【note:03】 高野文子『黄色い本』

(2020.04.27 ブログ記事を改稿)

2018年1月に開いた小さな集まり(日曜ラボ)で
「好きなマンガやアニメ」を紹介する企画をやりました。
他の参加メンバーが20代と若かったので
マンガ史に残るような名作を薦めたいと思い
高野文子『黄色い本』をとり上げました。

副題に「ジャック・チボーという名の友人」とありますが、
『チボー家の人々』という小説を題材としたマンガです。
といっても、ただ単に有名な小説のストーリーを
そのままマンガ化(コミカライズ)した作品ではありません。

『チボー家の人々』
作者:ロジェ・マルタン・デュ・ガール(1937年:ノーベル文学賞受賞)
1922年から18年をかけて発表されたフランスの長編小説で、
日本では1956年に白水社から全5巻(訳:山内義雄)で刊行。

市立図書館で借りてみると『チボー家の人々』は
実際に黄色い表紙の本でした。↓
(現在は、新書版の「白水Uブックス」全13冊で刊行)

マンガ『黄色い本』の舞台は、1970年頃の日本の雪深い地方都市。
高校3年生の田家実地子(たい・みちこ)=実(み)っコちゃんが
図書室から借りた『黄色い本』を読むという、それだけの話です。
あっと驚くような事件が起きるわけではありません。

が、若い時期ならではの虚構世界(フィクション)への没入、
作品と自己との対話、濃密な読書という体験そのものを
高野文子ならではの表現力で描いた稀有な作品であり、
マンガ表現の奥深さを知るのに格好のテキストだと思います。

ある作品に感動した体験が、後になって小説やマンガなど
新たな別の作品に生かされることは珍しくありません。
というか、あらゆる表現や創作活動は先行する作品の影響を
(意識的/無意識的の違いはありますが) 受けています。

たとえば、Yaha-lab.ノートでも紹介した
恩田陸(おんだ・りく)の小説『チョコレートコスモス』は、
彼女が10代から夢中になって読み続けてきたマンガ
『ガラスの仮面』のワクワク感を再現した小説でした。

「1本のブログから。」書店員がすすめる恩田陸
Yaha-lab.ノート【小説】
一方、この『黄色い本』は高野自身の"青春の書"である
『チボー家の人々』を題材にして描かれたマンガです。

読者は、たとえ『チボー家の人々』を知らなくても、
何か別の小説、あるいはマンガであっても、思想書であっても、
若い頃に読んで、深い感銘を受けた作品を持っている人は
そんな読書体験をなつかしく思い出すことでしょう。

『黄色い本』のコマには、ところどころに手書きの文字で
小説『チボー家の人々』の本文が効果的に引用されています。

実(み)っコちゃんが読んでいる原著書からの引用文、
読んでいる姿勢や視線、セリフ、心の声(モノローグ)、
作中人物との会話や妄想などを交えながら
虚構の世界へ没入しているときの不思議な感覚が
リアリティをもって生き生きと描かれています。

この作品のすごさは、それだけではありません。
作中人物(ここではジャック・チボー)の言葉や行動によって
読者(実っコちゃん)自身の"生き方"が問われたり、
(大げさにいえば、思想的な影響を受けて)
揺れ動く心   若い不安や焦りが描かれています。

高野文子さんは、『黄色い本』について語った対談で
自身のこんな考えを披露しています。

高野:…ヘンな話になっちゃうんですけど、マンガにしろ本にしろ、楽しむために読むっていうのは、わたしは、さんざん商売にしてきながら変なことを言うかもしれないけど、何か間違ってないかと思っているところがあるの。

大友:楽しみじゃないってこと?

高野本を読むってことは、馬鹿を治すために読むものだと思っているところがあるんですよ。

大友:ふははは、スゲエなあ!(笑)

高野:道中楽しいのはそりゃあ勝手だけれど、でも目的は、馬鹿を治してりこうになるため。りこうになって人生に失敗しないようにするため。小説だろうが何だろうがハウツーものとして読む。…

(「<描くこと>と<描き続けること>の不安と恍惚」
高野文子×大友克洋
 『ユリイカ』特集*高野文子 2002年7月号)

