一人で背負っているみたい。
感傷に思いっきりひたれるのも、若さゆえの特権ってとこ、ありますけど。

◎Jポップの“泣き歌”のようなフレーズ

たとえば、次の文章など、Jポップのラヴソングに出てくるような
言葉が散りばめられています。(※テキトーに行替えしました)

きみは嘘吐きだね。
どこに居たって
呼んだら来てくれるって言ったくせに、
どれだけ名前を呼んだって、
喉が切れるくらい叫んだって、
きみはわたしを見つけてはくれない。
ねえハルカ、お願いだよ。
会いたいんだよ、きみに。
頭を撫でて欲しいんだよ、
笑って欲しいんだよ。
名前を呼んで抱き締めてよ。
きみが居なきゃどうしようもない。
わたしはいつまでだって前へ進めない。
こんな世界で、たったひとりで、
いつまでも、飛べない空を仰いで。
何度でも、何度でも、きみに届くまで、
きみの名前を、呼び続けている。

こういうお決まりのフレーズがスラスラ書けるところが
“技巧派”と呼ばれる理由なのかもしれません。

◎「ありえねー」という展開

あるいはまた、 分別くさいオトナにとっては、
「ありえねー」という展開も気になるところです。

もちろん物語には、魔法とか、異世界とか、タイムリープとか、
そこは目をつぶらないと作品世界に入りこめない設定があります。
虚構だとわかっていながら楽しむのがファンタジーですから。

たとえば、心臓を移植されたトーマ(♂)が、その不思議な力に導かれて
コハルと出会ったというのは、まぁファンタジーだから…と一応納得する。
でも、読みながら「それってどうなの…」と違和感を覚える部分もある。

25歳の一人暮らしの女性が、知らない男を部屋に上げるか?とか。
あるいは、小学生ならまだしも、20歳になる大学生の弟の事故死に
両親はなんにも責任がないというのに…

…でもわたしは、どうしても、わたしの大切なものを守ってくれなかったあの人たちのことを受け入れられないでいる。

両親を「あの人たち」って、25歳のオトナとしてどうなの?とか。

見知らぬ若い男を部屋に上げるのも、親を受け入れられないことも、
弟の死があまりにショックで、自分を見失ってしまっているから。
つまり、
心神喪失状態にあるからだと受け取れなくもない。
ちょっと苦しいけど…。


◆物語に癒され、物語に救われる

甘く感傷的な物語だからといって、ケチをつけるつもりはありません。
スイーツやデザートのような小説にも、ニーズはあります。
大切な人のためにお花畑を探しにいく。そんなロマンチックを求める人もいる。

私たちの現実は、物語(虚構・幻想)によって支えられている。
そんな考え方も、今ではありきたりな言説の一つとなりました。
宗教という「物語」もあれば、科学という「物語」もある。
人によって、何を信じるか。真実らしさの基準も違います。

いったいなぜ人は「物語」を必要とするのでしょうか?
その理由を語れば、それもまた一つの物語になってしまいます。

この世界は、さまざまな物語で編み上げられている。
ある物語の記憶が、別の物語に生かされることもあります。
ハルカの心臓が、トーマの一部となったように。

「ここに、何があるかわかる?」
生温かい感覚と、手のひらを打つ、小さな響き。
「冬眞の、心臓」
 

『トーマの心臓』といえば、萩尾望都の名作ですね。

◆ふたたび時間が流れ、涙も流れる

この作品『春となりを待つきみへ』は、
「止まってしまった時間が、ふたたび流れはじめる物語」です。

…時間と心臓が連動し、この小さな胸の鼓動が世界を動かしているのなら、きっとわたしの鼓動は、きみのと一緒にあの日に止まってしまったのだ。

言いかえれば、「自分の物語」の続きがわからなくなって
前に進めなくなった
コハル (♀)が、いかに救われるかという話です。
コハルの時間が止まった原因は、大切な弟ハルカの事故死でした。

あの日からわたしは、ただの一度も、泣かなくなった。

弟の死後、まるで自分に罰を課すように泣かなくなったコハル。
彼女が救われるかどうかは、この物語のクライマックスで
流される涙でわかりやすく示されます。

コハルは泣くことをずっと我慢していて、最後の最後で、
弟ハルカの心臓に耳をあてて、その音を聞いた瞬間、
ため込んでいたダムが決壊するかのように涙があふれだす。

…どれだけ我慢していたって、ハルカがそばに居るとわたしは泣いてしまう。
  泣かないと決めても、ハルカに心配掛けないように、泣かないくらいに強くなろうと思っても。
「……っ……ぅあ……」
わたしは結局いつも泣いてしまうんだ。
喉が裂けるくらい、何度も何度も。


読者もそれにシンクロして、感動の涙。そういう仕掛けです。

甘くてせつない物語が大好物の読者にとっては
その話が“泣ける”かどうかは、とても大切な評価ポイントです。
このラストの
感動的な“泣き”のためにすべてがお膳立てされている。
技巧派の本領といったところでしょうか。

