現代短歌パラダイス!(02)
◆極私的現代短歌アンソロジー

ここからは、さまざまな現代短歌の歌人とその作風を味わってもらおうと思います。世にはすばらしい短歌のアンソロジーが何冊もありますが、今回は主に関川夏央『現代短歌そのこころみ』と、岡井隆 『現代百人一首』を参照しました。

明治以来の近代短歌は、いつごろから大きく変わりはじめたのでしょうか?関川夏央によれば、1953(昭和28)年に斎藤茂吉釈迢空という短歌界の2つの巨星が堕ちた翌年に大きな転回点があったそうです。仕掛けたのは、当時短歌雑誌の編集長だった中井英夫でした。

※斎藤茂吉(さいとう・もきち):明治15年〜昭和28年。アララギ派の中心人物
※釈迢空(しゃく・ちょうくう):折口信夫。明治20年〜昭和28年

短歌界はたよるべき人を一挙に失っていく道に迷うかのようであった。しかし同時に、重しがのけられて身軽になったかのようでもあった。翌年、雑誌の頽勢挽回のために中井英夫は新人発掘を発想して、「五十首詠」募集を誌上に明らかにした。それは、中井英夫本人も予想せず覚悟もしなかった転回を短歌界にもらたした。現代短歌のこころみの歴史はこのときはじまった。【1】

※中井英夫(なかい・ひでお):
大正11年〜平成5年。戦後間もない昭和24年から歌壇の総合雑誌『短歌研究』『日本短歌』などの編集長をつとめ、中城ふみ子や寺山修司などの才能を発掘し、戦後歌壇を蔭で演出する黒衣(くろご)として活躍した。『黒衣の短歌史』、小説『虚無への供物』など。

編集者として歌壇をささえていた中井英夫は、戦後まもない頃の短歌界の動向について、次のように語っています。

地味にうしろに控えながら、私は心のうちで激しく短歌を愛し、またそれ以上に現代短歌を憎んだ。何より少年の日に『赤光』『桐の花』がもたらしてくれた色彩と夢とが、戦後の歌壇にはかけらも見当らず、すべてが一様に灰色の生活短歌、倦くことのない身辺雑詠のくり返しということがぶきみでならなかったのである。むろんこれは明治以降『アララギ』や自然主義の歌が歌壇の主流を占め、万葉は大事にされても、新古今を作歌の典拠とすることは許さないほどの風潮が続いた果ての当然の結果であるが、それにしても若者の夢や憧れをそのまま明るく短歌に托することさえ、その当時にはあきらかに罪悪とされていた。しかも重々しい口調でその罪状をいい渡す長老の中には、かつての青春短歌の輝かしい旗手までまざっていたのである。【8】

※『赤光(しゃっこう)』斉藤茂吉の歌集、『桐の花』北原白秋の歌集。

◆中城ふみ子(なかじょう・ふみこ)
大正11年〜昭和29年。歌集『乳房喪失』,『花の原型』(遺歌集)など。

  音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれている

  倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て
                             ※蒟蒻(こんにゃく)

  出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ

  救ひなき裸木と雪のここにして乳房喪失のわが声とほる

  魚とも鳥とも乳房なきわれを写して容赦せざる鏡か

中井英夫が募集した「五十首詠」の第1回特選となった中城ふみ子の歌に対して、既存の歌壇からの批判はきびしいものでした。


――これはやりきれぬ。時代遅れで田舎臭い(香川進)
――ヒステリックで身ぶりを誇張している(福田栄一)
――女人短歌会員で、ふだんはあまり冴えなかったのだが……(北見志保子)
――編集者がひっかかった(大野誠夫)
――表現が大雑把。身ぶり眼につき全体が作りものだ(中野菊夫)
(後注・近藤芳美は中城は黙殺。正面から認めたのは岡山厳、阿部静枝、宮柊二だけだった)

【8】

もともと旧い世代は、新人ふぜいから新しい問題などが出されるわけはないという、かたくなな自負を抱いている。新人というものはあくまでも結社のなかで年功を積んだあげく一人前になった者の謂であり、奇を好むジャーナリズムごときが誰を推し出そうと、この伝統ある詩型に何を加え得るかといった信念がひそんでいるらしい。その点、戦後派だけは、自分の作歌信条だけで相手をばっさりやることはあるまいと心頼みにしていたのに、誰よりも無理解なのはまだしも、ついこの間まで先輩に白眼視されて見当違いな批評に苦しんでいたのが、まるで嫁いびりの仕返しめいたやり口はどうだろう。第二の戦後派は必ず出る、旧勢力に対して本当の反逆ができる若い世代がもうすぐ生まれてくる筈だと語っていた当人が、それらしいものの頭をもたげるが早いか、もう土足で踏みにじろうとする態度には呆れて物が言えない。【8】

