"猥雑な現実"にとり囲まれて。
『桃尻娘』
著者: 橋本治、講談社文庫(1981年) ※絶版

◆時代を映す青春エンタメ小説

小説を読んで「わぁ、これ面白い!」と、はじめて感動した作品が橋本治の『桃尻娘』だった。冒頭の1行目から衝撃を受け、その独特な一人称の語りにグイグイ引き込まれていったことを、今でもありありと覚えている。

「大きな声じゃ言えないけど、あたし、この頃お酒っておいしいなって思うの。黙っててよ、一応ヤバイんだから。」

主人公の高校生たちは、明らかに一般的なモラル、常識を逸脱している、というか逸脱したがっている。高校生らしく「ない」、女の子らしく「ない」、男らしく「ない」、こどもでは「ない」、おとなでも「ない」、なんでも「ない」…。ただお仕着せの "青春"にハマらないところが、彼らの存在理由だとも言える。そもそも"正しい青春"なんてあるのだろうか?

青春小説というと、たいてい「読んだ後に爽やかな風が吹くような感動」なんて形容がついて回るが、この作品で描かれる"青春"は、実に猥雑でナマナマしい。学校の先生や親が眉をひそめるようなセリフもバンバン飛び出てくる。その過激さが本書の魅力でもある。文庫本の著者あとがきによれば、

何故に私がしつこく猥雑にこだわるかといえば、それが"現実"だからです。大体、"青春"ていえば現実無視して平気でいられるっていう思想が僕は気にいらないんだよネ。だから僕はポルノまがいの題名をつける訳でサ、でも目指す所は飽くまでもアンチ・ポルノなんだけど、以上。(橋本治)

この小説では"桃尻娘"こと、ヒロインの榊原玲奈(さかきばら・れな)を中心に、高校1年生の2学期から大学受験までの高校生活が描かれる。「不良になるには理性があり過ぎるし、真面目になるには柔軟過ぎるし、こんな娘はどうすりゃいいの?」と語る彼女のプロフィールを紹介しよう。

◆<1年C組34番 榊原玲奈> 
東京都内の団地に住み、都立高校に通う(生物部に所属)。初体験は高1のとき(相手は大学生)。学校の成績はいい方(高3の時の第一志望は早稲田大)。映画&読書好きでスタンダールから筒井康隆、サガン、マンガ雑誌までを乱読。女同士で群れるのが大嫌い。悪口を言わせたらバツグンの才能を発揮する…。ちなみに "桃尻娘"というあだ名は、ピンク色のコットンパンツをはいて遠足に行った日に男子生徒につけられた。

アン時僕らネ、あの下で弁当喰ってたのネ、そしたらキミがあの上来てサ、ヒョコッと坐ってサ、カッコつけてんじゃない、こっちにお尻むけてサ。何だろと思って見てたんだよねネ。そしたらサ、山科が"モモジリ"って言ったんだ、"桃"の"お尻"、あんまりピッタリだったからサ、そんで"桃尻娘"って言うの。

同じクラスの木川田クンからその話を聞いた榊原サンは、思わず「ギャー!!」と叫ぶほどのショックを受け、「アア、あたしのこれまでの苦労も水の泡だ。あたしのプライドがイカダに乗って流れてくわ。」と嘆く。

この作品は5つのパートで構成されていて、"桃尻娘"の榊原サンのほか、3人の個性的な同級生が各章の主役として登場する。それぞれの性格を表す引用文とともに紹介すると…。

◆「無花果少年(いちぢく・ボーイ)」
:中学生の時に女子高生に強姦された美少年の磯村クン。

一体大学はどこ行くのか、大学行ってその先どうなるのかとか、そういうことを全部決めたい訳、自分で。でも困るのは、今僕がそんなこと決めなくたって全然構わないってことなんだ。つまり、そういうことを決めなくちゃいけないのかどうかをまず決めなくちゃならないのかどうかも分らないって事サ。
今なんか何にも決める必要がないのにサ、それでもズッと先なんかは決ってるんだぜ、"たかが知れてる"ってことに。たかが知れてたっていいけどサ、じゃそういうことはいつ決ったんだよなア、僕は何にも決めてないもんねえ。

