◆表現における「子供の要素」vs「大人の論理」
芸術家であり、イラストレーターであり、芥川賞作家でもあった赤瀬川原平さんは、文章を書くことについて、どんな考えを持っていたのか。著書「超私小説の冒険」を中心に整理してみたいと思います。
いったい「うまい文章」とは何でしょうか。
文章の鮮度とはなんであろうか。文章を読んで何か感じるとか感じないとかはどういうことなのだろうか。
…つまり文章がうまいとすればそれは結果であって、その原因は子供の要素ではないかと思うのである。子供の要素をいかに手にすることができたかということ。【8】
赤瀬川さんが、イラストレーターの安西水丸さんや絵本作家の長新太さんが書いたエッセイを読んで、その感想をつづった文章からの引用ですが、どうやら「子供のように感じとることができるか」が、赤瀬川さんが考える重要なポイントのようです。続けてこうあります。
このエッセイは子供時代のことがテーマだから、子供の時代に戻ることは当然といえばいえる。しかしそれがいかに難しいことであるか。他の人々の、子供に戻りきれなかった文章とくらべればわかるのである。
大人の論理とは何だろうかと考えてしまった。それはたんに、人間の感覚のクオリティを低下させるだけのものではないのだろうか。【8】
ううむ。子供の要素vs大人の論理。たとえば「大人の論理」は、文章を書くという行為を楽しむよりも、なにやら難しいものにしてしまいます。簡単にいえば、勉強にしてしまう。たとえば「人の心に届く伝え方を学び、身につけることでビジネス、人生で成功したい人のための本です」
といった本が売れるのも、大人の論理というか、事情があるからですね。
たとえば、思想家の内田樹さんは学生の文章を書く力についてこんな指摘をしています。
出題者の頭のなかにある模範解答を予想して、それに合わせて答えを書けばいいというシニックな態度は、受験勉強を通じて幼い頃から皆さんのなかに刷り込まれている。ずっとそういう訓練を積んできたせいで、皆さんのほとんどは大学生になった段階では、文章を書く力を深く、致命的に損なわれています。(内田樹『街場の文体論』)
どきっ!私たちは学校時代から文章を書くときに、何が正解なのか、どう書けば高く評価されるのか、そんな大人の論理ばかりを強いられてきた気がしてなりません。一方の赤瀬川さんは、「正しい答え」を書こうとしたり、「成功しよう」と思って小説を書いたわけではありません。まず、文章を書くことを面白がっているという点が、勉強の論理で書かれた文章と明らかに違っています。
◆文章を書くことの、魔術的な楽しさ
絵を描く人はあまり勉強が好きではない。いちがいには言えませんが、僕の場合はそうで、あれこれ読んで、きちんと蓄積した知識の上で何か文章を書いたりするのはわりと苦手な人間なのです。
それがかえってさいわいに、知識がないものですから、初めて出会うものが新鮮で、文章を書き始めたときも、ああ文章というのは書いてみると面白いものだなと思いました。【9】
もともと赤瀬川さんは絵描きさんなので、絵を描こうとすると、つい身構えてしまうけど、文章を書くほうがむしろ気楽だと語っています。
文章を書くときの楽しい感じ、これはたとえていうと何だろうかと、いつも考える。
たとえばゆうべ見た夢の漠然とした塊を、何とか思い出そうと少しずつたぐり寄せて、やっと何とか言葉に置きかえたときの、なるほど……、という感じ。…
文字というとりあえずの記号の組み合わせ。だけどその文字の並び方によっては「なるほど」というゴム風船がぐんぐんとふくらんでくる。そういう何というか、魔術的な楽しさだと思うのだけど。【2】
文章を書く。そしてそれを読むという行為は、あらためて考えてみると、とても不思議な体験です。一人の人間が頭の中に思い描いたものを、時間や場所を超えて、見たり、感じたり、共鳴しあうことができたりする。
一回読んでおしまいという文章もありますが、何度読み返しても面白い文章がある。文章に書いてうまくいったというのは、何らかの意味を本物そっくりに中空に移し終えた、そんなことなのです。そういうことを軸にしながら書いているのです。【9】
その「なるほど感」というか「うまくいった感」は書き手でありながら、最初の読者でもある自分が感じながら書いているのですが、それは自分にとって「リアル」かどうかという問題でもあります。
文章の上で、心理的な出来事なり、物体的な出来事なり、要するに世の中でグニャグニャと起こっていることの意味を、できるだけ小さい別の言葉でほとんど損傷なく情報伝達する、それが実現したときにリアリティが生まれるのではないかと思います。【9】
自分にとってリアリティを感じるとはどういうことか。赤瀬川さんはその感覚を「スリリングな体験」と表現し、イラストを描く場合を例に、こんな風に説明します。
イラストを描くのは自分ですが、描きながらそれを見ている、自分の中に第一番目の観客がいる。その自分の中の観客にとってそれが新しい冒険をはらんだものとしてリアリティを感じる。
リアリティというのは、事物を見る感受性にとっての何らかの冒険が含まれたものだと思います。何かこちらの存在が脅かされる、勝負を迫られる、そういうものだと思うのです。【9】
ここでいうリアリティとは、単に事実かどうか、客観的かという話ではありません。型にはまった事実を描き出すことよりも、まず、自分がワクワクしているか。そこにハッとする刺激や冒険があるかどうかが、リアリティの鍵を握っているのではないか。
