60歳を過ぎてから作家となった須賀敦子。
最後は、彼女の語る文章術と、生前の彼女を知る人たちの証言を拾いながら、
文章を書く/読むという孤独で自由な営みについて考えてみます。
≪夜、駅ごとに待っている「時間」の断片を、
夜行列車はたんねんに拾い集めては
それらをひとつにつなぎあわせる≫ 【1】
(01)の冒頭で引用した須賀さんのエッセイ。
「時間」の断片をひとつにつなげるという話の続きは、こうでした。
「時間」、とあのころ言葉の意味を深く考えることもなしに呼んでいたものが「記憶」と変換可能かもしれないとまでは、まだ考えついていなかった。思考、あるいは五官が感じていたことを、「線路に沿って」ひとまとめの文章につくりあげるまでには、地道な手習いが必要なことも、暗闇をいくつも通りぬけ、記憶の原石を絶望的なほどくりかえし磨きあげることで、燦々と光を放つものに仕立てあげなければならないことも、まだわからないで、わたしはあせってばかりいた。【1】
五官が感じていたことを「言葉」に変えて、つなぎあわせる。「記憶の原石」を磨きあげ、光を放つものに仕立てあげなければならないというのは、とても作家らしい、“文学的”な物言いですね。
しかし作文の苦手な私たちは、文章のクオリティや価値を意識しすぎると何も書けなくなります。こうした「美しい文章を書かなければ…」という規範は、“文学”特有のものですが、それはまた後で。
◆記憶をつなぐ「縦糸」と「横糸」
須賀さんは、どのように「記憶」をつなぎあわせ、織り上げるかという点について、続けてつぎのように書いています。
「線路に沿ってつなげる」という縦糸は、それ自体、ものがたる人間にとって不可欠だ。だが同時に、それだけでは、いい物語は成立しない。いろいろな異質な要素を、となり町の山車のようにそのなかに招きいれて物語を人間化しなければならない。ヒトを引合いにもってこなくてはならない。
脱線というのではなくて、縦糸の論理を、具体性、あるいは人間の世界という横糸につなげることが大切なのだ。たいていの人が、ごく若いとき理解してしまうそんなことを私がわかるようになったのは、老い、と人々が呼ぶ年齢に到ってからだった。【1】
論理という縦糸と、人間の世界という横糸によって織り上げられる文章。ものがたる人間の頭のなかにある道筋、レール(縦糸)と、なにか異質なもの、リアルで具体的な人間の世界(横糸)が出会い、交じり合う。そんなイメージでしょうか。
イタリアから帰国した後、「日本へ帰って十年間はどん底だったわよ」「私、くず屋をしてたこともある」【12】と語っていたという須賀さんは、どんなふうに「人間の世界」と交わっていたのでしょうか。
着々と大学でのキャリアを築いた後、人気作家となった須賀敦子はどんな人だったのか。周囲にいた人たちの言葉をいくつかを拾ってみます。
◆自分の書いたものに自信がなかった
須賀敦子は「登場したそのときからすでに完成された作家」と、多くの批評家から賞賛されていますが、彼女を担当した編集者たちは口をそろえて、須賀さんは自分の書いたものに自信がなかったと語っています。
木村 須賀さんって「ひどいの書いちゃって。ちょっと読んでみてくださる?」とおっしゃって読ませていただくと、だいたいすごくいいんですよ。
佐久間 あれは謙遜ではなくて、本当に自信がないというのが不思議でした。
木村 そうそう。
尾形 自信がないときのほうがいいんですね?