◆「瓜売小僧(ウリウリぼうや)」
:バスケ部の滝上センパイに恋をしているホモの木川田クン。

俺なんか"滝上圭介"って字書くだけでキューンとなっちゃってサ、…俺、先輩の字見てるだけで涙が出て来ちゃうんだよネ。そんでサ、ありっこないんだけどサ、ノートのどっかにひょっとして"源一"って僕の名前が書いてあんじゃないかとか、思ったりしてサ……当然ないけどよ。俺、三日間そのノート枕の下に入れて寝てたよ。いつも先輩のこと考えて寝るんだ、そんで起きると先輩の名前ンとこに頬っぺたくっつけて「おはよう」って言うんだ。大好きだよオ、センパアーイィィ。

◆「温州蜜柑姫(おみかんひめ)」
:"おとなし城のグズリ姫"こと、無邪気で妖艶な醒井サン。

(榊原玲奈談→)おまけに凉子姫は、あたしが「パティ・スミスなんか自分のLPの写真に平気で腋毛生やかしてるわよオ」って言ったもんだから、おっかなびっくりレコード屋に飛んでってニューヨーク・パンクの女王のレコード買い込んで来て――レコード屋で男の子に「キミ、パティよく聞くの?」って声かけられたんだって、よかったよかった!!
――「わたし『牡馬』って、好きよ」って、聞きようによってはスゴイこと言うし、こないだなんか先生が来るまで教室で「紳士用トイレへようこそ」なんてこっそり英語で唄ってるのよ。またあの人リズム感ゼロだからさア、パティ・スミスなんて結構合ったりするのよネ、不思議と。

この3人の章に、玲奈が高1の時の「桃尻娘」、高2の時の「菴摩羅HOUSE(まんごおハウス)」を合わせて5つの章から成っている。しかし、これらのタイトルの響きはどうだろう。「ももじり、いちぢく、うりうり、まんごお、おみかん」である。まさに猥雑そのもの(笑)。
また、この作品は全編を通じて登場人物の独白(モノローグ)からなる一人称小説となっているが、その事情について作者は、最近の対談でこんな風にバラしている。

「小説って舞台装置がないじゃないですか。…なんにもないから、いきなり三人称で書く自信なかったんですよ。一人称になってしまえば、その主人公に商品価値がありさえすれば通るなという、かなり下劣な考え方でやって、そうすると、なんにも見えないんだから、主人公をどんどん立体化していって、彼女が見ているものを、背景として拾い出していくしかない。
(対談『橋本治と内田樹』筑摩書房)

◆太宰治の『女生徒』と比較してみる

ところで。
女学生が主人公の一人称小説といえば、太宰治の短編小説『女生徒』(1939年)が有名だ。当時の文芸時評で川端康成らから激賞され、太宰の代表作の一つとなった作品であるが、『桃尻娘』と読み比べてみて、時代が求めるキャラの違いを比較してみるのも面白いと思う。

ちょっと、太宰の『女生徒』から引用してみよう。こんな文体である。

朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。朝の私は一ばん醜い。両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。熟睡していないせいかしら。朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。
朝は、意地悪。

(『女生徒』太宰治)

「身悶えしちゃう」って言われても…。そういえば、女性の一人称小説といえば「あたし〜なんです」の宇能鴻一郎も有名である(笑)。男が女のふりをして書くのは、古くは紀貫之『土佐日記』から純文学、ポルノまで実に長い伝統がある。

私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。誰も教えて呉れないのだ。(『女生徒』太宰治)

実は、この「大人になりきるまでの、この長い嫌な期間」というのは "桃尻娘"の榊原サンにも共通の思いである。大きく違うのは、『女生徒』の語り手は内向的かつ感傷的な性格で、一方の『桃尻娘』は、現実に対する不満が悪口となって外に向うという点である。

また『女生徒』の方は、川端康成をはじめ多くの批評家に誉められ、可愛がられたようだが、『桃尻娘』の方はというと「あたしはオジサン達に、多分、嫌われてると思う。オジサン達の好きな若い娘はあたしみたいなタイプじゃないんだもん。そんできっと、あたしみたいじゃない女の子ばっかりなのよねェ、この世の中は。」と冷静に分析している。

ヒロインの玲奈は、世間一般の常識や価値観に違和を感じている。「○○らしく」といったステレオタイプな個性を押しつけ、お仕着せの理想にはめようとする社会に異議を申し立てる。

高校生っていえば"お勉強"しかなくって、女の子っていえば"純潔"しかなくって、どうしてそんなつまんないものしかあたしにはないの? あたしが他の"何か"であっちゃどうしていけないの? あたしは絶対そんな役に立つ物なんかになりたくないんだ。あたしは唯の"実用品"になんかなりたくないんだ。だからあたしは、だからあたしはどんな事があったって、意地でも今日は海を見に行くんだ。
 海に行ったって何にもあることないのに決ってるけど、でもやっぱりあたしは、一人で行くんだ。

