赤瀬川原平の宇宙。(04)
赤瀬川 原平(あかせがわ・げんぺい :1937−2014)
要するに遊ぶことが第一だと思います。

コーヒーのミルクに渦巻きギャラクシー(星雲)を見たり、巨人戦のテレビ中継で「ウニドロ」という比喩を思いついたり、ステレオ写真の立体裸眼視に凝ってみたりと、ゲンペーさんはふだんの生活のなかに面白い発見をして遊んでしまう人です。

たとえば、半分ウトウトしながら、あるいは酔ったまま書いてしまった意味不明な自分の文章を記録してみるなんてこと、だれがやりますか。

◆現代科学では説明のできない文章

最後は酔っ払ってきて、何書いているかわからない。字がだんだんよじれてきていて、二行重ねて書いてしまっていたり、自分でも理解しようのない言葉を書いている。現代の科学では説明のできない漢字を書いてしまったりしている。それがあまりにも恥しいというか、珍しくもあるので、それが出た日には端に日付を書いて保存している。

シケイロスの塗った絵具の中に大きな石がごろごろ混入しているのを目撃して、絵具もまた紛れもなく物体であることに覚醒する。どうもそこが最後らしい。縁側も映画も足に行けかりました。 …

「足に行けかりました」というのがどうも理解不能。自分の能力を超えている。となると、その前の絵の話のもっともらしさが急に恥しくなるのだった。

ピロシキ。ここで根っこにごま化しておおう。ピロシキというのは同じ根という想像の気だ。 …

何かピロシキに悪い感情を抱いているらしい。この筆者に何か偏見があるようで、あまりつきあいたくない。【11】

ゲンペーさんは、こうした言葉を記録するだけでなく、日常生活のなかで、何か偶然に出会ったら、もれなく日記につけていたそうです。几帳面というか、ただのヒマな人というか。でもやってみたら、毎日がちょっと楽しくなるかも。

去年の偶然日記に記載されたのは27項目。月に2回ちょっと偶然に遭遇したことになる。もっとも気づいたものだけ。記録されるのは街で人にバッタリ会ったという類が多い。今年はもっと隠された偶然を見つけようと思うが、難しい。死ぬころこれを全部眺めたら必然に見えるだろう。【8】

◆日常のなかの“ヘン”を見つける力

またあるときは、雑誌の広告にふと目をやるゲンペーさん。いったいこれは何か。もちろん広告なのですが、人のコンプレックスを、まあこんなにズバズバと。

太い足
太いモモ
太い首
太いウエスト
全身ふとりすぎ
すぐやせたい方に
1日10分ずつ1週間実行
ニュースタイル
スピード痩身法

いや、思わず現代詩みたいに筆記してしまいましたが、しかし、これはやはりもうそのまま現代詩でしょう。リズムが素晴しい、ラストのクライマックスに向けて次第に盛り上がっていくドラマが人の心を打ちます。【15】

雑誌の後ろの方なんかに、よく載ってますよね。美容とか、痩身とか、開運グッズとか、占いとか。私たちがつい気になったり、隠したがる「欲望」を、こうもあからさまに取り上げられると、笑ってしまいます。そして、なおもゲンペーさんはページをめくり続け、コンプレックスの底引き網のような広告表現を発見するのです。

つぎ。テーマはさらに肉体コンプレックスの皺の先の支流のはずれのドブ川のような所にまでもぐり込む。

気が小さい
物覚えが悪い
おぼえてもすぐ忘れる
考えがまとまらない
行動力がない
勉強が進まない
すぐなまけたくなる
すぐ暗い気分になる
人の前で話すのがニガ手など
こんな悩みもすぐに解消!
1日20分の練習でOK!
「自宅でできる」
催眠法

おそらく本誌の読者はドキッとしたことでしょう。いや隠さなくてもいいのです。 このどれにも該当しない人は、本誌の読者の資格なんてないのだから。【15】

これだけ並べられると、なんだか自分も思いあたってダメ人間に思えてくる。そんな迫力があります。「こんな悩みもすぐに解消!」するかどうかは知りませんが、人の不安や劣等感を利用するやり口が、あまりに露骨すぎて、つい笑ってしまいます。