木村 私の場合はなぜかいつもそうだったんです。「本当に変なものを書いちゃって」とね。謙遜じゃないんですよ。本当に自信がないんだと思うんです。…
(「編集者からみた須賀敦子の素顔」【13】)
あんな作品を書いた須賀さんでも、本当に自分の文章に自信がなかったらしい。たとえば、“文学”に対する高い志と美意識が厳しい自己批評につながったと、一応言えると思いますが、それでも不思議ですね。
もう少し、素顔に迫る証言を拾ってみたいと思います。
晩年のある時期、私は朝日新聞の書評委員会で彼女と同席していた。帰りには、「黒塗りの車」つまりハイヤーがひとりひとりに出るのだが、彼女はそれに乗ることをいやがった。「ああいうものに平気で乗るセンスとずっと戦ってきたのよね」と私にいった。その言葉は気負いなくさらっと発声されたのであるが、私は少し驚きつつ、温厚な表情の裏側にひそむ強いなにものかに触れた気がした。
彼女は「お上」や「当局の方針」を憎んだ。それは、そういうものにふりまわされる経験を経た戦中派の意気地のようであった。マスコミであれ作家であれ、エラそうな態度をとるものを嫌った。他人の人生を左右しようとするすべての圧力に対して強く反発した。
(関川夏央『ヴェネツィアの宿』解説) 【5】
朝日新聞社の書評委員会。黒塗りのハイヤー。文化的権威の象徴のようなものですね。
深い教養と学識をもつ須賀さんに、そういう権威筋からお声がかかる。けれど「できあがった制度や権威のなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする」ような彼女ではない。
須賀さんの大学の後輩は、こんなことを言ってます。
「特権階級であってはいけない、そうじゃないところに一生懸命、自分を突き落とそうとしていく」…「それがガスちゃんの壁なのかな」(「もう一人の父」尾崎真理子【13】)
※ガスちゃん:須賀さんのあだ名
雑誌の追悼特集号では、担当した編集者をはじめ、さまざまな人たちが作家としての須賀敦子の人間的な魅力について語っています。そのなかにこんな証言を見つけました。彼女が作家になる以前から交流のあった丸山猛さんのインタビューです。
◆「美意識の鋭い、パワフルな子供」の孤独
あの人は、自分の自由を抑えるものは何者も許さないというような、自分の美意識がはっきりありましたね。美意識の鋭い子供。そしてパワフルであるから、人に被害を与えることもある。
ただ、あの人はおそろしく悲しい人だなと思ったのは、そのような自分を、よく知っているんですよね。常にぼくにこぼしていたのは、「友だち少ないんだよ」という言い方で、「そうだよな、あなたの性格だとね」というと、「そうなんだよ」と。結局、自分のおそろしいほどのわがままとか、そういうのをよく知っているんですよね。孤独というんですか、ものすごくありましたね。それから、老後に向かっていくときの女一人の頼りなさとか。でも、あの人はそういうことを対外的には口が裂けてもいわない。自分で立っていくんだ、と。強過ぎる人ですからね。
(『須賀さんは「パワフルな子供だった」』丸山猛【14】)
この、パワフルな子供のようにわがままな須賀さんと、さきほどの、自分が書いた文章にまるで自信がなかったという須賀さんの落差がすごいですね。いったいどういうことでしょうか。
丸山猛氏は、須賀さんが作家として売れ始めてから、それまでの生活者としての顔と、文学者としての顔の2つの世界を持っていたとも語っています。
須賀さんの、文学者と生活者の両方の顔を、ぼくは見ていましたが、ぼくらといるときは生活者の彼女のかわいい面を見せていました。すごく子供じみているというか、一緒に本を運ぼうとしたり。なにしろ好奇心の強い人ですから、彼女自身が非常に子供になれるというんでしょうか。…
逆にいうと、文学者のほうですと、やはりつらそうだなというのが見えました。…彼女はちがう二つの世界に分かれている。どっちが本当かぼくにはわからないですけれども、ふつうの文学者とはちがって、五十歳ぐらいまでは生活者でいたわけですからね。その部分と二つに分かれているような気がしています。
(「須賀さんは『パワフルな子供』だった」丸山猛【14】)
(03)でも語られていた須賀さんの「ふたつの世界」。今回は、文学者と生活者の世界の二項対立です。
どちらも須賀さんの本当の顔だと思いますが、でもなぜ文学者のほうの須賀さんは、つらそうに見えたのかが気になります。
◆作家となった須賀さんが抱えていたジレンマ
先ほどの「書いたものに自信がなかった」という話をあらためて考えてみると、須賀さんは、ただ編集者に望まれるものを書いただけで、本当に書きたいことを書いていなかったのではないか、そんなうがった見方もできます。
実際、須賀さんに対して「編集者として興味がもてるのはあなたのイタリアだけ、あなたの日本には殆ど興味がない」と言い放つ編集者や、「この文章を須賀さんの文章として出したくありません」というほど厳しいことを言う担当者もいたそうです。
編集者というのは、すごい力をもっているんですね。
売れそうな本を書かせるために、あるいは作家を育てるために(?)