(『桃尻娘』橋本治)

しかしながら、彼女はまだ、そんな現実を眺めているだけの子供である。著者の橋本治はこの作品についてこんな発言をしている。

「私は別のところで、『桃尻娘』一冊は、まだ青春小説になっていないと言いました。なってないんです。何故かと言えば、あれは5種類の自己告白で、内的ドラマがあるとはいえ、まだどの主人公も、他人との関わりを持ってないから。そしてドラマ(ストーリー)とは、他人との関わりを持てる人間が、いろいろの他人と、関わりを持って行く経過であると私は思っているものですから、私はあれがまだ児童小説でしかないと思ってるんです(正確には児童ブンガクかな)。」
(「僕が青春小説をやるならば」『よくない文章読本』橋本治)

◆知と笑いのブリコラージュ

はたして、この作品にテーマなどあるのだろうか?そんな退屈な「小説らしさ」から免れていることが、この小説の魅力であるようにも思える。
文庫本の著者あとがきには、題名につけた"桃尻"という言葉の由来が語られている。

出典は、久生十蘭作『我が家の楽園』、即ち――「細紐一本の長女さまが縁側にすえた七輪を桃尻になってあおいでいるのを、古褞袍(どてら)の重ね着で、踵の皮をむしりながら、平気でながめていられる」…

久生十蘭(ひさおじゅうらん)の名を知る読者はどれほどいるだろう。むろん私も知らなかった(笑)。橋本治は久生十蘭について論じた文章のなかでこんなことを言っている。

「この日本には、なんとなく二つの文学史があるように思われる。一つは国文学研究者が著わすところの成文化された文学史、もう一つは未だに文章化されていないクチコミによる文学史。そして久生十蘭の属するものは当然にして後者である。」
(「雨戸を閉めて――久生十蘭について」『とうに涅槃を過ぎて』)

この『桃尻娘』でデビューを飾って以来、批評家や研究者から無視され続ける橋本治も、当然のことながら後者の系譜に属する作家であろう。「文学」などという制度やジャンルにこだわることなく、面白くなるのであれば何でも利用する ブリコラージュ的な手法でテキストを編み上げていくタイプの作家である。
※ブリコラージュ:寄せ集めて何かを作ること。器用仕事。

橋本自身が先達だと仰ぐ鶴屋南北近松門左衛門など、江戸の浄瑠璃や歌舞伎狂言の作者もみなそうであった。氏の手にかかると、高校生でも知っている(?)有名なブンガク作品もこんな風に料理される。

終末の長い休日を抜けると現実であった。
(これワリと気に入ってんだよネ)現実の底が白けた。
(イラストレイターなんかになれりゃいいのになア)同時に電車が止った。向側の電車から娘が降りて来て、磯村の前の希望を蹴飛ばした。時ならぬ冷気が流れこんだ。娘は耳許で叫ぶように、
「イッちゃあん、おはようございます」
視線を避けてゆっくり歩を進めてきた男は怒りで鼻の頭まで赤くなり、
「ああ、モモちゃんじゃないか。また嫌なヤツに会ったよ」

「無花果少年(いちぢく・ボーイ)」『桃尻娘』

引用文中のイッちゃんとは"いちぢく・ボーイ"の磯村くん、モモちゃんとは、"桃尻娘"の榊原さんのことである。ちなみに、ホンモノの『雪国』(by川端康成)の冒頭はこうだ。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」

この磯村クンが、おばさんの家で庭の無花果(イチジク)の木に登っているときには、山村暮鳥の詩「雲」の一節が「オーイ雲よオ、どこまで行くんかア――」と、口をついて出てくるし、"瓜売小僧(うりうりこぞう)"の木川田クンが街頭で出くわした選挙立候補者の演説には『万葉集』の有名な歌「瓜食(は)めば子ども思ほゆ…」(by山上憶良)が引用される。言うまでもなく"瓜"つながりの洒落である。

また、木川田クンがホモのオジサンにつきまとわれるエピソードで、「…要するに源ちゃんはそのオジサンの"死んだ恋人"に瓜二つで(この世の話とも思えないわ)前からしつこく言い寄られていたのを趣味じゃないからって断ってたんだけど…」と榊原サンが説明するのだが、これは歌舞伎の『桜姫東文章』(by鶴屋南北)のなかで、僧・清玄(せいげん)が生前に契りを交わした稚児・白菊丸の生まれ変わりである桜姫に、幽霊になった後もしつこくつきまとうエピソードを下敷きにしていると思われる。

