(No.003)
ものぐさ精神分析
岸田 秀(きしだ・しゅう)
中公文庫(1882)/単行本:青土社(1977)
岸田理論(唯幻論)の基礎知識
◆フロイトの影響について
精神分析を学んで行く過程で、フロイトを受け入れながらも、フロイトが近代の理性にしがみついている点は、どうしても受け入れられないというところがある。ぼくは自分ではフロイト主義者で、正統的なフロイトのほうの立場に立っているつもりなんですけれども、フロイトのそういう点はどうも納得がいかない。だから、フロイトの納得のいかない点は削いで、ぼくなりに勝手に、フロイトの本当に言いたいことはここなんだ、というふうな立場でフロイトを理解して行こうとした結果、いまのような考え方になったということです。 (『仏教と精神分析』)
まず、人間は本能が壊れた動物であるというのがわたしの出発点である。本能とは行動規範であり、動物にせよ人間にせよ、生きてゆくためには何らかの行動規範が必要であるから、本能が壊れた人間は、本能の代用品として自我という行動規範をつくった。(『幻想の未来』)
自我とはつくりものの幻想であって、何ら実体的根拠のあるものではなく、自分の外に存在する(もちろん幻想として)何らかの存在(神、理念、世間など)に支えられる必要がある…(『幻想の未来』)
他者(母親、ついで父親その他)が「おまえは由緒あるわが家の跡取り息子だ」、「おまえは女の子だからこうしなければならない」、「おまえは日本人だ」などと、個人の自我を規定するとき、その規定は、伝統とか常識とかの既成の何らかの共同幻想、すなわち過去においてすでに形成されて伝わってきているものにもとづいており、この意味において、過去が自我を形づくると言える。これと対比して言えば、エスこそが現在である。…エスは流動する混沌であり、自我は安定した秩序である。(『幻想の未来』)
→ 自我エスといった概念は、もともとフロイトが発明したもの。
◆唯幻論のベースになった【心の構造と機能】
エス
(イド)
快楽原則に支配される精神エネルギーの源泉。ひたすら満足されることを求めて自我を駆り立て、満足されないと「神経症」という歪んだ形で意識に突出してきて自我を苦しめる。
自我
(エゴ)
エス超自我の調整役。知覚、想像、記憶、判断などによって、個体を保存するための現実原則に支配される。ただし、現実にはさまざまな障害があって、自我は不安や葛藤を抱え込む。
超自我
(スーパーエゴ)
自我が従うべき規範や理想などを突きつけ、モラルと規律を課す。超自我の要求に従えない自我を罰しようとするため、自我に道徳的不安や劣等感や罪悪感を生みだす。 
※岸田理論では、フロイドが「超自我」と呼んだ規範の機能も「自我」のなかに含める。
◆<私的幻想>と<共同幻想>
現実を見失った人間は、おのおの勝手な私的幻想の世界に住んでおり、ただ、各人の私的幻想を部分的に共同化して共同幻想を築き、この共同幻想をあたかも現実であるかのごとく扱い、この疑似現実を共同世界としてかろうじて各人のつながりを保ち、生きていっているに過ぎない。(『ものぐさ精神分析』)
集団と個人は共同幻想を介してつながっている。集団を支えているのも、個人を支えているのも共同幻想である。集団の共同幻想は、個人の私的幻想の共同化としてしか成立し得ず、個人はその私的幻想を共同化することによってしか個人となり得ない。したがって、集団の共同幻想は、個人の私的幻想の共同化された部分(超自我および自我)と一致する。(『ものぐさ精神分析』)
それ自体多くの矛盾を含み、ばらばらな多形妄想を全面的に共同化することは、いかなる集団においても不可能である。共同化とは構造化でもあるからである。当然、私的幻想のかなりの部分は共同化されずに残る。この部分は、フロイドがエスと呼んだところのものに相当する。(『ものぐさ精神分析』)
(『ものぐさ精神分析』より。一部加工)
共同幻想(A)、(B)、(C)は、どれかが正しく、どれかが誤っているというものではなく、A集団から見れば、(A)が現実であって、(B)と(C)は妄想であり、B集団から見れば、(B)が現実であって、(A)と(C)は妄想である(実際には、二つの集団のあいだで、それぞれの共同幻想に共同化している要素にまったく共通のものがないということはないだろうから、以上の図の場合のように、他の集団の幻想が全面的に妄想と見えることはないであろうが。) (『ものぐさ精神分析』)