日本的な年功序列の世界。とりわけ短歌は伝統的な詩型だけに、歌壇や結社のなかで保守的な旧世代が権威主義的にふるまっていたことは容易に想像できます。中井には、かつて明治生まれの旧世代にいじめられた戦後派歌人が、今度は第二の戦後派をいびっているように見えたようです。

さて、俵万智が「恋の歌100首」で選んだ中城ふみ子の歌は、次の一首でした。

  春芽ふく樹林の枝々くぐりゆきわれは愛する言ひ訳をせず

作者は、三十歳で乳癌の手術を受け乳房を切除、三十一歳で再発、その年に歌集『乳房喪失』を出版し、一カ月あまり後に亡くなった。歌集を読んでゆくと、四人の子をなした夫との離婚、妻ある人との恋愛など、激しい人生が浮かんでくる。嘘のない生き方をした人なんだなあと思う。掲出歌は、発病して後に詠まれたもの。相手は年下の男性だ。死を意識させる病は、いっそう自分の心に忠実な人生を、選ばせたのかもしれない。【3】


もう一人、中城ふみ子に続いて中井英夫に見い出された寺山修司。
第二回目の「五十首詠」の特選に選ばれたとき、寺山は18歳の学生でした。

◆寺山修司(てらやま・しゅうじ)
:昭和10年〜昭和58年。歌集『血と麦』『田園に死す』など。

  蛮声をあげて九月の森にいれりハイネのために学をあざむき

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
                          ※麦藁帽(むぎわらぼう)

  煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

  一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
                          ※向日葵(ひまわり)

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

寺山修司は自分の歌の作者は自分ではないといった。自分の中に住む自分以外の誰かだといった。普通、近代短歌は第一人称による表現とされ、従ってその歌われているところはいちおう「作者的真実」であると諒解されてきた(現在も大筋はそうである)。しかるに、自分は「私短歌」を歌わない、短歌はフィクションの表現手段にすぎない、と重大なことをコドモじみた口調で語ったのである。…

短歌は「私の告白」ではない、物語の「乗り物(ヴィークル)であるという考えは死ぬまで変わらなかった。彼は天性の「嘘つき」であった。「嘘」をつくために短歌をつくった。そしてその「嘘」はしばしば人を感動させた。彼によって現代短歌はかわった。かわらざるを得なかった。
【1】

さて、寺山修司と同じように現代短歌を大きく変えたもう一人の歌人は、2005(平成17)年に没した塚本邦雄です。いわゆる"前衛短歌"の中心として活躍し、後世に絶大な影響を与えました。

◆塚本邦雄(つかもと・くにお)
大正9年〜平成17年。歌集『水葬物語』『日本人霊歌』など。

  日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も

  蒼き貝殻きつぶしゆく乳母車・many have perished, more will.
   
※many have perished, more will(あまたほろびたり、さらにほろびむ)

  突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼
                           ※眼(まなこ)

  はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる

  石鹸積みて香る馬車馬坂のぼりゆけり ふとなみだぐまし日本

  ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春

  原子爆弾官許製造工場主母堂推薦附避妊薬
                           ※母堂(ぼどう)


歌人の穂村弘は、短歌をつくるときの「心を一点に張る力」について、塚本の歌を引用して次のように述べています。

  さみだれにみだるるみどり原子力発電所は首都の中心に置け

作者は言う、この国にとってそれが必要不可欠でかつ絶対に安全だというのならば、「原子力発電所は首都の中心に置け」と。このように焦点を絞られただけで、自分自身の知識や関心が増したわけでもないのに、何かが急に見えたように感じたのである。作者の心を一点に張る力が、現実世界で複雑と思われている問題の焦点を一気に絞り込んだのだ。「首都の中心」とは、日本の場合、皇居ということになる。【4】

また、野田秀樹から"恋愛ミーハー"の称号を受けた俵万智は、塚本の次の歌を引用しています。野田秀樹の評と、あわせてどうぞ。

  馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
                               ※冱(さ)ゆる

俵万智はこの歌に触れて、おでん屋のおばちゃん風に、こう締めている。
「あたしゃ、人間には二種類いると思うね。惚れてもね、ほどほどでかすり傷でいられるのと、とことん重症を負うところまでいかないと気が済まない人と。どちらが幸せって?ま、それも意見が二つにわかれんだろうけど、私なら後の方に一票を入れるね。」(本文を脚色)
やるじゃないか、俵万智。遅ればせながら私も一票。
【3】