◆意味と無意味の模様編み

別に文学作品のパロディに限るわけではない。マンガ、ファッション、音楽、芸能、映画…などなど、さまざまな固有名詞が、登場人物の性格づけや、各シーンの効果的な味付けとして機能している。その統一感のなさといったら!この猥雑さこそ、『桃尻娘』の現実であり、青春なのだ。
幾つか例をあげてみよう。

榊原サンから見れば、木川田クンが恋する滝上センパイは「草刈正雄の胴体に菅原文太の顔が乗ってる」ような男だし、その木川田クンは「梓みちよ田中角栄を一緒にしたみたいな顔」のオジサンからラブレターをもらう。美少年の磯村クンは、榊原サンから少女マンガ『風と木の詩』の登場人物になぞらえられる。

言うんならせめて、「ボク時々太陽がコワクなるんだ」ぐらいにしてよ、ジルベール。あんたの顔から見ると、使い込みしない経理課長は美少年の挫折したもんだと思うわ。あたしも詩人ネ、こんな訳のわかんない事言ってんだから。

その磯村クンは一橋大に通っている兄をみてこんな風に思う。

それなのにさァ、大学生なんか自分達だけヤングだなんて顔して『メンクラ』とか『チェック・メイト』みたいな陽の当る場所占領してサ、どうせ僕等は『高二コース』だよォ。

磯村クンの名前は「薫(かおる)」で兄の名前は「尚治(しょうじ)」。兄弟合わせると、庄司 薫(しょうじかおる)。『赤頭巾ちゃん気をつけて』という有名な青春小説の作者である。作品中でも磯村クンのおばさんから「カオルチャン、気をつけて歩かないと赤頭巾チャンに逃げられるよ」と言われるシーンがある。

その磯村クンの兄が部屋で彼女と聞いている音楽はといえば、映画『ある愛の歌』のテーマ曲で知られるフランシス・レイ。薫クンいわく、

ポール・モーリアとかフランシス・レイばっか聞いてるとあんなにバカになるんだよな、決ってらア。

一方、榊原サンは気のきいた音楽を流す喫茶店をこう説明する。

『ホテル・カリフォルニア』だって、あんなに流行する前は結構かけてたんだけど、どこでもかけるようになるとピタッと止めちゃうくらいに格調高くて、あたしも好きだったからチョット寂しかったけど、でもそれだけ筋を通してるとやっぱり尊敬はしちゃう。

受験を控えた高校3年生の夏、榊原サンはフランスの作家にまで八つ当たり(笑)

「その夏、私は十七だった」って、フランソワーズ・サガンが威張ってたわ。いいわよネ、フランス人は気楽でサ、「その夏」で「十七」で、「悲しみよ こんにちは」だもんね。あたしだって、この夏チャンと十七だったわ。でも、高等学校三年生だっていう正体のバレてる日本娘が十七だったからって、別に自慢にも何にもなりゃしないのよネ、決ってるわ。

頭のよさを自慢したがる松村クンが書く文章のタイトルは『三里塚世界革命に於けるマカロニほうれん荘症候群』だし、難しい本の話で榊原サンを口説こうとするものの、それを見ていた木川田クンからこっそりとバカにされている。

「榊原さんサ、筒井もいいけど、ホッケなんか読まないの君は?」
「ホッケ?」
『迷宮としての世界』だよ、知らない? マニエリスムの本」
「松村クン、あなたって難しい本読んでんのねエ」
「別にそんなことないよ」
でもそれが自慢だったりして。
「君、読みたかったら今度貸すよ」
それを口実に接近したかったりして。
「別にいいわ」
まんまとふられたりして。

そんな松村クンを好きになるトンチンカンな醒井サンに、榊原サンはこう忠告する

あなたがパティ・スミス好きだって言ったら、もう延々とその話が続くから。パティにおけるランボーなんていうのから始まって、パティに於ける『一、二のアッホ』まで飛んじゃうわよ、そんなのに一生付き合ってける?

