【note:03】 アニメ作品の語られ方

マンガや小説を読んだり、アニメや映画を観て感動した!…となれば、
同じ作品に感動した人が書いたり、語っている資料を探して、
感動を共有したり、客観視したり、知識をひろげる楽しみがあります。

今回は、細田守(ほそだ・まもる)監督の映画『時をかける少女』(2006年)を
題材にして、アニメの語られ方(評価のポイント)を調べてみます。

(※以下、作品のネタバレの内容が含まれます)

まずは、この作品のDVDを紹介する文から。

『待ってられない未来がある。』
1965年の原作発表以来、幾度となく実写映像化されてきた「時をかける少女」が、
初めてアニメーション映画として登場!原作は筒井康隆の同名小説『時をかける少女』。
原作の映画化ではなく、原作の約20年後を舞台にした続編。
アニメーション版はこれまでになく、アクティヴで前向きな主人公が初夏の町を、
文字通り駆け抜けていく爽快な青春映画の決定版。

(通販サイトAmazonのDVD紹介文)

基本的な情報が短い文章でまとまっています。
作品の位置づけは「爽快な青春映画」だそうです。
さらにくわしく知りたい場合は、ウィキペデイアへGO。

カスタマーレビューやブログでも、個人的な感想や評価が
語られていますが、その多くは似たりよったりの意見や解釈です。

人気の高い作品の場合は、雑誌の特集号やガイドブックなどの
関連書籍が出版されることが多いので、好きな作品ができれば
そうした本を探してみてはどうでしょうか。
(絶版の場合は、古書のネット通販で検索する手もあります)

で、今回取り上げてみたテキストは、これ。
『BSアニメ夜話 Vol.09 時をかける少女』キネマ旬報社2008

「BSアニメ夜話」は2004〜2009年までの不定期放送で
「アニメに博識な人たちとゲストが、1つのアニメ作品を
様々な角度から語り合うトーク番組」
でした(byウィキペディア)

「時をかける少女」の放送回は、2007年6月28日
出演:岡田斗司夫/氷川竜介/加藤夏希/里匠アナウンサー
ゲスト:筒井康隆/江川達也/渡邊隆史

さて。アニメに詳しい人たちは、作品のどこに注目し、
どんなところを評価しているのでしょうか。

番組では出演者やゲストが、それぞれのお気に入りシーン
選んでいたので、その発言の一部を引用します。
(※この先は作品を観てない方にはわからないので悪しからず)


江川達也(えがわ・たつや):マンガ家・1961-(※生年)
<真琴(まこと)・千昭(ちあき)・功介(こうすけ)のキャッチボール>

「何気ないシーンなんですけどね。この普通の芝居をここまで丁寧に、こう投げるシーンとか。……これね、アニメーターがすごい優秀じゃないとできないんですよ。…リアリティプラス、観てても楽しいだけのデフォルメも、やや入っているんですよね。…(キャッチボールが)関係性を語ってますよね、三人のね」

作品冒頭から繰り返し描かれる3人での野球のシーンです。
こういう何でもないシーンを、きちんと評価するのはさすがですね。

ここでのリアリティというのは、真琴の女の子っぽい投げ方とか
バットの振り方といった動きが丁寧に描かれているということ。
デフォルメというのは、ボールが真琴の顔に当たって一瞬止まる、
といったアニメらしい誇張された表現のことです。
野球は投げる人、打つ人、守る人の3人がいないと成立しないし、
言葉のキャッチボールも、3人の関係をうまく表現しています。


氷川竜介(ひかわ・りゅうすけ):アニメ評論家1958-
<真琴のプリンを食べた妹とやりとりのシーン>

「このカットをコマ送りしてみるとですね、ただ腕と腕を組んでるだけじゃなく、ず〜っとずっと手を取ってて、向こうにいきつつまた戻りつつとか、ものすごく細かい枚数が入っているんです。それも影をなくすことで、あえて情報量を減らして……。」…「アニメ好きな人にとってはですね、『時かけ』のすごさは、こういうところが一番のみどころだったりするんですね。」