ではさらに、読者の共感・感動を誘うために、
どんな技巧がほどこされているか、もう少し見てみましょう。

◆孤独をウリにする登場人物たち

読者が作品世界に参入するためには、たとえ境遇は違っていても、
「それな」と主人公に感情移入できる語りが大切です。

たとえばコハル (♀)の、現実世界に対する認識はこんな感じです。

 誰もが、自分のことだけに精一杯な世界だ。ひとのことになんて構っていられない。自分が居る場所を守ることだけで精一杯。自分と、数人の大切な人、それだけが小さな世界を作っていて、あとはその他大勢の一部。誰もがそう。だからこんな大勢の中にいても“わたし”を“わたし”と認識している人はわたししか居ない。同じだ。わたしも、どれだけ大勢の人混みの中に居たって、そこに居るのがきみじゃないなら、ひとりでいるのと同じことだ。

大勢の中にいても、孤独な自分。わたしも、同じ…。
と、感傷好きな読者なら、きっとそう感じられることでしょう。

「まさか。わたしが一番、いらないものだよ」
 そう、どんなものよりも。わたしにとってはわたしが一番いらないものだ。一番執着がなくて、一番どうなってもいいもので、できるものならすぐにでも消えたっていいと思っている。

なんという自己肯定感の低さ!ここまで自暴自棄にはなれないにしても、
思春期の若者なら、誰しも一度はそんなふうにカッコつけてみたいはず。
そうでもないか。

ただし、現実の世界でそんなツイートしようものなら
「なら、消えろ」と書きこまれるのがオチかもしれませんが。

この世界で何ひとつ、大切なものなんて見つけられなかった
そう過去を振り返るトーマの孤独も、なかなかのものでした。

「…ただ時間が過ぎるだけの毎日を過ごしていたんだ。そのときのおれにとって、未来を考えることは何よりも恐ろしいことで、だからずっと目を瞑(つむ)っていたし、耳を塞(ふさ)いでた。昨日が消えて、景色が変わって、何もしないのに勝手に明日を迎えることが、本当に嫌で、本当に怖かったんだ」

弟の死を「わかりたくなかった」コハルも、
何も変わらないと「わかっていた」はずのトーマも、
ひとりで何もできないでいる、どこにでもいる若者なのです。

だからこそ読者も、彼らの孤独に同情を寄せ
その感傷に共感したり、感情移入できるわけですね。

◆ちょっとおバカなヒロイン

若い読者に共感してもらうためには、
主人公の精神年齢や生活感が読者に近い方がいい。

というのが、ラノベの法則かどうかわかりませんが、
この物語のヒロイン、時間が止まってしまったコハルは、
いわば、成長を止めてしまった女の子です。
25歳という設定年齢は、あんまり意味がない。

一人暮らしをしているけれど料理は苦手、
ふだんからまともな食事はしてないようだし、
トーマに対しても口が悪かったりします。

もう十分大人だっての。
なんて、本人は思ってるようですが。

コハルは、男を見る目がありません。
高校卒業直後に、つきあっていた先輩にフラれて
家出をしたこともあります。

…傷心旅行かなんだか知らないけれど、こんなわけのわからないところに突然やって来て、馬鹿か、お前は馬鹿か、メロドラマの見すぎだ、今どきフラれたショックで旅に出るなんてそんな陳腐な奴どこにも居ないよ。しかもよくよく考えれば地元まで戻る電車賃も残っていないし。携帯も家に置いて来たし。

はっきり言えば、コハルは思慮の浅いバカな女の子として設定されています。
(反対に弟のハルカは、しっかり者で姉をいつも助けてくれました)

ま、ひとくちにバカといっても、
愛すべきバカと、人を不快にさせるバカがいまして。

たとえば、弟のハルカが笑いながら姉にむかって
馬鹿だな、コハル
という場合は、前者の愛すべきバカ。

小学生のときにコハルがケンカした相手、
ガキ大将はとにかく自分が勝てばよしという心底馬鹿なガキだった。
こちらの場合は、後者のバカですね。

いずれにせよ、この作品『春となりを待つきみへ』は
私たち読者と同じか、あるいはもっとバカな女の子が
「救われる」話なのです。

親鸞の“悪人正機説”は、どんな悪人も救われると説きますが、
この作品では、どんなにバカでも救われる。
否、バカだからこそ救われなければならないのです。

 ねぇ、ハルカ。やっぱりわたしは馬鹿だよね。ずっとひとりだなんて思って、くだらない意地を張って。臆病なだけだったんだよ、ただの強がりな。ひとりじゃ何にもできないくせに、ひとりで何でもできるって思い込もうとしてた。

主人公のコハルは、大切なものを失い、一人ですねている子どもでした。

それが、子どものようにただ待っているだけで、
どこからか救いの手が差し伸べられ、状況は一転し、
あふれだす感動の涙でスッキリと癒されるのです。

読者は(自分と同じくらいに)愚かな彼女を見守りつつ、
安心して共感し、ささやかな癒しの夢を見ることができます。

◆時計じかけの神(デウス・エクス・マキナ)