作品中には友達同士で言い合いをするシーンがあるが、たとえば榊原サンと木川田クンの口喧嘩(というより、じゃれあい)はこんな感じ。

「それよりあんた、行くんだったら東宝の撮影所行ったら」
「アア、友和の代役ネ」
「違うわよ、ゴジラの息子よ」
「じゃア自分は怪談乳房榎(ちぶさえのき)かよオ」
「なんだってあたしがそんなもんになんなきゃいけないのよオ、あんたでしょオ南部牛追いオカマは」
「そんならおのれは怪談河内音頭じゃ」
「なんでいちいち怪談がつくのよオ」
「顔に書いたるじゃん」
「あんたア、やる気イ」
「やんないよォ、体力で負けるもン」

『怪談乳房榎(ちぶさえのき)』から『南部牛追いオカマ』、そして『怪談河内音頭』へ。この唐突な言葉の邂逅によるナンセンスな笑い。予想を超えた意味と無意味の体当たりすれすれ娘な感じが、橋本治の面目躍如たるところである。って、いったい何を言ってんだ私は。とにかく、こういう場面、私は大好きだ。

◆無差別テロのような毒舌

『桃尻娘』の大きな魅力の一つは、なんといってもヒロイン榊原サンの毒舌であろう。その怒りの矛先は、周囲のあらゆる人物に向かって容赦がない。まるで無差別テロのような彼女の毒舌をいくつか並べてみよう。

ABCなんて無意味にかっこつけて、「だめよ」って言いながらチョッとずつ許してくのよネ、チョッとずつ確実に、高校生らしく節度を持って。でも、やりたくなると絶対に"愛"を持ち出して来たりして。今からOLみたいな真似してどうすんのかしら。そんで最後には、「だめよ、こわいわ」って言って、あたしン所に来るんだ、「ねえねえ怜奈(れな)」って。そしてそれはH・R(ホームルーム)で「男女交際について」をやった日で、昼休みの校舎の蔭なんだ、陳腐なのは顔だけにして欲しい。

◆(磯村くん談)形容詞っていえば「可愛い」しかなくって、人のズボン脱がしても「カアワイイ」だし、靴屋のウィンドウのぞいたって「カワイイッ」だろ、本当にバカなんだ。こんなこと榊原に話したら原稿用紙三枚分ぐらいの形容詞くっつけてあの女のこと罵倒すると思うよ。

だってあんなに平然とブスさらけ出して、しかもナウで誤魔化してるなんてさア、そんなみっともないこと出来ないわ、あたし。 ナウならナウだっていいけど、それなら一々人に「あたしはナウなんだから尊敬しろ」って、威張り散らす必要はないと思うの。そうでしょ?

それと、団地マラソン部隊婦人班。豚だわ。…みっともない。止めてよ。ホントにみっともないッ!どうして?どうしてどうしてどうして、あんなに女は群れてばっかりいるの?イヤッイヤッイヤ、絶対イヤッ! あんなに太ったお腹突き出してヨチヨチ走るの、あたしは絶対イヤッ!

あたしがこんなこと言い出せばどうせサ、「ママは別にそんなにまでしてあなたに大学行って貰おうとは思ってないの」って言い出してサ、「じゃ、よかったわネ、そこで手エ打ちましょうよ」ってあたしが言い出す前に、「でもネ」って言って、「後で後悔しない?」から「よその人は」、「人並に」って変ってくでしょ。それでいつも主語は「あなたが」で、「あなたが」「あなたが」「あなたが」って百遍も言えばそれがあたしの事になるとでも思ってるらしいけど、「あなたが」っていうのは、いつも自分の事でしょう、違うの?

いったい榊原サンはなぜこんなに怒ってるのか?この若者特有の"苛立ち"に、理屈抜きで共感できない人間には、たぶんこの小説は楽しめない。(幸福な高校生活でよかったネ)。ただ、たしかに面白い作品ではあるけれど、現実を生きている高校生には何とも言えない読後感が残ることも確かである。なぜなら、ページを閉じた後に待っているのは、進学や就職といういレールが敷かれた味気ない現実だからである。

作品の結末で、玲奈チャンは大学の入試にきれいさっぱり全部落っこちる…。
続編である『その後の仁義なき桃尻娘』のなかで、大学生になった磯村クン(無花果少年)が高校時代を振り返って、こんなことを思う。