凄いですね。アニメ好きな人はコマ送りまでして確認するんですね。
氷川さんは、番組の中でアニメ表現の「影なし技法」について
くわしく紹介しています。こうした"技術論"の角度から
作品のクオリティを分析できるのは、専門家ならではの語りです。

「この一瞬のシーンの柔らかいところとかですね、
しなやかなところとか、あと真琴に比べたときの若さみたいなもの」

と、作り手の意図に沿ってその技術がどんな効果を狙っているのかを
具体的に語ってもらえると、私たち素人にもよくわかります。

【影なし技法】
複雑な陰影のある作画ではなく、影をなくしてシンプルな画に
することでキャラの表情や動き、演技の幅を広げることができる。


筒井康隆(つつい・やすたか):小説家・原作者1934-
<カラオケ店での繰り返しのシチュエーション>

「まあ、自分がドタバタが好きだ、とういうのがあるけども…繰り返しというのはね、今、わりと文学的にも重要なテーマになりうるんじゃないかと思っているんです。」…「この紺野真琴の行動原理みたいなものがですね、何回も何回も同じことをやるというね……あの、ゲーム的なんですよ。ゲームとして人生を見ている、ということなんです。…東君※というのは、今、ゲーム的リアリズムという新しい文学性というものを主張しているんですけども。それが今、一番新しい文学性なんですよね。」
(※東浩紀(あずま・ひろき):『ゲーム的リアリズムの誕生』2007)

この作品でのタイプリープによる“繰り返し”の効果は、
同じ状況を何度も繰り返すうちに、真琴の気持ちが次第に変化し、
成長していく姿が浮き彫りになるからでした。

作品が与える感動をもとに、作品の意味や価値について
より広い社会的・文化的な文脈(コンテキスト)のなかで
"論理的"なコトバで語ろうとするスタンスもあります。
いまでは大学の研究者や知識人などの“考えるプロ”たちが
アニメについて考察することも珍しくありません。

ちなみに「ゲーム的リアリズム」とは、評論家の東さんが唱えた概念で、
それ以前には、評論家の大塚英志(おおつか・えいじ)さんによって
「まんが・アニメ的リアリズム」という概念も提唱されていました。

どうやら、マンガやアニメ、ライトノベルやゲームといった
いわゆる"オタク系文化"について論じる人たちの間で
よく使われているジャーゴン(専門用語)のようです。


岡田斗司夫(おかだ・としお):作家・評論家1958-
<叔母(おば)芳山和子と、姪(めい)紺野真琴の関係性>

「一つは原作とか前の映画との絡(から)め方ですね。…本編内では、一切、この叔母さんが昔の『時をかける少女』の主人公だとは言っていないんですね。でも、それを匂わせる」…「第二点はもっと感動したのが、関係なんですね。…おばさんは待つことを選んで、主人公は追いかけていく方を選んだ。…この選択によってそれからの人生が変わるんだ、というのを二人の関係で描いた」

原作の主人公だった芳山和子(よしやま・かずこ)は
本作品では真琴から"魔女おばさん"と呼ばれています。
その叔母さんは、好きな人を“待つタイプ”、
姪の真琴は、自分から“追いかけるタイプ” と、
二人の生き方(選択)が対比的に描かれています。
もちろん、どちらの選択が正しいということではなく。