◆葛原妙子(くずはら・たえこ)
明治40年〜昭和60年。歌集『原牛』『葡萄木立』『朱霊』など。

  噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々たりきらめける冬の浪費よ
                            ※凛々(りり)たり

  カルキの香けさしるくたつ秋の水に一房の葡萄わがしずめたり

  典雅なるものをにくみきくさむらを濡れたる蛇のわたりゆくとき

  おほいなる雪山いま全盲 かがやくそらのもとにめしひたり

  ぐろてすく ぐろてすく とぞ煮つまりぬ深鍋にしてタンシチュウは

  遠つ世の如きテレヴィの映りゐえたかはらの町に霧流れたり

  疾風はうたごゑをうきれぎれに さんた、ま、りあ、りあ、りあ
                            ※攫(さら)う


塚本邦雄によって<幻視の女王>と呼ばれた葛原妙子であるが、短歌において幻を見るとはどういうことなのだろう。また、その不思議な力の源泉はどこにあるのか。…葛原妙子の胸中には、表現対象が自らの愛の希求に真に応え得る存在か否か、という狂おしいまでの想いが常にあったと思う。<幻視>とはその想いに対する超高密度での検証の成果ではなかったか。検証の結果は、否、否、否、常に否であり、彼女の手のなかには、永遠に報われない愛の希求と、虚しい美しさにみちた<幻視>の数々が残された。【4】


◆安立スハル(あんりゅう・すはる)
大正12年〜平成18年。歌集『この梅生ずべし』。

  自動扉と思ひてしづかに待つ我を押しのけし人が手もて開きつ

ここに挙げた歌は、ちょっとしたありがちな錯覚を取り上げており、この錯覚はほんのわずかに私たちを恥ずかしい思いに誘う。が、そのことよりも、自分を押しのけてその扉を開けた人がある、そういう行動が、不躾であるというよりは不思議でならず、何か別の動物をみているような思いがしたのであろう。抗議しているのではない。しかし違和感は持っている。それと同時に、自動扉のつもりでドアの前に立っていた自分を、ぼんやり者だとは思いながら、是認したいような気持ちにもなるのである。この歌は、そういうありふれた錯覚を、これ以上簡潔には言えないというぎりぎりの表現で言ってしまっている。【7】

  馬鹿げたる考えがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆくに似る

  踏まれながら花咲かせたり大葉子もやることはやつてゐるではないか
                          
※ 大葉子(オオバコ)
  
瓶にして今朝咲きいづる白梅の一りんの花一語のごとし
                           ※瓶(かめ)

◆奥村晃作(おくむら・こうさく)
昭和11年生まれ。歌集『三齢幼虫』『鬱と空』など。

  ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く

  めすくぢら横たはるごと両脇に子を従へて妻眠りこむ

  これ以上平たくなれぬ吸殻が駅の階段になほ踏まれをり

  犬はいつもはつらつとしてよろこびにからだふるはす凄き生きもの

  ラーメンを食ひたい時に食ふ如くしたい時せよマスターベーション

  然ういへば今年はぶだう食はなんだくだものを食ふひまはなかつた

人とは違う異常な生活の中に生き、そこに生まれる極めて特殊な事柄や感情をうたうのが、ある時代までの短歌であった。たしかにそのやり方のほうが、個性的である。また目立ちやすい。奥村晃作が発見したのは、それとはちがっていた。それは平凡なる日常のごくごく平凡な事柄でも、堂々とうたいあげれば歌になるということであった。【7】

高校教師であった奥村晃作の「ロッカー」の連作について、穂村弘の評を聞いてみましょう。私はこの評を読んで、声をあげて笑ってしまいました。


  「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとす「ロッカーは蹴るな」

  「もの言へぬロッカー蹴るな鬱屈を晴らしたければ人を蹴りなさい」

  「ロッカー蹴る現場見付けたらその奴は停学に処す」と言ふことを識れ

  「ロッカーを朝昼さすり磨いたらニコニコ笑ふよロッカーちゃんも」

ロッカーと題されたこの一連を読んで、私は思わず笑ってしまったが、それは異形の精神に触れたことに対する感動のあらわれであった。その精神は灼熱の心とでも呼ぶべきものである。この一連で歌われているのは、ただひとつ、「ロッカーを蹴るな」ということに尽きる。だが、その単純なメッセージのひたすらな繰り返しのなかに何か異様な手触りが生まれている。