たとえば、友人と焼き鳥屋で世間話をしているとき。原発のCMにはタレントが誰も出たがらないらしいとか、そんな会話になって誰かがふと、思いつきます。思い浮かんでしまっては仕方ありません。

じゃあ岡本太郎がいいですよ
「あのビックリ目玉、それは凄い」
「両手をバーンと拡げて、“原発は、バクハツだ!”
「それはもう……」
爆笑してしまった。こんな問題で爆笑しては危ないのだが、そんな原発推進のCMが出来たら凄い。もちろん出来っこないから凄いのであるが、しかし出来たら凄い。作る方も凄いし、それに出る人も凄い。
「凄い推進ですよ」
「推進を超えるね。原発を超えて、反原発も追い越してしまう」
「原発は、バクハツだ!」
また爆笑してしまった。テーブルが揺れて、焼鳥がこぼれ落ちた。
【8】

す、凄すぎる(爆)。今の若いひとは知らないかもしれませんが、岡本太郎という有名な芸術家がおりまして、その昔、何かのCMに登場し「芸術は爆発だ!」という名セリフをはきました。

◆事物×想像力=笑い

ゲンペーさんは、1970年から東京神保町の美学校で先生をしていたそうですが、その授業がとても面白かったと、生徒の一人だったマンガ家の久住昌之氏が記しています。

毎週土曜。昼は実技のような事をして、夜はスライドで考現学のような事をしながら、白波のお湯割りを飲んで、夜10時頃、仕方がないから終るか、という感じでなしくずし的に帰りながら、それでも駅に行く途中で焼き鳥屋に入ってしまって終電で帰ったりした。

と、こう書くとなんかずいぶんダラシの無い学校のように思われるかもしれない。でもボクにとってそれはめくるめくダラシナサだった。実技のような事、というのは、鉛筆画や、ペン画や、レタリングで、だけどその実技というより、その形を借りた、もっと別な、変な、面白い事だった。【15】

たとえば、その「美学校」での、漢字を分解して絵文字にする授業では、貧乏の「貧」という字は、こんな絵に分解されました。

…資の字と間違えそうになった貧の字であるが、ああ何と悲しいことに、この字においては次のどころか、一つのを分けあうことになってしまう。しかも、という字はの中にが入って、になってしまっているのだ。

そこで私は吉田君に指令した。これは貧しい八人家族の絵である。それも夕食の絵である。八人家族が食卓をかこんでいるけれど、貧しいので食卓の上には何もない。だけど誰が手に入れてきたのか、広い食卓の中央に小さなシジミ貝が一粒だけ置いてある。八人家族はその一粒のシジミ貝を凝視しながら、それぞれが日本刀を振り上げていて、そのシジミ貝を八等分しようと身構えている。これが貧の字を分解した絵文字である。さァこれをリアルに描きなさい。【15】

「八」人家族が「刀」で「貝」を分けるから「貧」。ゲンペーさんは、ふだんの生活であれ、授業であれ、おもしろがる才能にあふれた人ですが、その推進力となっているのは、想像力のようです。

もう一つ、私が爆笑し、うなってしまった発想の例を。
朝早くウズラが文学散歩をしている」山道を歩きながら、ゲンペーさんの想像力はどんどん飛躍していきます。

ウズラといえば卵である。ウズラ卵。人間の食生活の中では鶏の弟分みたいなものだ。何故そうなったのかは知らないが、ウズラもまた鶏と似て、鳥のくせに空を飛べない。羽はついているのだけど、飛行用具としては退化している。おそらくある時点で、自分の限界を見極めたのではないだろうか。

自分の力はこんなもんだ。鷲みたいなパワーはないし、鳩みたいにピースピースで人間を丸め込む能力もない。それならいっそのこと鶏の影響を受けるようだが、自分らの卵を人間に売りつけてそれで一生を保障してもらうというのも、そんなに恥ずべきことではないのではないか。栄養はあるんだし。以後ウズラは空を飛ぶのを完全にあきらめ、鳥とはいっても地上を歩くだけの生きものとなったのである。【8】

