【note: SFと文学と星新一

いま "SF的"なアイデアや手法は、小説はもちろん、
マンガやアニメ、映画など、さまざまな表現ジャンルに
拡散していて、SFファンをのぞく多くの人々は、
とくにSFとは意識せずに作品を楽しんでいます。

私の最近のお気に入りは『いいね!光源氏くん』
NHKのよるドラで、源氏物語の光源氏が
現代のOLの部屋にタイムスリップしてくる話です。
(原作は、作者えすとえむ氏によるマンガだとか)

日本のSFの歴史をひもとくと、かつて中・高校生に
絶大な人気を誇った作家がいました。星新一(ほし・しんいち)です。
"SF"なんてぜんぜん知らなくても楽しめたし、
星新一を通じてSFの面白さや、小説を読む楽しさを知った…
そんな中学生・高校生がたくさんいました。

星新一の公式サイトの「寄せ書き」から、
思い出のエピソードをいくつかひろってみましょう。

<星新一 公式サイト(寄せ書き)>
https://hoshishinichi.com/note/

浅羽通明(あさば・みちあき)/評論家:1959年生まれ
「いま、星新一を読んだことない日本人はいません。 先生こそ私たちの国民作家ですよ」と訴えた。 すると先生は、「そうかぁ? 中学の頃は読んでくれても、高校生になると皆、筒井康隆のほうが面白いぞとかいいだすじゃないか」と照れるではないか。 たしかに私もNくんも、当時、初期のピークにあった筒井SFを愛読した。 しかしやはり星新一のほうが凄いといい合ったものだ。 この想いは齢を重ねるにつれ、より強くなってゆく

俵万智(たわら・まち)/歌人:1962年生まれ
中学生になった息子が「なんか、おもしろい本、ない?」と時々聞いてくる。 「お母さんが中学生のころに読んだ、おもしろい本、紹介して」と。
なに読んでいたっけなー。 懐かしく振り返るなかで、一番はじめに思い浮かんだのが、星新一のショートショートだった。
両親の本棚で見つけたのが最初だ。 読みはじめると止まらなくて、家にあったものだけでは飽き足らず、図書館で借りたり、文庫本を買ったりして、そうとうな数を読んだ記憶がある。 一人の作家の作品を「読みあさる」という初めての経験でもあった。
 

大槻ケンヂ(おおつき・ケンヂ)/ミュージシャン:1966年生まれ
星新一作品を最初に読んだのは小学校六年生の頃であった。当時の読書好きな少年の多くが、中学入学と共に文庫本(それは小学生にとっては「大人の読むもの」という認識だった)に興味を持ち、まず手始めに星新一のショートショート集を購入、その後、筒井康隆作品等を経て、それぞれ好きな方向へむかって行くという定番の流れに乗っていたなかで、わずかだが一年早く星先生の世界に出逢っていたというわけだ。最初に読んだ作品集やはり定番「ボッコちゃん」であったような記憶がある。

あらためて、星新一を簡単に紹介しておくと…

【星新一:1926年(大正15年)- 1997年(平成9年)】
戦後のSF小説のパイオニアで"ショートショートの神様"と呼ばれる。
平易な文章でありながら、ブラックな笑いや寓話的な作風が特徴。
ファンタジーやホラーの要素が強い作品のほか、ノンフィクションも執筆。

さて。
ノンフィクションライターの最相葉月(さいしょう・はづき)さんが、
2007年に刊行した評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』
「日本SF大賞」など、数多くの賞に輝いた労作です。
ここには、星新一の人生ばかりか、日本の戦後のSFの歴史が
さまざまな関係者の証言とともに詳細に描かれています。
(『星新一 一〇〇一話をつくった人』は2010年に文庫化)

そこで、日本では「SF」はどう受容されてきたのか、
    どんな言葉で評価されたり、批判されてきたのか、
とくに同時代の"文学"との関係はどうだったのか?
そのあたりに注目しながら、星新一の評伝のなかから
参考になりそうな箇所を抜き書きしておきます。

(以下の青字の文は『星新一 一〇〇一話をつくった人』からの
 引用、および孫引きです)