この物語のなかで、コハルの双子の弟であるハルカは、
「時計じかけの神」の役割を果たしています。

「時計じかけの神(デウス・エクス・マキナ)」とは、
古代ギリシャ以来の作劇法の一つで、物語の中に
「超越的な力をもつ存在(神)」が現われ、
すべてを救って、物語を解決に導くという手法です。

物語では、事故死した“ハルカの心臓”がトーマに贈られます。
その贈り物はトーマを救い、(まるで使徒をつかわすように)
姉のコハルのもとへとトーマを導く役割を果たし、
それによってドミノ倒しのように、コハルも救われます。

起点になっているのは、ハルカの“贈与の精神”です。

幼い頃から、姉のコハル(♀)がどこで迷っていようと、
必ず見つけ出してくれたのは弟のハルカでした。

迷える子羊を導く神。死後に復活して、現われる奇跡。
この作品は、そんな疑似神話のような構造を持っています。

 迷うこともあるかもね。また立ち止まっちゃうことだってあるかもね。だけどきみがそこから見守っていてくれるなら、わたしはきっとまた歩ける。そして、きみの代わりにわたしの手を引いてくれる人と一緒に、きみと歩いた道の続きを進む。

たとえば、この「きみ」を「神」と置き換えれば、
まるで教会のゴスペルの歌詞のようです。
「神が天国から見守っていてくれるから、
わたしはきっとまた歩き出せる」みたいな。

◆これからのコハルがちょっと心配

ふたたび時間の流れはじめたコハルは、この先、どうなるのでしょうか。

ラストの第七章を読むと、ちょっと心配です。
なぜなら、あいかわらず受け身で、自己チューなままだからです。

そして、きみの代わりに
わたしの手を引いてくれる人と一緒に、
きみと歩いた道の続きを進む

「手を引いてくれる人」って、あくまで相手まかせなんですね。
弟の代わりに助けてくれる男を見つけたような口ぶりです。

自分から何かをしてあげる、そんな発想がコハルにはありません。
弟の“贈与の精神”で救われたのに。

わたしはいつだってひとりじゃない
救われたコハルは、そんな満足感でいっぱいです。
でも、となりに居てくれる冬眞(トーマ)に
自分が甘えているだけかもしれないとは、
コハルは決して考えないのです。

物語のラストシーンで、コハルは冬眞と一緒に
弟・ハルカのお墓参りをしています。

一緒に両親に会っていい?」とたずねた冬眞に対して
コハルときたら、お婿さんを連れて来たと思われるから
絶対やだ」と答えます。

 そんな勘違いされたら困るし、非常に面倒くさい。ハルカの心臓を受け取った相手なら確かにうちの両親も会いたがるだろうけれど、冬眞がその人物だと理解するまでに、たぶん、たくさんの面倒な質問を乗り越えなければいけない
「いいじゃん、そう思われたって」
「よくないよ馬鹿。あんたなんか嫌だ」

コハルは相手に何をしてあげるかよりも、
自分がどう思われるかを気にする女の子なのです。
面倒くさいことはしたくない。そのくせ、
いつも誰かに見守っていてほしい、
いつも誰かに手を引いてほしい女の子なのです。

これまでの出来事を振り返り、恩人である冬眞(トーマ)に
心からの「ありがとう」を言ったすぐ後で、
コハルは本人を前にしてこんなことを思います。

 もしかしたらと思う。もしかしたら、きっと、冬眞はハルカからわたしへの、最後の誕生日プレゼントだったのかもしれない。

こいつ、自分がしてもらうことばっかだな、と思ったら
さらにすぐ後、こんな頼みをヘーゼンと言ってのけました。

「会いに来てくれる?」
「ああ。瑚春が呼ぶならいつだっていくよ」
「どこにだって?」
「遠くの星の裏側にだって」
「すぐに来る?」
「飛んでいく」

バカっ!
お前ら、まとめてバカっ!

どんだけワガママなんだ、この女は。
どんだけ優し過ぎるんだ、この男は。

でも、そんな甘いイチャイチャが許されるのも
ファンタジーの世界ならではか、と思いなおしました。
私が浅はかだった。

たとえば、2006年の細田守監督のアニメ映画
『時をかける少女』の有名な別れのシーンでは、
男の子の千昭(チアキ)が未来で待っていて、
女の子の真琴(マコト)が、すぐに行くと言う。

セリフはこんな感じでした。

千昭:「未来で待ってる。」
真琴:「うん、すぐ行く…走って行く!」

あー、やっぱりいいですね。
それにくらべて、25歳のコハルちゃんは、
すぐに来る?」と男を試そうとするんですね。
なんだか、ヤな女になっていきそうな予感…。


(追記)偶然だと思いますが、
『時をかける少女』の主題歌は奥華子の「ガーネット」。
そして『春となりを待つきみへ』の旧題も
「ガーネット」だったと作者あとがきで知りました。