  「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとす●●●●●●●

ブランクの部分に普通なら何が入るだろう。二つのパターンを考えてみた。
  「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとすホームルームにて 改作例@
  「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとす教員われは    改作例A

改作例ではいずれも「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」が、変に高をくくった脅しにしか見えない。改作例の作者(私だが)は、本気でそう思っているわけではないのだ。奥村晃作の灼熱の心は、このような俯瞰的スタンスや距離感を決して作中に持ち込まない。徹底的な生身の接近戦あるのみである。「ロッカーは蹴るな」の踏み抜くような言い切りは凄い。連作を通じてみられる遠近感やバランス感覚その他すべての計らいの欠如ゆえに、四首目の「ロッカーちゃん」の歌に私は感動する。…目の前の事象に対する限度を超えた意識の集中が、先入観や常識といった日常的な認識のフレームをばらばらにして、いわば聖なる見境のなさといったものを生み出している。【4】


◆小野茂樹(おの・しげき)
昭和11年生まれ。歌集『羊雲離散』『黄金記憶』など。

  あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

ここに歌われているのは時間である。失われた時である。失われた時は「あの夏」という平易な、しかし浸透力のある言葉とイメージとで、迅速に凝縮する。光が躍動する「あの夏」に「数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情」があった。それは誰にとってもそうなのである。なのに小野茂樹に歌われるまで気づかなかった。言葉に結晶させ得なかった。こう歌われたとき私たちは、失われた時を思う。…「数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」この言い切りが、絶対に再会できない時間への愛惜と、それへの断念を迫る。そう感じたとき、私はしばし放心した。そうしてつぎの瞬間、「歌の力」というものを痛く思ったのである。【1】


◆村木道彦(むらき・みちひこ)
昭和17(1942)年生まれ。歌集『天唇』。

  するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

あのこはマシュマロなんかを口にほおばりながら、友達とべちゃくちゃばくをすてたものがたりをするに違いない、などというのは、女の子への軽いオマージュなのか、いじめられたい青年の心理なのか。この歌の倒置法の構造は、仮名文字だけで出来上がっている表記法とともに、読む者の心に染みこんでゆき、ひとつの言語風俗として流布していった。マシュマロなどという歌詞を小道具に使っているのも、見事である。同じく食い物を使った、

  失恋の<われ>をしばらく刑に処す アイスクリーム断ちという刑
とか、
  
スペアミント・ガムを噛みつつわかものがセックスというときのはやくち

とかいう歌も同様である。【7】

では、ここからは、戦後生まれの歌人たちです。


◆河野裕子(かわの・ゆうこ)
昭和21年〜平成22年。歌集『森のやうに獣のやうに』『ひるがほ』など。
夫は、歌人の永田和宏。

  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

いきなり相手に向かって声を発する初句は、字余りによる力強さもあって、読む者を、いっきにその世界へと引き込んでしまう。…「ガサッと落葉すくふやうに」そんなふうに無造作でいいから、「さらつて行つて」ほしい。――さらう、と作者は軽やかに言ってのけるが、これは大変なこと。この恋愛に寄せる決意と責任感とが試される言葉だ。つまりあなたは、私と運命共同体になれますか?という厳しい問いかけなのである。そして問いかけであると同時に、私にはその覚悟があるわ、という宣言でもある。【3】


  青林檎与へしことを唯一の積極として別れ来にけり

  陽にすかし葉脈くらきをみつめをり二人のひとを愛してしまへり


◆永田和宏(ながた・かずひろ)

昭和22年生まれ。歌集『黄金分割』『やぐるま』など。

  スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろ美し古典力学

「ありと」という上の句の<言いさし>の話法は何を語るのか。「そんな風に言っているが……そのスバルの美しい輝きと同じようにニュートン力学はもはや架空のものとなってしまっているのだ」といいつつ、作者はしかしこのことを悲しんではいない。かと言って現代の理論の不確定性を楽しんでいるわけでもあるまい。わたしたちがすべての仮説に対して抱かざるを得ないような知的感傷ともいうべき感情が、この一首には見事に形象化されている。これはやはり現場の科学者の抒情詩なのだ。【7】 


◆小池光(こいけ・ひかる):
昭和22年生まれ。歌集『バルサの翼』『日々の思い出』など。

  佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室に行きしが佐野朋子をらず

一気に吐き捨てるように、しかし愛情を籠めて、しかも憎しみも交えて、「ばかころしたろ」なんて台詞を高校の教師が呟く。そして教室に行く。「行きしが佐野朋子をらず」は明らかに散文の日記体の文体で、短歌の叙情性を敢えて殺している。【7】