楽しむための読書もいいですが、
とくに若い頃には、馬鹿を治すための読書も必要です。

極東の島国。雪深い地方都市の女子高校生は、
理想と現実のはざまで、苦戦していました。

だからこそ 「りこうになりたい」と
切実にそう願うのではないでしょうか。
だからこそ、ジャック・チボーという友人に惹かれ
共に闘いたいと願ったのではないでしょうか。

革命”という思想の是非はともかく、
青春の書には“否定”や“抵抗”の成分が含まれていて、
それが若者を勇気づけることもあれば、傷つけることもある。
『黄色い本』には、そんな心の葛藤まで描かれています。
そして、なんといっても作品のエンディングでの
お気に入りの本を読み終えるときの、あの惜しい感じ。
夢から覚めるときに感じるような、一抹の寂しさもあります。


就職を前にした実っコちゃんが"黄色い本"を図書室に返して、
夢のような時間に別れを告げるシーンが、実に美しいです。

マンガならではの描写と比較するために、
まず、ネームの文字を拾い上げてみます。

「懐かしいねジャック…」

ジャック
家出をしたあなたがマルセイユの街を
泣きそうになりながら歩いていたとき
わたしが そのすぐ後を歩いていたのを
知っていましたか?

メーゾン・ラフィットの小径では
菩提樹の陰から
祈るような思いでおふたりの
やりとりを聞いていました

スイスで再会したときは
わたしは何と声をかけて
良いのやらわからなかった
だってあなたは百ページ近くも
行方知れずで
やっと姿を現わしたと思ったら わたしより
三歳も年上になっていたんですもの

いつも いっしょでした
たいがいは夜
読んでないときでさえ

だけど
まもなく
お別れしなくては
なりません

「極東の人 どちらへ?」
「仕事に…

 仕事につかなくてはなりません」

(高野文子『黄色い本』P069〜072)

太字部分が、下のページのコマに当たります。

さて。すでにお気づきだとは思いますが、
このマンガの主人公である実っコちゃんは、
ぜんぜん可愛くありません。

『黄色い本』を描くとき、高野さんはこう考えていたそうです。

高野:…今回は最初から最後まで、人物の顔はできるだけきちっと描かないようにしようということを意識してましたね。顔を可愛く描いてしまうと、読者はそこに気を取られて他のところを見なくなってしまうので、もう目鼻ついてりゃいい、下手すると、後ろを向いていて、頭にトーン貼ってるだけでもいいという感じでしたね。そのくらいのほうが、読者は手や足の動きに意識がいくだろうと思ったんです。

大友:それも不思議なのは、本来だったらマンガは可愛い女の子とか格好いい男の顔を描くことができれば、それでページは保つんだよね。そういうことを全然していないどころか逆へ行こう行こうとしているわけで、それは大変な一方なんじゃないの(笑)? 
見ていてどこもまったく手を抜いていないなという感じがするからさ。

(高野文子×大友克洋「<描くこと>と<描き続けること>の不安と恍惚」
『ユリイカ』特集*高野文子 2002年7月号)

キレイで可愛い女の子、美しくカッコいい男の子、
そんな"絵になる"キャラクターを立たせて、
読者の妄想に媚びるなんでもありのストーリーが
現在のマンガやアニメ、ラノベ消費の主流だとすれば、
高野さんの場合は、その逆へ行こうとしています。

いったい、高野文子とはどんなマンガ家なのでしょうか。

マンガ読みのプロは、こんなふうに評しています。

マンガ界にとって高野文子は特別の存在だ。
数年に一作と極端な寡作ながらも、
その圧倒的なオリジナリティと高い完成度で、
一般のマンガファンのみならず
同業者にも深い影響を与え、思慕されている。
高野は、いわば音楽界でいうところの
「ミュージシャンズ・ミュージシャン」
あたるマンガ家なのである。

(「高野文子なるもの」の系譜・竹熊健太郎)

※「ミュージシャンズ・ミュージシャン」とは、
同業の音楽家から敬愛される音楽家のことです。

高野文子という作家は、
ワン・アンド・オンリーの特異な才能なのである。
大友克洋とともにニューウェーブの旗手と称されながら、
世間的な知名度は大友のほうがはるかに上。
しかし、マンガ表現としての革新度で言えば、
高野文子のほうがおそらく数段上だろう。

(『現代マンガの冒険者たち』南信長)

