【Interview】
魚町の横丁を曲がったら、
もう知らん世界がいっぱいあって。
時が経つのがわからんやったね。
吉田 照子 先生

◆ <昭和初期。魚町での幼少期の思い出>

―――歳をとると、子供時代とか思い出したりします?

私、3歳くらいが最初の記憶。私の家は小倉の魚町2丁目にあった商家で、食べ物屋をしよったんよ。

―――都会じゃないですか。

生まれ育った繁華街から、一丁も二丁も行かんのに、もう別世界なのよ。今モノレールが通る下あたりが鍛治町ちゅうてね、そらぁ、いい町やったんよ。あの町をよう思い出す。子どものころ遊んだ町を。

―――どんな感じの町だったんですか?

魚町にはね、お菓子やら買うのに浜田屋というパン屋さんがあって、熊さんのカタチをしたチョコレートとか、洒落たお菓子ばっかりなわけよ。
そこをちょっと行った鍛治町には、駄菓子屋があってね、薄べったい一銭洋食を焼いてくれるの。常連さんやないと自分で焼かしてくれんから、私やらじっと見とるわけ。こう焼いてね、新聞紙の上に置いて、醤油を塗って、あれを食べるのが好きでね。

―――魚町はちょっと入ると下町みたいな感じなんですか?

うん。好きやったぁ。そこの入ったところに、私が赤ん坊のときに面倒をみよってくれた大叔父さんがね、一人で住んどったよ。で、ちょっと離れたとこから彼女のおばあちゃんが通ってきとってね。

―――あー、なんか粋ですね。

ご飯になったら、いそいそと膳に布巾をかぶせて持ってきてね。かわいらしかった。子供心にね、あの人は奥さんじゃないけど、そんな人なんやなぁ、と思いよったよ。

―――幼かった照さんは、その家でどんな遊びを?

入ってすぐの部屋には引出しのある箱火鉢があって、その後ろには珍しいものがいっぱい飾ってあるわけ。そこを見るだけで日が暮れるほどで。次の部屋に行ったら寝床には枕屏風が置いてあって。床の間には、上が極楽、下に地獄を書いた絵があって、地獄には餓鬼がおって、血の池で舌を抜かれたりしよって、何べん見ても飽きがこんの。

―――地獄絵ですね。

遊びに行くたんびにその絵をずーっと見よった。芥川の『蜘蛛の糸』を読んだときに、あの絵をすぐに思い出したよ。

―――文人みたいな方だったんですか?

大叔父はね、火消し。イナセなおじいちゃんでね。女にもてたらしいよ。無法松と一緒の頃って。ほいで、ちょっとした箱庭をつくっとってね。それを見るのも時間がつぶれるのよ。魚町とは全然違うのよね、なんか自由に想像してね、自分で勝手に物語をつくったりしてから(笑)。

―――いろんな想像力を刺激してくれるんですね。

大叔父の前の家はね、下駄屋さんの夫婦で、そこには猫がいっぱいおるンよ。もういろんな猫が。それがまた楽しい面白いでね。横丁を曲がったら、もう知らん世界がいっぱいあってから。いいねぇと思いながら家に帰りよった。時間が経つのがわからんやったね。

―――三つ子の魂なんていいますけど、幼い頃のわくわくする感じというのは、ずっと残るんですかね。

その頃の、ある瞬間の髪型とか、着とった服まで覚えとるよ。小学校に入ってからもよく通ったけど、三つか四つくらいの風景が、ものすごく強烈に残っとるんよね。あの頃をよう思い出す。今はもう跡形もないから、余計にね。

―――本で読んだりすると、今とくらべて昔の人は、たとえ裕福じゃなくとも、生活に余裕があったように思えるんですけど。

みんなが住んどる佇まいというか、空気がね。家に帰ったら商売でしゃっしゃしよったけど、そこに行ったらほっとするようなね、小っちゃいながら、なんか救われるようなね、ああ、いいなーと思って、それでしょっちゅう行きよったんやと思うよ。

―――いいですねぇ、そういう幸福な子ども時代。

それはもう幸せよね。それを今ね、「あんときは、なになにやったねぇ。」と話す人がもうおらんのよ。
胸のうちにしまって、時折ふっと思い出すだけやね。

(インタビュー:2007年7月10日 )