こうした設定の上手さや見せ方の工夫も、
作品について考えるときに注目すべきポイントです。

「でも真琴、あなたは、あたしみたいなタイプじゃないでしょ?
 待ち合わせに遅れてきた人がいたら、走って迎えに行くのがあなたでしょ?」

この、おばさんの言葉が真琴の背中を押して、
ラストシーンでの名セリフ「うん、すぐ行く。走っていく」
つながっているわけですね。


渡邊隆史(わたなべ・たかし):本作品のプロデューサー1959-
<千昭(ちあき)のために使うラスト一回のタイプリープ>

「ど真ん中の一番感動する、感動していただけるであろうシーンで、奥華子(おく・はなこ)さんの「変わらないもの」という曲が挿入歌で入ってくる部分なんですけど、…タイムリープ空間に入っていくときはバック転というか、後転で入っていくんですが、身を翻(ひるがえ)してですね、自分の目線をしっかり持ってですね、どこを目指して自分は行くのかという、強い意志を持って行くシーンなんです」…「大人として初めて意識的にタイプリープを使うということの表現の一つ、というシーンだったんです」

確かに、挿入歌「変わらないもの」が入るシーンは
何度観ても感動します。タイムリープの空間で、
真琴が初めて強い意志をもって前を向く演出があったと聞けば
「なるほど!」と深く納得します。

3人で過ごした日々、想い出の場面のフラッシュバックに
透明感のある歌声で「あの日のキミを忘れはしない」と
重ねられるとたまりません。くーっ、やられた。となります。
自分の想い出でもないのに。

では、YouTubeで挿入歌「変わらないもの」を聴いてみましょう。

♪「変わらないもの」奥 華子 (4:38)

さて、この「BSアニメ夜話」の出演者のトークを読んで、
とくに気になったのは「リアリティ」の問題です。

たとえば「高校生の男子2人に女子1人」の関係は
リアルか?リアルじゃないか?という問題があります。

「俺の周りにもあった」とリアルを支持する江川に対し、
岡田斗司夫は「あんな友情が保てるはずがない」、
「リアルな男でもないしリアルな女でもない…
アニメ美少女の恋愛模様なんです」
と反論しています。

リアリティを感じさせるための設定や工夫は
虚構作品を作る上で(語る上でも)注目すべき点ですが、
ただ、何をリアルに感じるかは個人によって違うので、
リアリティに関する考察は錯綜してしまいがちです。

たとえば「千昭はなぜ現代にタイプリープしてきたか?」
という理由付けについて、この作品では細田監督の
「絵を観に来たというのはどうでしょう?」という
アイデアをもとにしたそうです。

渡邊プロデューサーは、こう述べています。
「今、描いたものを何年も未来の人が見て、何を感じとるのか。あるいは、何百年も前に描かれた絵を見て、我々が今、何を感じとるのか……。そういったことを含めて多分、直感的に監督は話をしたと思うんです。」…

「僕がいいなと思えたのは、そこに解釈の余地がいっぱいありそうだと感じたんですよ。解釈の余地がいっぱいあるということは、映画を作っていく上で、映画の楽しみ方の中でも、すごく大きなものだろうと思っているんですね」 

「未来から絵を観るためにきた」という理由付けを
リアルに感じられない人もきっといることでしょう。

そこで、理由付けとしてダメだと作品を批判するのではなく、
絵を観たい気持ちに共感できない方がダメじゃないのか…、
なぜ「絵」なんだろう?と不思議に思うことのほうが
豊かな解釈に開かれていく気がします。

“高校生のリアリティ”という点については、映画の脚本を担当した
奥寺佐渡子(おくでら・さとこ)さんの仕事が素晴らしかったようです。

「例えばキャラクターのセリフまわしなんかは、奥寺さんが本当に素晴らしくて、現代で描かれる『時をかける少女』の主人公達が話す言葉のリアリティの保証と言いますか、そのナチュラルで、スッと耳や胸に入ってくるあの自然体なセリフまわしというのは本当に絶妙で、細田監督も、大変感激をしていました。あと、やっぱり「Time waits for no one. ←ハァ?」みたいな感覚かな(笑)」(渡邊隆史プロデューサーの弁)

そういえばありました、理科準備室の黒板に落書きが。
Time waits for no one. ←ハァ?