須賀さんが亡くなる少し前、教会の神父を訪ねてこんな言葉を残していたそうです。
「私にはもう時間がないけれど、私はこれから宗教と文学について書きたかった。それに比べれば、いままでのものはゴミみたい」。
私は胸をさされたまま、文化会館でのあの言葉と顔をよみがえらせていた。彼女は書かれるべきものが書けずに、最後まで“言葉”をあやつり続けたまま死んでいく現実を自嘲して、顔をゆがめたのではなかったか。
(鈴木敏恵「哀しみは、あのころの喜び」【15】)
「いままでのものはゴミみたい」というのもすごい話です。
須賀さんにとって「文学」は、慰めや安息を与えてくれるもの
人生の疲れを癒してくれるもの で、だからこそ死ぬ前に、教会の神父にそう語ったのではないか。
自分が書いてきたものは、理想の文学とは程遠い、と感じていたのかもしれません。
結局、須賀さんは「文学」を愛するあまり、
文学から自由になれなかったのでしょうか。
いや、そもそも「自由」とは何か。
自由になるとは、どういうことでしょうか。
須賀敦子の追悼特集号に、こんな面白いエピソードがありました。
評論家の関川夏央さんが須賀さん自身から聞いた話で、彼女が聖心女子大を卒業し、慶応大学の大学院に進学したばかりの頃のことです。
当時の学生たちの多くがそうしていたのだが、彼女もお弁当を持って学校へ行った。勝手のわからない三田のキャンパスで彼女は昼食の包みを手に、慶応からそのままあがってきた男子の院生に、「どこでお食事をいただけばいいのかしら」と尋ねた。
なにもかもがきっちり決められていた聖心から類推して、そういう場所があるに違いないと思っていた。なのにどこにも見当たらず、彼女はほんとうに当惑していたのだった。
するとその小沢昭一に似た学生は、なかばあきれたような目で須賀敦子を見た。それから明るい声でいった。
「どこでいただけばいいのかって、そりゃ、どこででもいただいちゃってくれよ」
「どこででもいただいちゃってくれよ」
彼女は四十五年も前の学生の口調を、二度真似して繰り返した。
「あたし驚いちゃったわよ」彼女はいった。「そうか、と思ったわけよね。ここでは、どこでいただいちゃってもいいんだって。なんだかそのとき、とても救われた思いがした」
(関川夏央「須賀敦子の風景」 【13】)
なにもかもきっちり決められた世界から解放されたお嬢様。
なんだか『ローマの休日』みたいですね。
自由って、こういうことかもしれない。笑
「そういう場所が決められている」という思いこみ、規範からの解放。
私たちが生きている「どこでも」が、そういう場所になりえるという気づき。
文学を愛し、自分の手で道を切りひらこうとしてきた須賀敦子。
言葉がさし示す論理や規範という「縦糸」と、
具体的な人間という「横糸」で織りなされる記憶をめぐる物語。
そうした言葉の力によって心がゆれうごく瞬間、
言葉によって開かれてゆく世界に、私たちは自由を感じます。
では最後に、サバと同じトリエステの詩人、
ジョッティについての須賀敦子の解説と訳詩をどうぞ。
※文中のパオロは、戦死した息子の名前
時間だけが経っていく。自分は、泣けない、とある日ジョッティは書いている。パオロ※のためにも泣けなかった。泣かないのは、「もしかしたら、たとえ泣いたところで、そばにだれもいてくれないからではないか」とも書いている。精神を病んだ妻は、家にいなかった。…
つらい日々を、じっと生きぬいた晩年のジョッティには、静穏にみちた作品がある。つぎにあげるのも、トリエステの言葉で書かれていて、五三年の作品で、題は
「ある朝、海辺で」。
青い海に小さな舟が浮かんで、
山のうえには、陽のあたる小さな
村が、大きな白い雲の下にある。
ぼくの中にいるもうひとりが、あいつが、
あの小さい舟に乗りこんで、あかるい
海原を、どこまでも行きたい、という、
どこまでも。それから、ずっと、あの
光のなかの村までも、行きたい、という。
ぼくは、わらって、だめだよ、という。
あいつはわらって、いいから、いいから、という。
この詩のなかで、「あいつ」と呼ばれているのは、もしかしたら、ジョッティが愛した人たち、彼よりもさきに死んでしまった人たちではないかと、私は考える。【6】
私の中にいて「いいから、いいから」と、
笑いながら誘いかけてくる友人。
どこまでもいっしょに行きたかった人の記憶…。
かつて「山のあなた」へ出かけていった人の詩を読んだ子どもも、いつか、その言葉がしみじみとわかる日がくる。「だれでも、そんなものなのね」と振り返ることができる。それが大人になるということかもしれません。
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