やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
八幡の空襲
『わが故郷 八幡』(北九州八幡信用金庫:1995)から
1944〜45年の「八幡の空襲」に関する記述の一部を紹介します。
(※引用にあたって、新たに見出しをつけました)
★1944年6月16日(第1回八幡空襲)
枝光小学校で、警備中の中学生が死亡

 八幡市街地の被害状況は、枝光駅前と桃園町付近が被災した。被災人口およそ300人・被災戸数およそ50戸・被災面積およそ2000坪。主目標の八幡製鉄所にも爆弾が投下されたが被害状況は不明。この日、枝光国民学校を夜間警備中の県立八幡中学校生徒一人が、機銃掃射を受けて死亡した。空襲が北九州に向けられるようになると、五市は6月30日に児童疎開都市に指定される。戦場は中国や南方方面でのことで、内地とは無関係と思ってきた市民たちをさらに恐怖におとしいれた。…
 八幡製鉄所には多数の連合軍捕りょが働いていたので、戦況を伝える新聞などの持ちこみは禁止される。戦争や空襲に関してデマを流したという疑いで、警察に逮捕される町会長も出た。軍部や警察の民間に対する統制や監視は一段と厳しくなる。

※枝光国民学校:現在の枝光小学校
※県立八幡中学校:現在の八幡高校
機銃掃射による死ではなく、「郷土史・八幡空爆T」(梶原茂樹著)によると、
 爆弾によって校舎が破壊され、爆風で飛散した石が当たって死亡した。
 亡くなった生徒は、八幡中学校第23期生の安藤寛君。
※五市:当時の八幡市・小倉市・戸畑市・若松市・門司市

★1944年8月20日(第2回八幡空襲)
折尾の上空で、敵機への体当たり攻撃
 一次空襲は、20日午後4時半ころより開始された。地上からの高射砲弾のさく裂する上空を、悠々と飛行する銀色の巨体からはつぎつぎと爆弾が投下される。芦屋・小月両基地より飛びたった友軍機が空中戦をいどむ。小月戦隊の野辺軍曹・高木伍長同乗機は、折尾上空で果敢な体当たり攻撃を決行して2機を撃墜した。この壮絶な光景は多くの市民に目撃された。二次空襲は、同日午後11時半ころにはじまり、21日午前2時ころまでつづいた。
1945年4月〜終戦
米軍が機雷を投下し、北九州の海域を封鎖
 関門海峡・洞海湾水域への機雷投下もおびただしく、B29より全国に投下された1万2000個のうちおよそ5500個が4月4日より終戦前日まで、この水域に投下されたという。航行する船舶の沈没が相次ぎ、大小あわせておよそ360隻の艦船が被害を受けた。…このころ触落沈没した船舶より引きあげられた、半ば腐敗し悪臭のする大豆・こうりゃん・米や衣料が出まわる。米は轟沈米(ごうちんまい)と呼ばれ、貴重な食糧補給であった。
★1945年8月8日(第3回八幡空襲)
地獄絵図と化した八幡の市街地

 この日は昭和16年12月8日の開戦にちなんで、戦意高揚を目的として毎日8日を指定した大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)でもあった。八幡の空は朝から快晴であった。

 午前7時半ころの警戒警報につづいて、同8時ころには空襲警報が発令された。しかし敵機来襲の気配もなく、そのまま警報はいつものように解除されたと思われた。ところが同10時ころ突然に、聞き慣れた金属音のB29の爆音が聞こえたかと思うと、快晴の青空は、アッという間に敵機大編隊にさえぎられて、見えなくなる。空から銀色のテープ状のものがひらひらと舞い落ちてくるのが見えた。電波妨害用の錫箔(すずはく)である。その直後ザザーッという音を発しながら、焼夷弾が集中豪雨のように落下してきた。焼夷弾はドラム缶様の物体の落下途中から、はじかれたように飛散していた。不気味なB29の爆音、焼夷弾の落下音・高射砲弾のさく裂音や機銃掃射音が入りまじる。

 やがて、市街の諸々から炎と黒煙が立ちのぼり、市街地はみるみる火の海となった。日頃の防火訓練のバケツリレーや火たたきなどの防火用具は、一切通用しない。快晴であった八幡の上空は、瞬時にして黒雲に覆われたようになる。激しく燃えあがる炎の熱で上空に変化が生じたのか、ところによっては黒い雨の降雨現象もあった。焼け跡や道路のあちこちに焼死体が目につくようになる。煙が目にしみ異臭がただよってくる。その中を人々が逃げまどう。地獄絵のような異様な事態となる。

 尾倉や前田地区の大型防空壕は、避難した人々であふれた。壕に避難できた人々は直撃をうけて全滅し、満員のため入壕を断わられて助かった、という後日談は今も残る。市内最大級の100メートルを超える尾倉の小伊藤山(こいとやま)横穴防空壕では、300人とも700人ともいわれる人々が死亡した。実数は不明である。桃園町付近の防空壕では花尾国民学校高等科女生徒34人と女教師が犠牲となった。この日は若松・戸畑も同時空襲を受けた。米軍の無差別攻撃であった。

 この八幡の大空襲では、市街の中心部である枝光・中央区・尾倉・前田のほぼ全域と神原・鳴水の一部を除いて焼け野原となった。被害状況はおよそ、死傷者2500人、被災人口5万2562人、被災戸数1万4000戸、被災面積90万坪と『八幡市史』にあるが、未確認の行方不明などその実数はこれをはるかに上回るといわれている。被災戸数は当時の全戸数の50パーセントを超えた。
 死者のうち、1800余体は八王寺に集められ、憲兵の厳重な監視下で極秘に荼毘(ダビ)に付された。…

 西部軍管区司令部は8月8日の空襲状況を、「米軍の空襲を受けるも、敵機12機を撃墜、12機を撃破。わが方の損害は調査中なるも軽微の見込みなり」と発表した。この日の夜半、ソ連が突如対日宣戦布告をする。

 八幡大空襲の翌9日午前9時50分ころ、日本投下の原爆第二弾を搭載したB29が広島についで第二目標とされていた小倉上空に侵入する。この日の小倉の空は雲が厚くかかり、その上前日の八幡空襲の残煙がただよっていたため、目標が確認できず投下を断念して北九州上空を旋回しながら機首を西へ向ける。第二弾目の原爆は第三目標の長崎に投下された。14日、日本はポツダム宣言を受諾し翌15日、日本全土に多くの犠牲と深い傷跡を残して、太平洋戦争は日本の無条件降伏で終結した。