どうも書いていて乗らないなと思って後で読んでみると、こうきて次はこちらにいくぞというのが見えている。そうするとつまらない。読んでいてこちらがワクワクしてこない。大体つまらない文章とか小説はそういうものではないかなと思うのです。【9】
文章を書くことは、自分のリアリティを確かめることだと言えますが、そこでやっかいなのが、その道具である言葉。いわば、リアリティをはかる“ものさし”としての言葉、その根拠がどうにもあやふやだという点です。
夢の中で、何も手応えのないフワフワの世界を泳いでいて、不安になることってありますね。なにが基点なのか、この場合、ものさしはなんなのか、こういった疑問は本当をいえば、現実生活の底をいつもひたしていると思います。…
メートル原器みたいな基準というのは、厳密にいえばこの現実には何もないかもしれません。でも、ある制度が支えている。その根拠のない微妙なバランスというか、いかがわしい柔構造のものさしみたいなものがいつも気になる、ということがあります。…
どこにも硬い手触りがなくて宙に浮くのはたまらなく不安ですし、ふとした弾みで裏側を覗いてしまうのは大変な恐怖です。経済や社会のもろもろの約束事は、ひょっとするとその恐怖に蓋(ふた)をするものかもしれない。言葉も頭からしっぽまで約束でできあがっています。【9】
私たちは、言葉という約束事によって、現実生活のなかで感じる子供みたいな疑問(あるいは不安や恐怖)を抑圧したり、覆い隠しているだけなのかも知れません。世の中には、言葉をブロックのように使って「大人の論理」を積み上げていく文章もあれば、自分が巻き込まれている現実そのものをつき動かしたり、揺さぶる文章もあります。
赤瀬川さんは、作家の深沢七郎さんが書いた文章、『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)を読んだときの面白さについて次のように語っています。
笑うということは揺すぶってくれるわけです。それが非常に快感で、きれいな状態に近づく、白紙の状態に近づく、ナンセンスというのはそういうことだと思いますが、非常に痛快なわけです。…
少なくともいわゆる計算された表現ではないということはわかるのです。いやおうなく出来てしまった文章というか、そういう面白さなのです。【9】
大人の論理に安住することなく「世の中でグニャグニャと起こっていること」の意味を探り、創造し、いかに遊ぶか。常識的な思考の枠組みを疑い、今の「私」を超えようとする記述も、一つの冒険です。
読者が頭の中で創造的に想像できなければしょうがないわけで、頭が遊んでこそそれができるわけです。
ところがAのことをAの言葉だけで書いてあるものを読む場合はただの勉強になる。そうするとおもしろくはないから、そういう冷えた感受性で入ってくるものはカスというか、粉みたいな、ほんの微量なものになってくる。
だからものを書くにはいかに読む相手に託するか、これがむずかしいのです。【9】
言葉の表現の問題というのは、無意識の了解事項をいかに有効に動かせるかということの問題ではないかと思います。【9】
◆<超私小説>の原理
さて、そんな赤瀬川さんは自身の文章創作のスタイルを「超私小説」と名づけ、次のように解説しています。
内面暴露の私小説というニュアンスではなくて、「私」に関する小説、「私」を研究する小説、「私」を学問する小説といいますか。【9】
あくまで見えない自分の中の世界と見える世の中の境界を言葉のホログラフィとして浮び上らせる、それがここで言おうとしている超<私小説>の原理です。【9】
日本独特の文芸ジャンルに「私小説」というのがありますが、それとは違っているようです。理想と現実の矛盾や葛藤に苦悩する「私(=近代的自我)」の物語を描くわけではありません。むしろ、他人事のように路上観察のまなざしを、そのまま「私」に向けるような創作方法です。
そしてこの「超私小説」の方法では、自己を超えた力、いかに無意識や外部からの偶然の力を呼び込むかが、重要なポイントになってくるようです。
むしろ外からの偶然の作用、…千差万別のさまざまな働きかけを受ける場として作業を進めた方が、自分を超えた自然の力を導入できるわけです。
そうなるとまた無意識的に書いたつもりのバラバラのパーツが、いつの間にか一つのネットワークにジョイントしてくる。それもまるで偶然のように。それが書くことの面白さであるし、発見のよろこびでもあるのです。これは小説、超<私小説>なるものの、重要なポイントだと思います。【9】
以上ここまで、長々と引用してきましたが、赤瀬川さんの発言をまとめると、この言葉に尽きるようです。
要するに遊ぶことが第一だと思います。いかに遊ぶか。【9】
では最後は、赤瀬川さんの弟子でありゲンペーさんと長年いっしょに遊んできた南伸坊さんの証言で締めくくりたいと思います。『赤瀬川原平の芸術原論展』の図録に寄せられた南さんのエッセイの一部からの引用です。
赤瀬川さんが、前衛芸術をつくっていた時も、小説を書いていた時も、漫画を描き、エッセイを書いていた時も、それは前衛芸術家をめざしたのでも、小説家になろうとしたのでも、漫画家、エッセイストになろうとしたのでもない。
脳が活性化する楽しさの中にいること、そのことが重要だったのだ。会話の中で冗談を思いつく、イタズラを思いつく、なにかを発明する、そういう瞬間が好き。あらゆる活動の大本にあったのが「冗談」だったのじゃないかと私は思っている。
(南伸坊「『笑い』の芸術」)
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