自分がウズラになった気持ちで、考えてみる。いったいどこのオトナが、ウズラになった自分を想像できるだろうか。まず、そこが凄い。この際、科学的な真偽などはどうでもよくって、面白いかどうか。でもフィクションだとわかっていながら、何でこんなに笑えるのでしょうね。

表現における「子供の要素」vs「大人の論理」

芸術家であり、イラストレーターであり、芥川賞作家でもあった赤瀬川原平さんは、文章を書くことについて、どんな考えを持っていたのか。著書「超私小説の冒険」を中心に整理してみたいと思います。

いったい「うまい文章」とは何でしょうか。

文章の鮮度とはなんであろうか。文章を読んで何か感じるとか感じないとかはどういうことなのだろうか。

…つまり文章がうまいとすればそれは結果であって、その原因は子供の要素ではないかと思うのである。子供の要素をいかに手にすることができたかということ。【8】

赤瀬川さんが、イラストレーターの安西水丸さんや絵本作家の長新太さんが書いたエッセイを読んで、その感想をつづった文章からの引用ですが、どうやら「子供のように感じとることができるか」が、赤瀬川さんが考える重要なポイントのようです。続けてこうあります。

このエッセイは子供時代のことがテーマだから、子供の時代に戻ることは当然といえばいえる。しかしそれがいかに難しいことであるか。他の人々の、子供に戻りきれなかった文章とくらべればわかるのである。

大人の論理とは何だろうかと考えてしまった。それはたんに、人間の感覚のクオリティを低下させるだけのものではないのだろうか。【8】

ううむ。子供の要素vs大人の論理。たとえば「大人の論理」は、文章を書くという行為を楽しむよりも、なにやら難しいものにしてしまいます。簡単にいえば、勉強にしてしまう。たとえば「人の心に届く伝え方を学び、身につけることでビジネス、人生で成功したい人のための本です」
といった本が売れるのも、大人の論理というか、事情があるからですね。

たとえば、思想家の内田樹さんは学生の文章を書く力についてこんな指摘をしています。

出題者の頭のなかにある模範解答を予想して、それに合わせて答えを書けばいいというシニックな態度は、受験勉強を通じて幼い頃から皆さんのなかに刷り込まれている。ずっとそういう訓練を積んできたせいで、皆さんのほとんどは大学生になった段階では、文章を書く力を深く、致命的に損なわれています。(内田樹『街場の文体論』)

どきっ!私たちは学校時代から文章を書くときに、何が正解なのか、どう書けば高く評価されるのか、そんな大人の論理ばかりを強いられてきた気がしてなりません。一方の赤瀬川さんは、「正しい答え」を書こうとしたり、「成功しよう」と思って小説を書いたわけではありません。まず、文章を書くことを面白がっているという点が、勉強の論理で書かれた文章と明らかに違っています。

◆文章を書くことの、魔術的な楽しさ

絵を描く人はあまり勉強が好きではない。いちがいには言えませんが、僕の場合はそうで、あれこれ読んで、きちんと蓄積した知識の上で何か文章を書いたりするのはわりと苦手な人間なのです。

それがかえってさいわいに、知識がないものですから、初めて出会うものが新鮮で、文章を書き始めたときも、ああ文章というのは書いてみると面白いものだなと思いました。【9】

もともと赤瀬川さんは絵描きさんなので、絵を描こうとすると、つい身構えてしまうけど、文章を書くほうがむしろ気楽だと語っています。

文章を書くときの楽しい感じ、これはたとえていうと何だろうかと、いつも考える。
たとえばゆうべ見た夢の漠然とした塊を、何とか思い出そうと少しずつたぐり寄せて、やっと何とか言葉に置きかえたときの、なるほど……、という感じ。… 

文字というとりあえずの記号の組み合わせ。だけどその文字の並び方によっては「なるほど」というゴム風船がぐんぐんとふくらんでくる。そういう何というか、魔術的な楽しさだと思うのだけど。【2】