星新一が商業誌にデビューした1957(昭和32)年ごろ。
科学小説は子供向けの読み物」として認知されていました。

たとえば、当時のSFに対する一般的な見方として、
神戸新聞学芸部にいた宮崎修二朗氏の回想があります。

あのころは勉強不足だったので、科学が小説になるなんて邪道、インチキという意識しかありませんでした。志賀直哉や横光利一の世界で育ってきたわけですからね。国枝史郎の時代小説のように面白い話は文学じゃないという考え方があって、吉川英治や山本周五郎でさえ低く見られていた。ましてやSFなんて、言葉は悪いけど、あいの子みたいな感じ、大和撫子じゃない。空想ならいくらだって書ける、なんて思っていたんですね。(宮崎修二朗) 

“時代小説”や“推理小説”も、低く見られていた時代、
出版社や新聞社に勤める"教養ある"大人たちには
面白い話は文学じゃない」という考えがあったんですね。

最相さんは、"純文学"の方が"エンタメ作品"よりも
格上だと見なす考えは、今でも残っていると指摘しています。

純文学では、おもしろい、という評価は決してほめ言葉ではなく、おもしろいけれどただそれだけ、という否定的なニュアンスで受け止められる風潮があった。文学としてのレベルは低いという意味で、「それはエンターテインメントでしょう」などと蔑む作家や文芸評論家はいまだに存在する。(最相葉月)

そんななか、SFを支持していた数少ない"文学者"として
安倍公房(あべ・こうぼう)と三島由紀夫の名前が挙がっています。

空想科学小説は、きわめて合理的な仮説の設定と、空想というきわめて非合理的な情熱との結合という点でコロンブスの発見にも似ている。その知的な緊張と、冒険への誘いの衝突からうみ出されるポエジーは、単に現代的であるばかりでなく、同時に文学本来の精神にもつながるものだ。(安倍公房 「SFマガジン」 1960年3月号)

また、SF同人誌「宇宙塵(うちゅうじん)」の愛読者であり、
「日本人によつて書かれたSFには大てい目をとほしてゐるつもりである」
と豪語する三島由紀夫は、同誌にこんな一文を寄せています。

私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学は
SFではないか、とさへ思つてゐるのである。
その意味で『宇宙塵』の地道な努力には、ひそかに敬意を払つてゐる。

(三島由紀夫「宇宙塵」第二回日本SF大会記念号 1963年)

星新一は1960(昭和35)年下半期の「直木賞」
ノミネートされましたが受賞には至りませんでした。

当時、雑誌の編集者だった作家の小林信彦は、
星新一の作品をとりまいていた状況をこう回想しています。

当時の印象としては、あれはなんだかわからない、といった受け止め方です。星さんの名前はまだほとんど知られてないときで、直木賞は正直なところ、はじめからとれないと思っていました。というのも、以前は探偵作家といっていましたけど、推理作家でさえ社会的地位が低くて直木賞がとれない時代だったのですから。これは選考委員の問題でもあるのですが…、(小林信彦)

また当時、若手推理作家だった佐野洋は、何かにつけて
「人間が描けてない」と言う直木賞の選考委員と
最先端の海外文学を読み、星新一の作品を高く評価していた
評論家の間ではホメる基準が違っていたと述べています。

直木賞の選考委員と外国文学の最先端を知っていた中村真一郎や福永武彦の基準は違いました。前者の基準では、しょせん頭で書いたもんじゃないかというところではないでしょうか。日本の文学はどろどろしたところがないと評価されないですから。それよりも当時、日本人にもこういうのが書けるのかという驚きがあった。『ニューヨーカー』誌の短編はもう少し長いですけど、そこに載るようなイメージが強かった。(佐野洋)

当時、まだ中学生だった博物学者の荒俣宏さんの弁。

ぼくが読み始めたころの星新一はもう、才気突っ走るって感じでピカピカ輝いていた。なんといっても言葉遣いが新しいでしょう。誰でも書けそうだと思って真似して挑戦してみるけど、何本も書けないことはすぐにわかるんだよね。つまり、星新一はアメリカの雑誌の短編小説のエクリチュール(文体)を輸入した人です。ぼくたちは、植草甚一と並んで認識していましたね。カリスマ性がありました。ぼくたちの先生です。(荒俣宏)

こうして、一部の若い人たちには支持されたものの、
文学の世界からは星新一に代表されるSFなんかは
「文学ではない」と見なされていました。

さらに星新一に対する無理解や偏見は、彼が得意とする
"ショートショート"という形式にもついて回りました。

【ショートショート】
とくに短い小説で、不思議な内容と印象的な結末をもつことが多い。
1959年、ミステリ雑誌の編集長だった都筑道夫(つづき・みちお)が
アメリカで使われていた言葉を日本に紹介し、小林信彦が星新一の
作品を初めて"ショートショート"の名前で呼んだ。

