(No.003)
ものぐさ精神分析
岸田 秀(きしだ・しゅう)
中公文庫(1882)/単行本:青土社(1977)
◆岸田秀の理論(唯幻論)の受容

◎伊丹十三(いたみ・じゅうぞう) (映画監督、俳優、エッセイスト)

『ものぐさ精神分析』は、私にとって特別な本である。本屋の書棚で、全く偶然、何の予備知識もなく、岸田秀という未知の名前を冠したこの本に出会い、渋澤龍彦氏の帯の文句に惹かれて買い求め、半信半疑の面持ちで読み進むうち、いつしか私の存在の一番深いところで共鳴が始まり、遂に「わたしの原点」という文章の、母親を語った個所に行き当たった時、私は自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、目の眩むような強い光が射しこむのを感じ始めたのである。世界が、俄かにくっきりと見えるのを私は感じた。私は、自分自身が確かに自分自身の中から手を伸ばして世界をつかみとっているのを実感し、驚きと喜びに打ち震えた。 
(『ものぐさ精神分析』解説1982年) 

橋本治の小説『帰って来た桃尻娘』のヒロインの独白

 私、ホントのこと言うと、初めは和光大学に行こうと思ってたんですね。どうしてかっていうと、そこには岸田秀がいるから――。私、中学ン時に『ものぐさ精神分析』っていう本読んで、訳分んないとこもあったけど、ともかくガーン! と来たんですね。「そうだ、そうなんだ、私の思ってたことってそうなんだ」って、そう思ったんですね。高校入ってからも何遍か読んだし。読んでみて、やっぱりスゴイとかって思って、それで、和光大学行ってみようかなって思ったんですね、この先生がいるからって。

…よく考えたらサ、岸田先生って、早稲田の学生だったのよね。早稲田の心理学出ててサ、それで和光大学の教授になったのよね。それでサ、あたし「そうかァ」とか思って、…「早稲田の心理学行って、私も岸田先生みたいな立派な人になろう」と思ったんです。笑われるかもしんないけど、でも、こう思った私は、マジで本気でした。本気だったし、やっぱこういう風に大学決めたっていいと思うし、他の人はどうかは知らないけど、私なんかにしてみれば、大学行くことを決めるっていうのはこういうことでしかないんだと思う。
(橋本治『帰って来た桃尻娘』 1984年)

中島梓(なかじま・あずさ)の評論のまえがき

尊敬する岸田秀さんが、その著書のなかで、「なぜ心理学をやるかといえば、自分自身の苦しさから逃れたくてである」という意味のことを書いておられるが、これがまったく私にとってもそのとおりで、私がこの本を書きたいと思った理由の90%はまず、自分がこのままではあまりにしんどい、と思ったからであった。…(このあと、読者はかなりひんぱんに岸田さんの名前におめにかかることになりそうな予感がする。それはしかたないのである。私はわりとよく人に私淑したり影響を受ける人間で、そしてこの本を書くに当っては岸田さんのほかやはり精神分析の木田恵子さんとか「魂の殺人」の著者であるアリス・ミラーなどの考え方に非常に影響されているのであるから。…)
(『コミュニケーション不全症候群』1991年)

◎日本を代表する仏教学者・三枝充悳(さいぐさ・みつよし)の発言

ぼく自身、いろいろな方面の仏教学を経験していますが、その上で眺めてみて、岸田さんのおっしゃっていることを、仏教のいろいろな場面・状況に当てはめて行くと、かなりうまく行きます。…非常に面白いんです。いままで、心理分析の本はかなり読みました。古くは相良さんや宮城さんのものなどから、近くは河合さんや小此木さんや岩井さんのものとか、日本人だけではなく、フロイトやユングなんかも少しは読んだけど、岸田さんのが、いちばん面白い。仏教で言っていることとあまり違わないことをおっしゃるから。
(岸田秀との対談『仏教と精神分析』 1997年)

◎思想家・内田樹(うちだ・たつる)による『ものぐさ精神分析』の紹介文

岸田秀がそのまことにオリジナルな「唯幻論」なる思想的利器をひっさげて登場したときの衝撃は今でも忘れることができない。巻頭の「日本近代を精神分析する」を一読して、読者は驚倒した。そこで岸田は、集団心理学というのは、個人の心理についての知見を集団に拡大適用したものではなく、まず集団心理が存在し、人の心理はそれを内面化したものにすぎないと、いきなり断定したからである。…四半世紀を経ても、岸田の唯幻論は少しも色あせていない。外的自己と内的自己をどう一つの人格の内に統合するかという国民的宿題に答えを出した人はまだいないからである。
(内田樹のブログ 2010年2月23日)

◎京大院生:三宅香帆(みやけ・かほ)の『ものぐさ精神分析』の紹介文

10 ものぐさ精神分析(岸田秀、中公文庫)
『コミュニケーション不全症候群』と一緒に読んで、本気で世界がひっくり返ったように見えた本。「今の自分が嫌いだから変えたい」「夢を持ちたい」そんな風に思ってる人に、「自己嫌悪の効用」を読んでほしいと言ったら意地悪だろうか。これを読めば、ディズニーも司馬遼太郎も信じられなくなる。日本とか自分に対して抱いていた幻想が何だったのかと思うようになる。だけどその代わり、確かに新しい世界が手に入る。

(三宅香帆(みやけ・かほ)『人生を狂わす名著50』 2018年)