アイデアの元になったのはローリング・ストーンズの曲だとか。
カラオケのシーンで千昭が(曲調はぜんぜん違いますけど)
「♪タイム・ウェイツ・フォー・ノー・ワン」と歌ってました。

「神は細部(ディテール)に宿る」なんて格言がありますが、
作品の魅力は、そんな小さな工夫の相乗効果なんですね。
一度観たくらいでは、作品の細部まではわかりません。
好きな作品は、何度も観て確認しましょう。

この映画でよく語られるのが、土手の上で
千昭と真琴が別れる最後のシーンのセリフです。

「未来で、待ってる」
「うん、すぐ行く。走っていく。」

この場面は、キスをする方が「リアル」だろうといった
意見もありますが、一瞬「あっ!」と期待させてから
「せんのかーい」と意外性を演出した方が心に残るし、
甘すぎるベタな恋愛映画にならないでよかったと思います。
(※意見には個人差があります)

この瞬間、二人の気持ちが通い合ったことは確実ですが、
「はたして二人は未来で逢えるのか?」という点についても
人によって意見は分かれるようです。

映画の原作者とプロデューサーの見解はこうです。

(筒井)……ラスト、別に二人逢わないだろう?
(渡邊)逢わないです。
(筒井)行っちゃうだけでしょ?
(渡邊)はい。

『時をかける少女』が1965年から中学生向けの雑誌に連載され、
一冊にまとまって刊行されたのが1967年。50年以上昔の作品です。
作者の筒井康隆は、戦争が終わってアメリカのSF黄金期の
作品がどばっと日本に入ってきたとき、現在のSFのアイデアは
その中にほとんどあったと語っています。

そして、SFを理解できない頭の固い大人ではなく、
子供たちに向けてSFを啓蒙しようと思ったそうです。

うっかりしていましたが『時をかける少女』はSFでした。
(戦後のSFの歴史については、こちらへ↓)

<SFの歴史(戦後のSF作品)>
PDFファイル(403KB)

「私たちとしては、何となく皆にSFを啓蒙しなければいけないという気持ちがあったと。そのときに大人は、頭固まっているからダメだ、と。で、これはもう中学生向けの雑誌に連載したわけなんですけれどもね。だから、まず子供から啓蒙していこう、という、そういう気持ちがあったんです。で、タイムトラベルなり、テレポテーションなり何なりは、それぞれのSF的アイディアの一つに過ぎないわけですね。」(筒井康隆)

そんな筒井康隆の小説が、ドラマになり、映画になり、
そしてアニメになって、今でも愛され続けています。
「まあとにかく孝行娘ですよ。よく稼いでくれますわ」
と、原作者は周囲を笑わせています。

アニメ評論家の氷川竜介は、この『時をかける少女』は
「異性を異性として意識しつつ、自分で恋を恋として
認知さえできないほど不安定にゆらぐ思春期の気持ち」

「時間(タイプリープ)の作用」というSF仕立てで表現した
"思春期SF"だと書いています。

そして"時かけ的"なるものの本質は、
「"世代から世代へ"と何か生きるうえで大事なものが
受け継がれていくという感覚
」だと述べ、
この映画の魅力を次のように総括しています。

「誰しも展望が見えない「未来」という時制には、まず不安を抱く。だが、「未来」は新しいものが勝手に来るものではなく、「過去」から連綿と引き継がれてきたものを受け取った「現在」のわれわれがイメージして作るもの。そして、次の世代へと渡すものなのである。
 細田守版『時をかける少女』は、その本質的な感情を、時間のループ化・リセットの失敗という切り口でコミカルに、しかし真摯に、思春期らしい「嬉しくも恥ずかしい」タッチで鮮烈に描きぬいた。

(「時をかける永続性  思春期と時間SFの関係」氷川竜介)

もちろん原作の小説も、SF的アイデアも、思春期のゆれる気持ちも
「語り」によって次の世代へ受け継がれゆくものです。