自己肯定感ゼロから始まるファンタジー。
『ミミズクと夜の王』
著者:紅玉いづき、電撃文庫(2007)

まず、文庫の表紙カバーの内容紹介文を引用しておきます。

魔物のはびこる夜の森に、一人の少女が訪れる。
額には「332」の焼き印、両手両足には外されることのない鎖。
自らをミミズクと名乗る少女は、美しき魔物の王にその身を差し出す。
願いはたった、一つだけ。
「あたしのこと、食べてくれませんかぁ」
死にたがりやのミミズクと、人間嫌いの夜の王。
全てのはじまりは、美しい月夜だった。
――それは、絶望の果てからはじまる小さな少女の崩壊と再生の物語。
第13回電撃小説大賞<大賞>受賞作、登場。

どうですか? 惹かれます? それとも引いちゃいます?

2011年に高校生と一緒にやった読書会のテキストが
この作品『ミミズクと夜の王』でした。懐かしい。
中高生に人気の"ライトノベル"を読むのは初めてでしたが、
若い頃にタニス・リーのファンタジーにはまった経験があるので
それほど抵抗なく作品の世界に入ることができました。

若い頃には若い頃なりの読み方があると思いますが、
大人はどんな読み方をしているのかという一サンプルとして
書いてみた文章をアップしておきます。(2020.05.03)


※以下、ネタバレの内容をふくみます

◆ファンタジー(おとぎ話)の醍醐味とは?

この小説の最大の魅力は、主人公の少女ミミズクの心境の変化、
――不幸のどん底から幸福の絶頂へといたる、その振れ幅が
もしかして双極性障害?と思わせるほど極端なところです。

なにしろ、作品の冒頭で死にたがっていたバカな女の子が、
結末では「あんまり幸せすぎること」になってしまうのです。
主人公のドラマチックな境遇と、その心の動きにより添うことが
こうしたファンタジーの醍醐味であることは言うまでもありません。

一つの典型として「シンデレラ型」のおとぎ話があります。
不幸なヒロインが王子様と出会う。あるいは運命の人と結ばれて
ハッピーエンドを迎える。まだ読んだことはありませんが、
ハーレクイン・ロマンスでもおなじみの展開ですね、たぶん。

この作品『ミミズクと夜の王』も、そんな典型的なおとぎ話の
変奏(バリエーション)の一つとみなすことができるでしょう。
しかし、型にはまっているからダメ、というわけではありません。

◆物語は型(制度)を利用して紡ぎ出される

私たちの現実は、ステレオタイプな物語に支えられています。
平凡でありきたりな日常、定型的な意味の枠組み(=制度)が
私たちの意識をこの"現実"につなぎとめています。

私たちは非日常的で不思議なおとぎ話に惹かれますが、
定型という制度からは、なかなか逃れられないのです。
まるで、この小説の主人公   外されることのない鎖を
両手両足につけられた少女ミミズクのように。

言葉によって"善"と"悪"とが分けられ、支配される現実。
言葉とは私たちの日常を覆い、意識を縛る"透明な鎖"です。
それはときに、偏見と呼ばれる固定観念や常識ともなり、
敵対する者への憎しみや暴力を生みだします。

この作品には「魔物の世界(森)」と「人間の世界(王都)」という
2つの世界が対比的に設定されています。
人間の世界の王であるダンテスは「魔物は、魔物であるというだけで、
ただそれ自体が悪だ
」と言い放つ、まぎれもない現実主義者です。

一方、村で人間扱いされなかった主人公のミミズクは、
自分のことをこんな風に思っていました。

ミミズクは自分が人ではないと思っていた。けれど魔物でもないと思っていた。…ミミズクはむしろ魔物になりたかった。魔物になって、夜の王の傍に行けるなら、人になるよりずっといい気がした。けれど無理だと思った。自分に無理なことなんて多すぎて、もう出来ることが何かなんてわからなかった。

「去れ、人間。私は人間を好まぬ」
好まぬ。キライ。人間が。気が合う。ミミズクも人の形をしたモノが嫌いだった。

死にたがりやの少女と、人間嫌いの夜の王。
共に"人間の世界"から排除された二人が出逢うことで
いったいどんな物語が可能になるのでしょうか?