  しまつたと思ひし時に扉閉まりわが忘れたる傘、網棚に見ゆ

  屋上に鍵かけるべく昇り来て黒くちひさき富士しばし見つ

…「佐野朋子のばかころしたろ」という感情もまた、電車の中に忘れた傘とか屋上から見る遠い富士と同じくらい小さくてすぐに忘れられてしまうような、平凡事である。その平凡事に、「ばか」とか「ころしたろ」とか、そう思って生徒を探しに行く教師の行動が並列されているところが、平凡でないのだ。 

 信長がれし歳にわれなりて住宅ローン残千八百万
                           ※斃(たお)れし

 パンのみに生くるにあらずラズベリイ・ジャム、フランシス・ジャム右にひだりに
                   ※フランシス・ジャム:フランスの詩人

 穴子来てイカ来てタコ来てまた穴子来て次ぎ空き皿次ぎ鮪取らむ

 これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ


◆山田富士郎(やまだ・ふじろう)
昭和25年生まれ。歌集『アビー・ロードを夢みて』『羚羊譚』など。

  恐龍のあぎとのかたちの雲浮びおまへを初めておまへと呼びき

恋人を「さん」づけでもなければ「きみ」でもなく「おまへ」と呼ぶというのは、男のいわば勝利の宣言なのだろうか。いや、違うだろう。愛というものがあるところまで進行したというマイルストーンとして、その日があったのだろう。また「恐龍のあぎと」のような雲だということに、さして大きな意味があるわけではあるまい。それでも、なにものをも噛み砕きそうな顎。そしてその存在がとてつもない太古の生物であるという超現実性。そういったものが寄ってたかって、この歌の浪漫性を高めている。【7】

  イースターエッグを置かむうつぶせの白き背中のしろきくぼみに

  さんさんと夜の海に降る雪見れば雪はわたつみの暗さを知らず


◆永井陽子(ながい・ようこ)
昭和26年生まれ。歌集『なよたけ拾遺』『楠の木のうた』など。

  べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊

すずかけ並木や鼓笛隊はもうこれ以外言うことのできないほどぴったしした選択なのである。ちょっと考えてみれば、この歌の上の句の内容は、単なる文法上の助動詞の変化を言っているのではない。「べし」は「なになにすべし」といったふうに、社会的道徳的命令を文語的な古さをこめて言う時の「べし」である。作者はその「べし」を、すずかけ並木を来る鼓笛隊の戦後的風俗によって軽く一蹴したのである。【7】

  あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ

  丈たかき斥候のやうな貌をしてが杉に凭れてゐるぞ
           ※斥候(ものみ)、貌(かほ)、f(フォルテ)、凭(もた)れて
 
  ここはアヴィニョンの橋にあらねど♪♪♪曇り日のした百合もて通る
                      ※原作の「♪」の部分は四分音符。

  ながれたる歳月にしていつまでも美しからずわが言葉さへ


◆今野寿美(こんの・すみ)
昭和27年生まれ。歌集『花絆』『星刈り』など。

  もろともに秋の滑車に汲みあぐるよきことばよきむかしの月夜
                             ※月夜(つくよ) 

今野寿美はおそらく、王朝以後の古典女流短歌を巧みに自分のものにしたひとりであろう。…秋という季節は、日本に住むひとびとが皆深い井戸の底から、滑車をつかって秋らしいよいことばを汲み上げ、今は失われてしまった昔の良夜を汲み上げてくる、そのような季節なのだ、といって、昔からの和歌の伝統に繋がりながら、月を愛でているのである。【7】


◆仙波龍英(せんば・りゅうえい)
昭和27年〜平成12年。歌集『わたしは可愛い三月兎』『墓地裏の花屋』など。

  極東のスペイン坂のかたすみにわれ泣きぬれず雨に濡れゐつ

「スペイン坂」には、「脚註」がついている。「渋谷区センター街をわきにそれたところにある路地。通称スペイン通り。急な坂になってゐる」 啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」のパロディだとはすぐにわかる。しかし、「東海の小島の磯の白砂」が一九八〇年代日本では「スペイン坂」という気恥ずかしい呼び名の場所にかえられ、そして仙波龍英は「泣きぬれ」ない。「泣きぬれる」ことができない。風俗と流行の中にたたずんで「雨に濡れる」ばかりである。【1】 

  夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓標となすまで
         ※夕照(せきしょう)、展(ひら)く、PARCO(パルコ)

