◆リアリズムの「リアル」とは何か?
昨日はクルマの中で寝た
あの娘と手をつないで
市営グランドの駐車場
二人で毛布にくるまって
(「スロー・バラード」忌野清志郎)
この歌を初めて聞いたとき、「市営グランドの駐車場」という言葉の新鮮さに驚いた。それまでラブソングの歌詞に出てくるのは、海やゲレンデや飛行場といったいわゆる絵になる場所か、あるいは逆に木枯らしの駅や四畳半のような暗い場所だと思い込んでいた。ところが、ここで歌われたなんの変哲もない「市営グランドの駐車場」の一語によって、街路樹の上に照る月や、フェンスの影、女の子の体温、車の窓が夜露に包まれてゆく感覚などが、聞き手である私の中に生き生きと甦ってくるようだった。【9】
名曲です。RCサクセションの「スロー・バラード」。
もちろん、この「市営グランド」という言葉にリアリティを感じることができない人もいるでしょうが、それは残念。というしかありません。
リアリズムの土台となるリアル、つまり現実とは何か?という問いについては、「誰にとっても自明で客観的な現実」が存在しているという考え方と、「現実は言葉によって構成される」との考え方があります。私は後者の立場です。
要するに、人によって現実認識はまちまちで、ある短歌にリアリティを感じるかどうかも、人によりけりという話です。そうなると「正しいリアリズム」とは、誰にとっての?ということになります。ある人間にとっての“リアル”な表現が、別の人間には“幻想”に見えたり、空虚な言葉に聞こえるとしても、夢や幻を求めてしまう人間の心情は、いつだって“リアル”です。
我々のリアルな感情というのは、自分でもよくわからなかったり、矛盾を抱え込んでいますから、むしろ非論理的だったり、一見無意味に思える短歌にリアリティを感じることもあります。
怒りつつ洗うお茶わんことごとく割れてさびしい ごめんさびしい 東直子
なんでこうつららはおいしいのだろう食べかけて捨てて図書館に入る 小林真実
…むしろ矛盾や混乱の要素が含まれているからこそ、深く共感できるというべきだろう。我々の生は、直線的な感情や合目的的な行動だけで成り立っているわけではなく、実際には誰もが混沌とした感情や体感の中を生きているわけである。これらは、そのような生の断片を、丸ごと写し取ったものとして非常に<リアル>な表現となっている。【9】
◆近代短歌のモードと現代短歌のモード
歌人の穂村弘さんは、「『アララギ』を中心とする近代短歌の流れが、対象を言葉で虚心に写し取る<写生>という理念を軸に展開してきた」【9】と分析しています。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる 斉藤茂吉
※斉藤茂吉(さいとう・もきち):
明治15年〜昭和28年。大正から昭和前期にかけてのアララギ派の中心人物。戦時中は帝国芸術院会員として多くの愛国歌を詠んだ。歌集『赤光(しゃっこう)』、『あらたま』など。
対象である現実を「ありのままに」写し取ろうとするリアリズムですね。この場合、歌人の心と歌(言葉)の間に距離がないように思われますし、私たちの生命は、疑いようのない現実としての"自然"に深々と抱かれているような印象があります。
しかし、それもひとつのモードであると穂村さんは言います。
極端な云い方をすれば、近代以降の短歌は基本的には、ひとつのモードの支配下で書かれてきたのである。
私見では、斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードを支えてきたものは「生の一回性」の原理だと思う。誰もが他人とは交換できない<私>の生を、ただ一回きりのものとして引き受けてそれを全うする。一人称の詩型である短歌の言葉がその原理に殉じるとき、五七五七七の定型は生の実感を盛り込むための器として機能することになる。
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 斎藤茂吉
※たまきはる:命にかかる枕詞
このような近代短歌的なモードの説得力は、万人に共通する「生の一回性」の支配力の強さに根ざしている。そこでは「命の重みをうたう」ことが至上の価値とされ、歌人はこの価値観に支配されてきたわけである。そして短歌は「命の器」になった。【9】
このような「命の器」としてのイメージは、いまなお
近代の"短歌"にベッタリと貼りついています。一方、こうした近代短歌のモードと一線を画すのが、塚本邦雄に代表される、いわゆる"前衛短歌"の運動です。
昭和30年代に起きた“前衛短歌運動” について、ウィキペディアはこう解説しています。