ありふれた日常、型にはまった現実から離脱して、
――幸福とは何か? 愛とは? 哀しみとは何か?
そんな"人間的な"感情を問い直すことになるでしょう。

主人公の女の子ミミズクは、誰かに言われるまま、
指図されるままに生きる「奴隷」でした。
いわば"よい子であること強制された子ども"です。

誰かが手を差し伸べてくれる夢は見たが、そんな毎日が普通で、あんな毎日が終わると信じられなかった。

そう、ミミズクはもうとうの昔に疲れてしまって。何もかもを、諦めてしまったのだ。

こうした主人公の姿は、自己肯定感の低い若者には
すんなりと感情移入できるものかもしれません。

村で起きた事件をきっかけに、ミミズクは「もういいや」と思い、
森の中の魔物(=夜の王フクロウ)に「食べてもらおう」と思います。

一人でそっと死んでゆくという選択肢もあるのに、
なぜ彼女は、魔物である夜の王に食べられたかったのでしょう?

ミミズクは村にいたとき死体処理の仕事をしていました。
血と内臓の匂いをかぎ、腐って虫がわく死体を見た彼女は
そんな、なりたくなかったからー。食べてもらったら、
きっと綺麗だよねー? ってさー
」とその理由を語っています。

「自分をキレイさっぱり消してしまいたい…」、
そんな気持ちも多少はあったかも知れませんが、
むしろ、誰かの「欲望の対象」になりたいという思いが
強かったのではないか。人間には相手にされないので、
魔王(夜の王)の欲望の対象になりたかった、と。

夜の王がミミズクを「食べたい」と思うかどうかわかりません。
「まずそうだし、食べたくない」という拒絶もありえます。
しかし、もし夜の王が「食べたい」と思ってくれれば、
他者に必要とされ、食料として役に立つことになります。

さらに深読みすれば、ミミズクは幼いころから刷りこまれていた声、
悪いことをする子供はみんな、魔王に喰われちまう」という
無意識下の言葉(型)に従おうとしたからだとも考えられます。
マゾヒスティックともいえる、こうした自己処罰の欲望もまた、
自分の意識を縛る"透明な鎖"です。

ともあれ、魔王(夜の王)に「食べられること」を想像すると、
ミミズクはじつに幸福な気持ちになるのです。

「ミミズクのいっちゃんのしあわせはー、だって夜の王に食べてもらうことだものー」

いったいなんでしょう、この恐るべき能天気さは。

◆自己肯定感ゼロからのラブ・ロマンス

絶望の果てにミミズクは、美しい魔物の王(=フクロウ)と出逢います。
プロローグでの二人の出逢いのシーンはとても印象的です。

月のように輝く夜の王の目が、ミミズクの心の闇を照らし出します。
月の光によって湖面のさざ波が初めて可視化されるように、
彼女は自分の気持ちが立ち騒ぐのを感じます。

闇は騒々ざわめく夜で。
月はきらきら光っていた。

「騒々」の読みは「さいさい」。さわさわと音を立てる様です。
それは、ミミズクがこれまで経験したことのない感情でした。
なにしろ、それまで「自分」を持たなかった彼女ですから。

「自分」がないということは、人にどう思われようがかまわないと
いうことでもあります。そんな怖いもの知らずの女の子が、
魔王に向かってまっすぐつき進んでゆくピュアな恋心が、
この作品の大きな魅力の一つとなっています。
(といっても、ミミズクはそれが「恋」だと知らないのですが)

あんまり不幸だったミミズクは「幸福への閾値」が低いため、
ほんのちょっとしたことでハッピーな気持ちになれるのです。

たとえば、自分の語った言葉が夜の王に拒絶されても、
彼の鼓膜を震わせるだけで「幸福な気がした」し、
その瞳に見つめられるだけで、快感にうち震えるのです。

その、金の瞳が、こちらを見ていることがわかった。背筋が震える感じがした。痺れるほどの、快楽。

有川浩(ありかわ・ひろ)による文庫の解説に
奇をてらわないこのまっすぐさに負けた。チクショー」とあるように、
幸福も哀しみも涙も知らない「愚かな少女」という設定が、
逆に「(愚かしいほどの)恋の純粋さ」を際立たせています。

女の子はね……恋をすると、みんな馬鹿になるのよ
というセリフが作品中にありますが、主人公に感情移入して
いっしょに馬鹿にならないと、恋愛小説は楽しめません。

たとえば、エンディングのあたりで、少女ミミズクによって
夜の王(=フクロウ)が救出された後、二人で森へ帰る場面…

フクロウは一つ小さなため息をついて、そうしてふわりと、ミミズクをまたその腕に抱き上げた。
きゃー! とミミズクが幸せそうに声を上げる。


たとえば、この「きゃー!」と嬌声を上げるミミズクを見て
読者もいっしょに「きゃー!」と心の声を上げることができます。

無垢で愚かな少女が感じたままを口にするという設定により、
ときにコミカルで可愛く、気恥ずかしいセリフが飛び出す点も、
この作品が中高生に人気の理由かも知れません。