文章を書く。そしてそれを読むという行為は、あらためて考えてみると、とても不思議な体験です。一人の人間が頭の中に思い描いたものを、時間や場所を超えて、見たり、感じたり、共鳴しあうことができたりする。

一回読んでおしまいという文章もありますが、何度読み返しても面白い文章がある。文章に書いてうまくいったというのは、何らかの意味を本物そっくりに中空に移し終えた、そんなことなのです。そういうことを軸にしながら書いているのです。【9】

その「なるほど感」というか「うまくいった感」は書き手でありながら、最初の読者でもある自分が感じながら書いているのですが、それは自分にとって「リアル」かどうかという問題でもあります。

文章の上で、心理的な出来事なり、物体的な出来事なり、要するに世の中でグニャグニャと起こっていることの意味を、できるだけ小さい別の言葉でほとんど損傷なく情報伝達する、それが実現したときにリアリティが生まれるのではないかと思います。【9】

自分にとってリアリティを感じるとはどういうことか。赤瀬川さんはその感覚を「スリリングな体験」と表現し、イラストを描く場合を例に、こんな風に説明します。

イラストを描くのは自分ですが、描きながらそれを見ている、自分の中に第一番目の観客がいる。その自分の中の観客にとってそれが新しい冒険をはらんだものとしてリアリティを感じる

リアリティというのは、事物を見る感受性にとっての何らかの冒険が含まれたものだと思います。何かこちらの存在が脅かされる、勝負を迫られる、そういうものだと思うのです。【9】

ここでいうリアリティとは、単に事実かどうか、客観的かという話ではありません。型にはまった事実を描き出すことよりも、まず、自分がワクワクしているか。そこにハッとする刺激や冒険があるかどうかが、リアリティの鍵を握っているのではないか。

どうも書いていて乗らないなと思って後で読んでみると、こうきて次はこちらにいくぞというのが見えている。そうするとつまらない。読んでいてこちらがワクワクしてこない。大体つまらない文章とか小説はそういうものではないかなと思うのです。【9】

文章を書くことは、自分のリアリティを確かめることだと言えますが、そこでやっかいなのが、その道具である言葉。いわば、リアリティをはかる“ものさし”としての言葉、その根拠がどうにもあやふやだという点です。

夢の中で、何も手応えのないフワフワの世界を泳いでいて、不安になることってありますね。なにが基点なのか、この場合、ものさしはなんなのか、こういった疑問は本当をいえば、現実生活の底をいつもひたしていると思います。…

メートル原器みたいな基準というのは、厳密にいえばこの現実には何もないかもしれません。でも、ある制度が支えている。その根拠のない微妙なバランスというか、いかがわしい柔構造のものさしみたいなものがいつも気になる、ということがあります。…

どこにも硬い手触りがなくて宙に浮くのはたまらなく不安ですし、ふとした弾みで裏側を覗いてしまうのは大変な恐怖です。経済や社会のもろもろの約束事は、ひょっとするとその恐怖に蓋(ふた)をするものかもしれない。言葉も頭からしっぽまで約束でできあがっています。【9】

私たちは、言葉という約束事によって、現実生活のなかで感じる子供みたいな疑問(あるいは不安や恐怖)を抑圧したり、覆い隠しているだけなのかも知れません。世の中には、言葉をブロックのように使って「大人の論理」を積み上げていく文章もあれば、自分が巻き込まれている現実そのものをつき動かしたり、揺さぶる文章もあります。

赤瀬川さんは、作家の深沢七郎さんが書いた文章、『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)を読んだときの面白さについて次のように語っています。

笑うということは揺すぶってくれるわけです。それが非常に快感で、きれいな状態に近づく、白紙の状態に近づく、ナンセンスというのはそういうことだと思いますが、非常に痛快なわけです。…

少なくともいわゆる計算された表現ではないということはわかるのです。いやおうなく出来てしまった文章というか、そういう面白さなのです。【9】

大人の論理に安住することなく「世の中でグニャグニャと起こっていること」の意味を探り、創造し、いかに遊ぶか。常識的な思考の枠組みを疑い、今の「私」を超えようとする記述も、一つの冒険です。