ホント、なんにも考えてなかったんだ、高校ン時。
考えられないのね、頭ン中ボーッっとして来て。
なんかサァ、もの考えようとすんのよ。そうすっとサァ、なァーんも考えらんなくなっちゃうの。なんていうのかな、これから自分どうすんのかなァとか、こんなことやっててなんになるんかなァとか考えてると、もう、考えるより先にムラムラーッって来ちゃうのね。なんかしんないけど、ホント、怒り狂ってるというかサ、バカヤロォッ!!というかサ、なんかそういうことばっかりなのね。頭ン中で棒棒鳥が鳴いてんだから。アー、ホント、思い出すだけで頭に来る。
なんか知んないけどサ、僕、ホント怒ってばっかいたんだ、高校ン時。人からはどう見えてたかは知んないけど。

言葉を持たない若者の内面とは、こんなものだ。自分の思いをうまく表出できず、ややこしい現実を切り分けることもできない。要するに鬱屈しているのだ。ヒロインの榊原サンにしても、ブーブー文句を言ってるだけで、問題は何ひとつ解決されていないのだ。

一見ハチャメチャに見える主人公たちを「それでもいいんだよ」と肯定し、生かしてやろうとする作者の愛情が、この作品に続くシリーズ全体を貫いて流れている。「ボヴァリー夫人は私だ。」とフローベールが言ったのなら「榊原玲奈は私だ」と橋本治だって言っただろう。知らないけど。

作者自ら「まだ青春小説にはなっていない」と語った『桃尻娘』は、10年余りの歳月をかけて全六部の大河シリーズ小説へと成長し、主人公たちがそれぞれの青春を完結させることになる。たとえば、第三部『帰ってきた桃尻娘』で榊原サンは大学生となり、失恋をしてこんなセリフを漏らす。

一人で言葉だけ吐き出してて、いつまでもそのまんまで、たった一人でつかまえられない言葉つかまえようとして、いつだっていつだって放っぽり出されてる。
いつだっていつだって――。
ズーッと私は一人ぼっちなんだ。 

情けなくて情けなくて涙が出て来る。
口ばっかりでなんにも出来ない。
ズーッと口ばっかりでなんにも出来なかった。

あの、ブーブー文句ばかり言ってた榊原サンが、である。人を好きになるというのは、自分を見つけるというプロセスでもある。そんな作者の思いがナンダカンダあって彼女を成長させ、第五部の『無花果少年と桃尻娘』では「なんだか知らない、でももう、全部終わった!全部終わって、もう一遍全部始まる!!」との思いを抱えて、お嫁に行かせることになる。
今の高校生が読んだらどんな感想を持つかわからないが、もう青春を終えてしまった大人こそ、余裕をもって懐かしく読み返せる作品なのかもしれない。「桃尻娘」シリーズ(全六部)のタイトルは以下の通り。

『桃尻娘』(1978)
  「桃尻娘 ももじりむすめ」
  「無花果少年 いちぢく・ボーイ」
  「菴摩羅HOUSE まんごおハウス」
  「瓜売小僧 ウリウリぼうや」
  「温州蜜柑姫 おみかんひめ」

『その後の仁義なき桃尻娘』(1983)
  「その後の仁義なき桃尻娘」
  「大学版番外地 唐獅子南瓜」
  「温州蜜柑姫 鉄火場勝負」
  「瓜売小僧 仁義通します」
  「無花果少年 戦後最大の花会」
  「桃尻娘 東京代理戦争」

『帰って来た桃尻娘』(1984)
  「プロローグ――帰って来る桃尻娘」
  「帰ってきた桃尻娘」
  「大学の桃尻娘」
  「エレキの桃尻娘」
  「レッツゴー桃尻娘」

『無花果少年と瓜売小僧』(1985)
  「無花果少年と瓜売小僧」

『無花果少年と桃尻娘』(1988)
  「赤い夕陽の無花果少年達」
  「海を見ていた桃尻娘」
  「無花果少年と桃尻娘」
  「無花果少年、東京に現る」
  「もう桃尻はつかない」
  「振り返れば無花果の森」

『雨の温州蜜柑姫』(1990)
  「雨の温州蜜柑姫」
  「夜の温州蜜柑姫」
  「春の温州蜜柑姫」
  「扉を開ける温州蜜柑姫」
  「港が見える温州蜜柑姫」

以上、講談社文庫から出ていたが、すべて絶版である。残念ッ!

学校の先生は、あたし達が本読まない、なんてことは言うけどサ、ザーンネンでした。読んでる子は読んでますゥだ。ただ、あたし達の読んでる本は先生が読まないで、先生達が読めっていうような本はあたし達が読まないっていう、それだけでーす、だ。
(『帰って来た桃尻娘』)