夜の王(フクロウ)から額(ひたい)に刻印を受ける場面などは、
読み方次第では、とても官能的な描写となっています。

ミミズクはどきどきした。前もこうして腕を伸ばされたけれど、その時とはまた違っているような気がした。
その指が、額に触れる。
(フクロウ、食べてくれんの?)
ミミズクは目を閉じた。
食べられるのなら、痛くないのがいいなぁ。…
フクロウの指は冷たかった。けれどそのくせ、動いてなぞられると額にじわりと熱が残った。
やがて何度か行き来して、フクロウの指が、その長い爪が離れた。…

…ミミズクはなんだかおかしな気分になった。頭がじんじんと鳴るような。喉が渇いて行くような。どこか火傷したみたいに、ヒリヒリしてるようだった。

◆幸福とは何か?を探究する物語

これまでの引用文からも分かるように、この作品の登場人物たちは、
実によく"幸福"とか"しあわせ"という言葉を口にします。
まるで「幸福とは何か?」を探究した物語だと言えそうなほどに。

他にもいくつか挙げてみますと…。

◎「ワタシは夜の王の幸福を望もう。しかし一体誰が知ろう」
「…彼(か)の御方(おんかた)の幸福が、一体どこにあろうかと」
幸せなんて簡単なことなのに。
小さくミミズクはそう思った。


「ミミズクの、記憶がないのは幸せなことなのかな」…
「人はそんなに軽々しく、つらい過去を忘れてもいいものだろうか。たとえば、幸福っていうのはたくさんの涙や、苦しみの上で初めて輝きを増すんじゃなかろうか。人の強さってのは、そういうものなんじゃ」


「人には人の、幸せがあるだろう、アン・デュークよ」…
…けれど誰がわかるだろう。
一人の人間の幸せを、どうして他人が限定出来るのだろう。


◎「お前は幸福を手に入れたはずだ」
「手に入れたわ。温かいごはんも、綺麗なお洋服も、柔らかなタオルも、ふかふかのベッドも。でも」
ミミズクはその、二つの月と向かい合って、言った。
「でも、あなたがいない」


◎眠りにつく直前に、フクロウの翼がまるでお布団みたいに抱き込んでくれたような気がしたけれど。
それはそれ、あんまり幸せすぎることだから。
夢かも知れないな、と、ミミズクは思った。

きっと、幸福について作者があれこれと考えたことを
登場人物の口を借りて語っているとは思うのですが、
結末はもちろん、絵に描いたようなハッピーエンドです。

しかし、作者は意図的にそうした「安っぽい」結末を選びました。

作者あとがきには、こうあります。

安い話を書きたいの。歴史になんて絶対残りたくない。使い捨てでいい。通過点でいいんだよ。大人になれば忘れられてしまうお話で構わない。ただ、ただね。その一瞬だけ。心を動かすものが。光、みたいなものが。…

「綺麗事だけじゃ生きていけないよ」訳知り顔でそんなことを言う先輩に、「私は生きていくよ!」そう返した若さと幼さはもう持たないけど、歯を食いしばりながら夢を見ました。今も、夢を見ています。
(『ミミズクと夜の王』作者あとがき )

正直、ミミズクの物語そのものよりも、
この作者あとがきにいちばん感動しました。

たとえ現実の側から「安っぽい」とか「キレイゴト」と言われようと、
人間が夢を見る限り、似たようなファンタジー(おとぎ話)は
歴史の流れの中でくり返し語られ、また忘れられていきます。

たとえ結果的に、定型の物語を反復してしまうとしても、
それはたいしたことではありません。忘れたくないのは、
そんな物語の光に、一瞬でも心が動かされはしないか、
現実を超えたどこかで出逢いはしないかと夢みること。

あなたのその目にあたしがいたことで。
初めて自分が、生きていることを知ったのです。
ありがとう


月の光に照らされ、心がさわさわと立ち騒ぐ瞬間。
物語という"光"の中に私たちは何を見るのでしょうか?
そこに、もう一人の自分が映っているような気がしたら、
その物語は特別なものとなるに違いありません。


(追記)
『ミミズクと夜の王』の続編、5年後の物語として
『毒吐姫と星の石』(紅玉いづき)が
2010年に電撃文庫から刊行されています。