読者が頭の中で創造的に想像できなければしょうがないわけで、頭が遊んでこそそれができるわけです。

ところがAのことをAの言葉だけで書いてあるものを読む場合はただの勉強になる。そうするとおもしろくはないから、そういう冷えた感受性で入ってくるものはカスというか、粉みたいな、ほんの微量なものになってくる。

だからものを書くにはいかに読む相手に託するか、これがむずかしいのです。【9】

言葉の表現の問題というのは、無意識の了解事項をいかに有効に動かせるかということの問題ではないかと思います。【9】

◆<超私小説>の原理

さて、そんな赤瀬川さんは自身の文章創作のスタイルを「超私小説」と名づけ、次のように解説しています。

内面暴露の私小説というニュアンスではなくて、「私」に関する小説、「私」を研究する小説、「私」を学問する小説といいますか。【9】

あくまで見えない自分の中の世界と見える世の中の境界を言葉のホログラフィとして浮び上らせる、それがここで言おうとしている超<私小説>の原理です。【9】

日本独特の文芸ジャンルに「私小説」というのがありますが、それとは違っているようです。理想と現実の矛盾や葛藤に苦悩する「私(=近代的自我)」の物語を描くわけではありません。むしろ、他人事のように路上観察のまなざしを、そのまま「私」に向けるような創作方法です。

そしてこの「超私小説」の方法では、自己を超えた力、いかに無意識や外部からの偶然の力を呼び込むかが、重要なポイントになってくるようです。

むしろ外からの偶然の作用、…千差万別のさまざまな働きかけを受ける場として作業を進めた方が、自分を超えた自然の力を導入できるわけです。

そうなるとまた無意識的に書いたつもりのバラバラのパーツが、いつの間にか一つのネットワークにジョイントしてくる。それもまるで偶然のように。それが書くことの面白さであるし、発見のよろこびでもあるのです。これは小説、超<私小説>なるものの、重要なポイントだと思います。【9】

以上ここまで、長々と引用してきましたが、赤瀬川さんの発言をまとめると、この言葉に尽きるようです。

要するに遊ぶことが第一だと思います。いかに遊ぶか。【9】

では最後は、赤瀬川さんの弟子でありゲンペーさんと長年いっしょに遊んできた南伸坊さんの証言で締めくくりたいと思います。『赤瀬川原平の芸術原論展』の図録に寄せられた南さんのエッセイの一部からの引用です。

赤瀬川さんが、前衛芸術をつくっていた時も、小説を書いていた時も、漫画を描き、エッセイを書いていた時も、それは前衛芸術家をめざしたのでも、小説家になろうとしたのでも、漫画家、エッセイストになろうとしたのでもない。

脳が活性化する楽しさの中にいること、そのことが重要だったのだ。会話の中で冗談を思いつく、イタズラを思いつく、なにかを発明する、そういう瞬間が好き。あらゆる活動の大本にあったのが「冗談」だったのじゃないかと私は思っている。
(南伸坊「『笑い』の芸術」)

(了)
<引用したTEXT>
【1】『東京ミキサー計画』 ちくま文庫 (解説:南伸坊)
【2】『優柔不断読本』 文春文庫 (筆名:尾辻克彦)
【3】『いまやアクションあるのみ!』 筑摩書房
【4】『芸術原論』 岩波書店
【5】『常識論』 大和書房
【6】『超芸術トマソン』 ちくま文庫
【7】『千利休 無言の前衛』 岩波新書
【8】『科学と抒情』 青土社
【9】『超私小説の冒険』 岩波書店
【10】『仙人の桜、俗人の桜』 日本交通公社
【11】『常識論』 大和書房
【12】『ぱくぱく事典』 中央公論社(文:尾辻克彦)
【13】『ステレオ日記 二つ目の哲学』 大和書房
【14】『少年とオブジェ』 ちくま文庫
【15】 『純文学の素』 ちくま文庫 (解説:久住昌之)