  ひら仮名は凄まじきかなはははははははははははは母死んだ

  父逝きて二十数年、母逝きて一年余犬逝きて二カ月余(近いほど悲しい)


◆高柳蕗子(たかやなぎ・ふきこ)
昭和28年生まれ。歌集『ユモレスク』『あたしごっこ』など。

  つけてくる運命の鰐に向きなおれ私を愛しはじめたあなた
                              ※ 鰐(わに)

われわれはアジア的な沼か河の、泥のような流れを泳いでいる。うしろからしずかに大口を開けて運命が近づく。だが一向に事態は深刻でない。漫画的な明るさである。とはいえ、いずれにせよ、運命は鰐であって、いつその大きな口に噛み殺されるかも知れないのだ。「魔女である私を愛するとは、その鰐に向きなおることなんですよ、その鰐と素手で格闘することなんですよ」と言っているかのような歌であるが、どこまでがマジでどこからがジョークなのか、まさに歌集の題名通り『ユモレスク』なのである。【7】 

  骸骨ら他には何もないからと大骨小骨贈りあう聖夜

  殺人鬼出会いがしらにまた一人殺せば育つ胃癌の仏像

  自転車で「不幸」をさがしにゆく少年 日は暮れてどの道もわが家へ

  早起きの老人ばかりの暗殺団不吉なことは内緒にされる
 
  みんな淋しいのに忘られただけで黴びてあたしの蜜柑の弱虫!


◆松平盟子(まつだいら・めいこ)
昭和29年生まれ。歌集『帆を張る父のやうに』『シュガー』など。

  甘皮をうつすらと剥がすやうにして男の矜持そこねゐる快

  『人魚姫』語りてやりぬ恋ゆゑに滅ぶる終末母が娘にかたる
                         ※終末(をはり)、娘(こ)

  アリナミンよりほほゑみが効くなんて言の葉で妻が喜ぶとおもふか


◆栗木京子(くりき・きょうこ)
昭和29年生まれ。歌集『水惑星』『中庭(パティオ)』など。

  半開きのドアのむかうにいま一つ鎖されし扉あり夫と暮らせり
                          ※鎖(さ)されし扉(と)
 
この歌の夫からみれば、半開きのドアのむこうに、見えないプライバシーを抱いた妻がいるということになるのであろう。こういう生活空間に子が生まれる。夫婦と子のあいだにつくられるトライアングルはどのようなものか。栗木は、常にこの問題をかかえて、しかもその時代相応の軽い足取りでうたってゆくのである。
【7】

  せつなしとミスター・スリム吸ふ真昼夫は働き子は学びをり

  天敵をもたぬ妻たち昼下りの茶房に語る舌かわくまで

  観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
                       ※一日(ひとひ)、一生(ひとよ)


◆井辻朱美(いつじ・あけみ)
昭和30年生まれ。歌集『地球追放』『コリオリの風』など。

  <ふたたび>と<けつして>の間やすらかに夜の舟は出る 僕を奏でて

この歌の「ふたたび」はアゲインであり、「けつして」はネヴァーモアであろうか。もう一度あるのか、それとも決してないのか、その狭間を夜の舟は出港する。しかもそこに奏でられる音楽は、私そのものである。…地球をテラなどと呼びながらこの作者は、数々の幻想的風景をうたった。しかし十数年経ってみたら、それらの歌は、テレビゲームやプレイランドにおけるヴァーチャル・リアリティを先取りしていたようにも思えてくるから、不思議である。【7】

  瑠璃紺の始祖鳥の胸かがやきて宇宙空間に降れるこなゆき

  杳い世のイクチオステガからわれにきらめきて来るDNAの破片
    ※杳(とお)い 、イクチオステガ:魚類から進化して陸上に上った古生物。


◆水原紫苑(みずはら・しおん)
昭和34年生まれ。歌集『びあんか』『うたうら』など

  われらかつて魚なりし頃かたらひしの蔭に似るゆふぐれ来たる
 
                              ※魚(うを)

つまり、あなたと私は、ヒトがヒトのかたちとなるずっと以前から、こうして寄り添いあっていた……ということを、とくに肩に力の入った様子もなく、まことにさりげなくさらりと言ってのけている。比喩の内容として、つまり大前提としてそのことが語られているところが、心憎い。「もしかしたら」とか「きっとそうだったに違いない」などという言葉をはさむ余地もないほど、それはあたりまえのこととして、作者のなかにあるようだ。…男として、女として、ひかれあう以前に、何か「同じ種類の人間」として響きあう――そういう恋愛というのが、確かにある。「われらかつて魚なりし頃」には、そういうニュアンスも込められているのだろう。【3】


  殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤蜻蛉 ゆけ
                           ※赤蜻蛉(あかあきつ)

  水浴ののちなる鳥がととのふる羽根のあはひにふと銀貨見ゆ
 
  宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら
                           ※宥(ゆる)されて


◆加藤治郎(かとう・じろう)
昭和34年生まれ。歌集『サニー・サイド・アップ』『マイ・ロマンサー』など。

  ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら

  マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股で鳴らして

  荷車に春のたまねぎ弾みつつ アメリカを見たいって感じの目だね

「ね」「さ」「だぜ」といった助詞の口語性の活用。これはやはり一人称単数を俺と言ったり僕たちと複数形で言ったりするのと同じで、そこから、若さを匂わせる語法であろう。かと言って、そう単純な青春歌謡ではない。「いい日だぜ」と言っているが、高揚した気分を一瞬掬い取っているその楽しさの向こう側には、やたらに明るいだけのむなしい半植民地風の平和が繰り広げられていた、ということかも知れないのだ。【7】

  バック・シートに眠ってていい 市街路を海賊船のように走るさ

  もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに


◆荻原裕幸(おぎはら・ひろゆき)
昭和37年生まれ。歌集『青年霊歌』『あるまじろん』など。

  まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す

  誘へどすぐさま拒む人生のたとへば「ペンキ塗りたて」の椅子
                              ※誘(いざな)へど

  フランスパンほほばりながら愛猫と憲法九条論じあふ

  しみじみとわれの孤独を照らしをり札幌麦酒のこの一つ星
                              ※麦酒(ビール)

青年たちは人生に腰を掛けてゆったりと何かを考えたいのに、人生はペンキ塗りたての椅子のようにしばらくのあいだ自分たちを拒むのだと思っている。かといって彼らはそのことに悲しみを抱いているわけではない。彼はフランスパンを頬張りながら愛猫と憲法第九条について論じ合ったり、しみじみと自分の孤独を照らすのはサッポロビールを象徴するラベルのひとつの星なのだよと嘆いてみせる。塚本邦雄の強い影響下に出発しながら、いち早く塚本調を脱却して、独特の気だるいような歌調を編みだしているのも、彼がまれにみる技巧家であり、短歌の韻律の根本を若くして掴んでしまっているからなのだろう。【7】

  顎つよき愛犬を街にときはなつ銀色の秋くはへてかへれ

  ほらあれさ何て言ふのか晴朗なあれだよパイナップルの彼方の

  間違へてみどりに塗つたしまうまが夏のすべてを支配している

◆東直子(ひがし・なおこ)
昭和38年生まれ。歌集『春原さんのリコーダー』『青卵』など。

  廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て

初めてこの歌を目にしたときの衝撃は忘れ難い。私はこれを相聞歌として読んだが、そのような読みを最終的に成立させているものは、最後に置かれた「来て」の二文字に過ぎない。だが、この「来て」の強烈さはどうだ。…濡れたナイフ、果実、丸まった皮、滲む「廃村」の活字から、作者はおそろしい真実を感受してしまう。すなわち、過去や未来、人との絆、この世のすべてはただ一瞬の譬えに過ぎない。この震えるような把握は、瞬間的に幾つもの感覚を呼び起こす。(今しかない)(こわい)(何もいらない)(これだけ)。耳鳴りのような感覚の響き合いのなかで、眼前の、しかも遥かな一人に向けてたったひとつの言葉が選ばれる。「来て」と。【4】


  ははそはの母の話にまじる蝉 帽子のゴムをかむのはおよし
                       ※「ははそはの」:母の枕詞。

  そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています

  電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ


◆林あまり(はやし・あまり)
昭和38年生まれ。歌集『MARS☆ANGEL』『ナナコの匂い』など。

  生理中のFUCKは熱し 
   血の海をふたりつくづく眺めてしまう

このFUCKの歌も、従来の近代短歌の概念から言えば、およそ乱暴な作り方で、ずばずばと太い描線で描かれた男女抱擁の図である。「血の海」などという大げさでマンガチックな言葉は、それがリアルでないだけにあまり嫌らしさもない。歌としては、

  今日言った「どうせ」の回数あげつらう男を殴り
   春めいている

のような歌の方が短歌的と言えるであろうし、

  ネクタイを一瞬に抜く摩擦音
   男の首は放熱しはじむ

のような一瞬の把握の方が気持ちよく読めるのもたしかである。しかし掲出歌の暴力的な印象にはおよばないだろう。フェミニズムを理論や主張としてではなく、感覚において軽くクリアーしてうたっている歌人が現れたのである。【7】


