やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
1889(明治22)年、八幡村ができる
1888(明治21)年の「市制・町村制」の公布を受けて
翌1889(明治22)年4月に、尾倉村、大蔵村、枝光村の
3村が合併して「八幡村」となりました。
この明治の大合併によって、現在の八幡東西区域では、
以下の6村が誕生しました。( )内は旧村名
八幡村(尾倉、大蔵、枝光)
黒崎村(鳴水、熊手、藤田、前田)
上津役村(小峰、下上津役、上津役、引野、市瀬、穴生)
洞南村(永犬丸、則松、折尾、本城、陣原)
香月村(楠橋、香月、馬場山、畑)
木屋瀬村(木屋瀬、野面、笹田、金剛)
◆「八幡村」命名のエピソード
明治22年、3村合併して八幡村と名付けたので、これがそもそも八幡の存在の初めである。しかるにこの村の名付けには、すこぶる面白いエピソードがある。その当時の委員であったという大蔵の白石弥七さんが話しておられた。同翁の話に、3村の協議には尾倉の「尾」の字を取り、大蔵の「大」の字を取り、枝光の「光」を取りて、村の名を尾大光(びだいこう)村と一決して、委員達はその頃、芦屋町は遠賀郡で一番にぎやかな所であったから、ここに郡役所があったので、皆は草鞋(わらじ)ばきで泊りがけで出かけて行き、郡役所に出頭して、村の名がようやく決まりました。郡役人はいかなる名前かと尋ねたので、3村から1字ずつ村の字を取って「尾大光村」と付けることにしました。と申したるに、役人達は腹をかかえて嗤(わら)っていわく、何とか他によろしい名はないものかな、日本広しといえども左様(さよう)おかしい名前はない。皆も顔見合わせて、いかにも恥(はじ)ろうて、それでは今一度、宿に引下がって協議をやり直して参ります。と旅館に引揚げて、夜どおし練った結果、3村とも氏神が八満宮であるから、八幡村と、すなわち八幡(やはた)村と付けたらどうか、誰かが動議を出して、これは妙案とたちまち協議は決定して、翌日はみな勇ましく、堂々と郡役所の門をくぐった。
 皆が意気揚々としていたので、郡役所の役員も朗(ほが)らかに、何かよい名前ができたかと尋ねたので、3村がひとしく八幡宮を氏神様にいただいているので、八幡村と付けることにしましたと言ったところ、それは非常にめでたい名前が付いたと、聞き届けられたので、委員の皆も大喜びで地につく草鞋(わらじ)の脚も軽く村に帰って来て、八幡村と名付けたことを村民の皆に報告したということである。
(原田準吾「明治二十二年の頃」『我等の枝光』より)
※一部表記を改めました。
◆「八幡村」発足当時の3村のようす
※1町≒1ha
尾倉村
大蔵村
枝光村
計(八幡村)
戸数
111戸
145戸
109戸
365戸
人口
635人
861人
622人
2,118人
面積合計
(官:民)
259町
(60:199)
1,136町
(804:332)
203町
(16:187)
1,598町
(880:718)
田畑
106町
(40.9%)
103町
(9.1%)
114町
(56.2%)
323町
(20.2%)
宅地
5町
(1.9%)
6町
(0.5%)
4町
(2.0%)
15町
(0.9%)
池沼
6町
(2.3%)
―――
2町
(1.0%)
8町
(0.5%)
山林
114町
(44.0%)
894町
(78.7%)
74町
(36.5%)
1,082町
(67.7%)
原野
23町
(8.9%)
112町
(9.9%)
2町
(1.0%)
137町
(8.6%)
雑地
5町
(1.9%)
21町
(1.8%)
7町
(3.4%)
33町
(2.1%)

塩田

―――
―――
6町
(3.0%)
6町
(0.4%)
※明治22年の町村合併調書(『八幡市史』ほか)より
◆<合併を要する事由>
現今、尾倉村、大蔵村、枝光村は共に山間の僻村(へきそん)にして、
各々独立自治の目的を達するの資力なく、現今、戸長所轄区域中において、
この三ヶ村は特に一定の地形をなし、民情もまた相異なることなきゆえに、
合併して有力の町村を構成せんことを欲す。

◆<新町村名の選定>
現今、尾倉村、大蔵村、枝光村は産神(うぶがみ)
八幡(はちまん)神社を祭祀(さいし)せるをもって、
特に村名を選択せり。

◆<備考>
村役場を現今、尾倉村字(あざ)石縄手※に定めんとす。

「明治二十二年町村合併調書」より
※石縄手の場所は、『わが故郷 八幡』によると、現市立八幡小学校南側から枝光方面へ向けての一帯で、おそらく新しい村役場はここを東西に通っていた長崎街道に南面して設置されたと推定されている。下の地図の岡東小の近くか。
明治20年頃の尾倉村・枝光村・大蔵村  ★地図をクリックで拡大
北九州市立八幡小学校創立110周年記念事業後援会 「子どものための郷土史 八幡むかしむかし」掲載の地図を加工