前衛短歌運動は、塚本邦雄の衝撃的な表現から始まり、「短歌研究」編集長中井英夫の賛同を得、岡井隆・寺山修司といった同志を獲得し、歌壇全体に影響を及ぼした。前衛短歌は、比喩の導入、句またがり、記号の利用といった技法上の特徴が数多くあるが、作品の主人公と作者が異なる、虚構を詠っている点が最大の特徴である。
※塚本邦雄(つかもと・くにお):大正9年〜平成17年
代表作は、前回のアンソロジーでも紹介しています。
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 塚本邦雄
例えば「実感の表現」と云うとき、「実感」のもとになった現実世界における体験が、常にその表現に先立って存在していることになる。つまり「実感の表現」とは事実上の「再現」であって、表現の根拠を過去においている。
それに対して塚本的な「何か」は、自らの表現が未来と響き合うことを期待している、とでも云えばいいだろうか。ここで云う未来とは過去の反対語としてのそれではなく、現実を統べる直線的な時間の流れからの逸脱そのものであるような幻の時である。【9】
「未来と響き合う表現」というのは、この現実の表面をただなぞるような表現ではなく、新たな詩的現実を意図的に構成しよう、いわば、今ここに「幻の時」を創造しようとする表現だと言えるでしょうか。
斬新な技法と詩的言語によって異化された短歌の登場によって、従来のリアリズム短歌は次第に相対化され、古くさく感じられるようになっていきます。
そして1980年代以降になると、高度消費社会の広告ブームと軌を一にして、言語表現における「記号化」がいちだんと進み、短歌という器も、多様なイメージを呼び寄せることになります。
こうした「モノ的アニメ的マンガ的なモード」の発生について、穂村弘は、私たちが生きている環境の変化が関係しており、「具体的には、生活環境の都市化によって対象との直接的な接触体験が減少したこと、一方で映像等のメディア環境の発達によってバーチャルな感覚が増大したことなどの影響が考えられる」と述べています。
モードの多様性を自然なものとする感覚に反比例して、現実を唯一無二のものと捉えるような体感は衰退してゆく。そこでは現実も想像も、言葉の次元では全てが等価であるという錯覚が生まれ、その結果、モードの乱反射のなかにモチーフが紛れてしまうというようなことが起き易くなる。いわゆる「なんでもあり」の感覚である。【9】
さて、「なんでもあり」となった短歌の世界ですが、それは別に、短歌が進化したわけではありません。結局、歌をつくるのは一人の個人ですし、その歌を読みとるのも一人の個人です。
ひとつの歌と出逢うことはひとつの魂との出逢いであり、言葉の生成も変化も、すべては魂の明滅、色や温度の変化に連動しているように感じる。魂を研ぎ澄ますための定まったシステムなどこの世になく、その継承は時空間を超えた飛び火のようなかたちでしかあり得ない。ひとりの夢や絶望は真空を伝わって万人の心に届く。【4】
これを機に、いろんな歌人の作品や歌論をひもといて「魂との出逢い」を経験してみてはいかがでしょうか。
では最後は、現代歌人オールスターによる歌合(うたあわせ)、
『短歌パラダイス』※を紹介しておしまいとします。
※1996年に行われた「歌合」の記録。参加した歌人は20名。プロデューサーは作家の小林恭二。「歌合」とは、歌人たちがチームに分かれて題にあわせて歌を詠みあうゲーム。自チームの歌を応援し、相手チームの歌をけなす批評をひとしきり行い、中立の判者が勝ち負けを決める。
※歌合に参加した歌人は、岡井隆、奥村晃作、三枝昂之、河野裕子、小池光、永田和宏、道浦母都子、井辻朱美、大滝和子、加藤治郎、水原紫苑、田中槐、荻原裕幸、俵万智、穂村弘、東直子、紀野恵、杉山美紀、吉川宏志、梅内美華子の二十名。判者は、高橋睦郎。
『短歌パラダイス』で強調されるのは、文芸表現における「座」のおもしろさである。それはかつての日本文化では主流をなしたものである。「座」の妙味を復権させるためには、詠まれた歌に十分な「読み」が入らなければならない。その意味からいえば、この本は現場報告の体裁をとった、娯楽的にも味わい得る文芸思想書である。【1】
◆たとえば、「ねたまし」という題では…。
「妻」という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの 俵万智
傾けむ国ある人ぞ妬ましく姫帝によ柑子差し上ぐ 紀野恵
※姫帝(ひめみかど)、柑子(かうじ)
(小林恭二の「読み」は…)
「妻」という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの
普通の主婦であれば、夫と一緒に墓参りにゆくことなど、義務と思いこそすれ、決して快楽とは思わないであろう。極言すれば、墓参りなど年に一度の仲睦まじい夫婦を演技する場でしかないだろう。この歌は、まさしくそうした姿勢を安易と呼んで非難しているのだ。
逆に言えば、ここに出てくる女性は、男性が妻と墓参にゆくことすらねたむほど、辛い立場にある。(あるいはそれほどまでに、その男性を愛しているというべきか。)自由に会うことはもとより、白昼堂々と連れ添うことなど、考えられもしないような境遇にいるのだろう。その辛い恋の中で、ほとんど身をもむようにして、相手の妻をねたんでいる。
と、同時に春の日の墓参りを、ひょっとしたら誰はばかることなくその男性と連れ添ってゆく日を想像して、うっとりとしているのかも知れないが。いずれにせよ、ため息の出そうな忍恋(しのぶこい)を、見事に示してくれた。【12】
傾けむ国ある人ぞ妬ましく姫帝によ柑子差し上ぐ
※姫帝(ひめみかど)、柑子(かうじ)
主人公は傾けることのできる国(=富裕で繁栄した国)と美貌を併せ持った女帝を、心の底からねたみながら、その一方ではこれを賛仰してやまないのだ。この嫉妬と賛仰の凝縮されたものこそ、捧げられた柑子に他ならない。主人公はこのこぶりな蜜柑にすべてを込めて、うやうやしく女帝に捧げているのだ。なんと美しい風景であろう!わたしは一読、陶然となった。
更に言えば、音の流れの美しさも特筆ものである。上の句の「ぞ」を使った係結びの響きも綺麗だが、それよりも何よりも、下の句の間投助詞「よ」の使い方が絶品である。えらく古風な使い方だが、こうしておかれると実に自然で、古さをこれっぽっちも感じさせない。意味的にも技巧的にも絢爛の一首と呼んでいいと思う。【12】
◆歌合2日目、チームを超えて賞賛されたベストの歌は…。(題は「芽」)
家々に釘の芽しずみ神御衣のごとくひろがる桜花かな 大滝和子
※神御衣(かむみそ)
※大滝和子(おおたき・かずこ):昭和33年生まれ。
歌集『銀河を産んだように』『人類のヴァイオリン』など。
わたしは一読して、背筋に寒いものが走った。そして「超えている」と思った。その感動は今も続いている。いや、体内に沈殿して、より大きなものになっていると言った方がいいかも知れない。姿の美しさといい、独創的な発想といい、二日目の歌合の圧巻ともいうべき歌だった。【12】
「神御衣(かむみそ)」は、読んで字のごとし、神の召し物である。桜の花が神の召し物のごとくひろがっているのだという。わたしはこれまでこんな表現を見たことがない。おそらく千数百年を誇る短歌の歴史の中でも、初めての表現ではないか。(少なくとも『国家大観』等では類歌を発見できなかった。)なぜこれまで誰も、ゆったりとひろがっている神の服と満開の桜を、重ねてみることをしなかったのだろう……。じっと思いを巡らしているうちに、ふうわりとひろがっている桜の上の神の姿さえ、見えるような気がしてくるではないか。【12】
が、ここで気を抜いてしまってはいけない。問題は「家々に釘の芽しずみ」と「神御衣のごとくひろがる桜花かな」が、どう関わるかである。ここを気合いを入れて読まねば、自分の読解力のなさを棚にあげて、「発想はそれぞれいいんだけど、ふたつ重ねるとイメージがぼやけちゃってね」的な小賢しい批評に迷い込んでしまう。わたしは両者を封印と開放の関係とみた。すなわち「家々に釘の芽しずみ」は、家々に潜む魔や不安の種を、釘が鎮めているととる。それでもってその釘の鎮めのもと、華やかなる春の神が舞い降りてきて、桜花としての衣をひろげる、ととったのだ。 【12】
◆その大滝和子、別の題「オランウータン」では…
急行を待つ行列のうしろでは「オランウータン食べられますか」
桜花の歌と、この「食べられますか」の歌の差異が凄すぎ(笑)。一人の歌人が描き出す「イメージ」の触れ幅が、現代短歌を象徴しているような気もします。
最後に、この歌合をプロデュースした小林恭二は、こんなことを語っています。
今や短歌にせよ、俳句にせよ、創作する側の論理だけが大手を振ってまかり通り、鑑賞する側の論理はほとんど顧みられなくなっている。…たとえばある天才が「わたしは自分の作品を作るだけでいいんです。他人の作品など見たくもない」と言ったとする。それがひとりやふたりならいい。が、そのジャンルに携わる全員がそのように言ったらどうなるだろう。誰も他人の作品は読まなくなり、世に評価を受けないままの秀作、名作があまた雨ざらしになるだろう。わたしは、文芸作品が語られ、味わわれる場が、今ほど求められているときはないのではないかと思う。ことに短詩形はそういった場が絶対的に不足していると思うのだ。【12】