◆紀野恵(きの・めぐみ)
昭和40年生まれ。歌集『さやと戦げる玉の緒の』『閑閑集』など。

  ゆめにあふひとのまなじりわたくしがゆめよりほかの何であらうか

夢の中でひとに会う。もとよりこのひとは男性であろう。そのひとのまなじりのきりりとした涼しげな印象よ、などと浮かれているわけではない。読者はあっと言う間に肩透かしを食って、作品の中へ倒れこんでしまう。倒れながら振り返ると、「このわたくしという存在こそがだれかが見ている夢そのものなのですよ、それ以外に考えられないではありませんか」と言って作者は微笑む。まあそんなところではあるまいか。全体がひらがなで書かれて、「何」という字だけが漢字になっている。こうした表記の上の古典風の出で立ちも、紀野恵が第一歌集を出した八〇年代の中葉には常識となりつつあった。

  白き花の地にふりそそぐかはたれやほの明るくて努力は嫌ひ
                           ※かはたれ:夜明け時

のように、第四句まで古典調で流して来て、第五句に突然口語的な発想を挿入する。そして「努力は嫌ひ」などということを、面白げに言い放つ。

  あはれ詩は志ならずまいて死でもなくたださつくりと真昼の柘榴
                           ※柘榴(ざくろ)

のように、およそ詩を志とする思想からは身を遠ざけているのに、言葉による美の創造についてははっきりとした自負を持つ。世紀末風と言えば世紀末風、古風と言えば古風な歌である。【7】


◆枡野浩一(ますの・こういち)
昭和43年生まれ。歌集『ますの。』『ハッピーロンリーウォーリーソング』など。

1995 年、角川短歌賞に応募した短歌が「最高得票落選」として話題に。その落選作が「週刊SPA!」などで大きく取り上げられた。

  毎日のように手紙が来るけれどあなた以外の人からである

  真夜中の電話に出ると「もうぼくをさがさないで」とウォーリーの声

  前向きになれと言われて前向きになれるのならば悩みはしない

  殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である

  もっともなご意見ですがそのことをあなた様には言われたくない

  こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう

歌人の穂村弘さんは、桝野浩一の短歌について「意識的な散文化によって、私の<想い>と<うた>の間にあるレベル差を消す文体」と述べていて、1990年代後半からの若者の短歌には「想いと等身大の文体」が目立つようになったと分析しています。

現時点での一応の整理を試みるなら、90年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか。

 

◆斉藤斎藤(さいとう・さいとう)
昭和47年生まれ。歌集『渡辺のわたし』『人の道、死ぬと町』。

  リモコンが見当たらなくて本体のボタンを押しに寝返りを打つ

  いけないボンカレーチンする前にご飯よそってしまったお釜にもどす

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

  女子トイレをはみ出している行列のしっぽがかなりせつなくて見る

  イェーイと言うのでイェーイと言うとあなたそういう人じゃないでしょ、と叱られる

この世代の歌人のなかでは、斉藤斎藤の言葉にもっとも新鮮な「反」の感触があると思う。どの角度からもアイロニーに見えてしまう真情の提示、同情の余地のない貧しさの受容、勝手に塗りつけられた幻想の削ぎ落としなど、言葉の敗戦処理を引き受けているような印象がある。これは「零(ゼロ)の遺産」ならぬマイナスからの歌作りではないか。その不毛さに驚きつつ、絶望に希望を上書きするような作家スタイルが生み出す異様な緊張感に惹きつけられる


とりあえず、 以上。

今回紹介した歌人と選んだ歌は、かなり偏ってますけど、「現代短歌」のバリエーションと面白さは、感じてもらえたのではないかと思います。まあ、はるか古代から連綿とつらなる和歌の伝統を思えば、三十一音の歌の世界はさらに広がるわけですが。

<引用したTEXT>
【1】関川夏央『現代短歌そのこころみ』NHK出版
【2】穂村弘『世界音痴』 小学館
【3】俵万智『あなたと読む恋の歌百首』 朝日文庫(解説:野田秀樹)
【4】穂村弘『短歌という爆弾』小学館
【5】高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』 朝日新聞社
【6】穂村弘・東直子・沢田康彦 『短歌があるじゃないか』 角川書店
【7】岡井隆 『現代百人一首』 朝日文庫
【8】中井英夫『黒衣の短歌史』新潮新書
【9】穂村弘『短歌の友人』河出書房新社