大友克洋(おおとも・かつひろ)の凄さも
今の若者は、もうわからないかもしれませんが。

『黄色い本』が2003年の手塚治虫文化賞・マンガ大賞を
受賞した際に、高野さんはこんなコメントを残しています。

この作品は、読書する、小説を読む、ということを絵で表現したら、どういうものになるだろうかと考え、とりくみました。読書は楽しいことではあるけれど、出合ってしまったばっかりに、悲しい思いをすることもある。本とはそういう恐しい一面も、持っているものではなかったか、とそのころ考えていたからです。
ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』は、もちろん私の青春の書です。本当に真っ黄色な表紙の、美しい本でした。

私の漫画は、よく解りにくいと言われます。自分でも綱渡りのようにあぶない描き方をしていると感じています。内心は、とても不安でしょうがありません。この作品も試行錯誤が続き、完成がどんどん遅れてしまいました。

(高野文子 第7回手塚治虫文化賞(2003年6月)受賞コメント)

高野の作品が「解りにくい」といわれるのは、
テーマや表現に冒険的なところがあって、
一般的な「わかりやすい」マンガに慣れた人には
ちょっと違和感があるからかもしれません。

でもその、いい意味での"違和感"こそが
オリジナリティや面白さにつながっています。

たとえば、あえて可愛く描かないという覚悟に
クリエーターとしての冒険心というか、凄みというか
今のマンガのあり方に対する批評精神さえ感じます。

しかも、売れ線のルールとは真逆の描き方でも、
こんなにすごい作品が成立するというマンガ表現の奥深さ。

かわいくないものを、これほど魅力的に描いたマンガを、わたしは知りません。
…実っコちゃんは、とても、いいのです。生きてる。
生きてないけれど(マンガだから)、でも、生きてる、やっぱり。
実っコちゃんが生きていること自体が、なにしろいい、という感じ。

(「あの瞬間へ」川上弘美『ユリイカ』2002.7)

この"生きている"というリアリティを、
読者として感じとれるかどうか、共感できるかどうか。

マンガであれ、小説であれ、読み流して楽しむのではなく、
何度も読み返したり、ページをめくる手をとめて考えてみる、
そんな読み方をせまる作品があります。

高野さんは、本は馬鹿を治すために読むものだと語っていました。
いまさら馬鹿が治るかどうかはわかりませんが、
わたしもできるだけいい作品を、ていねいに読みたい。
何が「いい」かは、人それぞれでしょうけど、
『黄色い本』は、いい作品だと思います。

では、『黄色い本』について語られた言葉を
雑誌『ユリイカ』の特集から、もう少し拾っておきます。

高野文子のマンガを読むとどうしてこんなに泣けるのか。「黄色い本」のラストで号泣しました。…80年代以降マンガ作者・読者にとって大友克洋の存在は大きいけれど、女子にとってはむしろ高野文子の影響が著しく、絵柄は言うに及ばず子どもの視点も女性のつぶやきも、ミニマルな主題を濃密に描き尽くす、テーマと描く手の相即が、こんな風に表現って可能なのだと、勇気と力を与えていました。読むことと書(描)くことへの揺るがない信頼がここにあるのです。
(「ユリイカ」特集*高野文子 編集後記)

「黄色い本」は言葉による共感ではなく、
視覚効果によって他人の読書が体験できる世にも稀なマンガである。

(ヤマダトモコ・マンガ研究者)

高野文子の作品は、さまざまな仕掛けに満ちている。再読のたびに発見があるのは、そのためでもある。たとえば私は「黄色い本」を確実に50回以上は読んでいるが、それでも読み返すごとに、新たに作品の細部が立ち現れてくることに驚かされる。
(斎藤環・精神科医)

高野さんは、現在までに単行本7冊ときわめて寡作です。
興味がある方のために、タイトルを記しておきます。

【高野文子の作品(単行本)】
『絶対安全剃刀』(1982年 白泉社)
『おともだち』(1983年 綺譚社/1993年 筑摩書房)
『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』(1987年 小学館/1998年 マガジンハウス)
『るきさん』(1993年 筑摩書房/1996年 筑摩文庫)
『棒がいっぽん』(1995年 マガジンハウス)
『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』(2002年 講談社)
『ドミトリーともきんす』(2014年 中央公論新社)

あ、それから、ガッツのある人は馬鹿を治すために
『チボー家の人々』 を読んで見るという手もあります。