星新一とSF同人誌『宇宙塵』に参加していた斎藤守弘の弁。

星さんはよく、何を書いてもどうしても短くなっちゃうんだよね、といっていました。ずばっと本質をいっちゃう。ぼくもそうなんですが、理系なんですね。小説家というのは本質をずばっといえないからいろいろまわりくどく書くわけですが、それができない。どちらかというと評論家的資質なんです。それがショートショートという形式によく合った。(斎藤守弘)

1960年代の経済成長期には、マスメディアが発達し
新しい週刊誌や企業のPR誌が続々と創刊され、
ショートショートが掲載される場も増えました。

そんななか、直木賞の候補に選ばれたこともあって
「星新一 = ショートショート = SF」という図式が
広がりはじめます。

星新一のほかにも、多くの作家が編集者の求めに応じて
ショートショートを書きましたが、文学としては評価されず、
作家の"お遊び"や"余技"のように軽く思われたり、
多くは、雑誌のページ調整のための埋め草扱いでした。

つい先日(2020年4月26日)に放送された「情熱大陸」に
現在のショートショートの第一人者 といわれる
田丸雅智(たまる・まさとも)さんが登場していました。
「(周りから)ショートショートやってるうちは作家じゃないよ
みたいなことを言われたこと、実はけっこうあるんですけど…」と
話していて、いまだにそうなのかと知りました。

1970年に文芸誌「三田文学」が企画した対談の中で
星新一が "純文学"にあきたらなくなった原因を語った
エピソードがあります。

星は、"SFは文学ではない"と考える編集者を前にして
次のようなたとえ話をしています。

ネパールという国がある。結核で人が次々と死んでいくため、先進国のヒューマニズムに燃えた医師団が乗り込んで治療にあたった。すると、病気はあっという間に治り、人は死ななくなった。しかしこれまで人口が増えても一定の人口が減ってなんとかまとまっていたのが、死ななくなって人口が増加する一方になったために、職のない貧民があふれ出して収拾がつかなくなった。この「ヒューマニズム公害」は文学の重大なテーマの一つになりうる   と。
 すると、編集者が新一に質問した。

 編集部 公害が文学になるのですか。(中略)さまざまな問題は含まれています。が、なぜ文学があんなものにこだわらなければならないのですか。…


編集者の偏狭な考え方を知って星新一はあきれます。
"文学とはこういうもの"と考えている編集者の想像力が、
あまりに貧しいというか、想像力を排除していたからです。

星:…ぼくが(純文学に・引用者注)あきたらなくなった原因は、そこにあったようだぞ。心臓移植はすでに現実になっている。人間関係に影響を及ぼしはじめている。肉親が死にかけている時、臓器が買えればなあと、現実に考えないでしょうかね。こういうことを考えてみないと、人間というものを冷静に再確認はできないのじゃないかと思うのです。
(星新一「S・Fと純文学の出会い」『三田文学』1970年10月号)

<SFノート:01>で紹介した星新一の
SFという一つの世界はない」という発言は
この文芸誌の対談のなかで語られたものでした。

SF(の魅力)て何?
SFノート:01

「SFとはこういうもの」という既成概念にとらわれると
"純文学とは何か?"といった無意味な論争の二の舞になると
星新一にはわかっていたのでしょう。
その"純文学"というジャンルも、いまでは瀕死の状況です。

星新一は「人間が描けてない」と語る評論家に不満があったのか、
自身の"小説"の出発点について次のように書いています。

人間と人物とは必ずしも同義語でない。人物をリアルに描写し人間性を探求するのもひとつの方法だろうが、唯一ではないはずだ。ストーリーそのものによっても人間性のある面を浮き彫りにできるはずだ。こう考えたのが私の出発点である。
 もっとも、これはべつに独創的なことではない。アメリカの短編ミステリーは大部分このタイプである。…(中略)…
 この手法に興味を持ち、私はとりかかったわけである。ある人には歓迎されたが、はじめのころは「話は面白いが、主人公の年齢や容姿がさっぱりわからぬ」と首をかしげた編集者もあった。わが国ではこの種のものは、あまりに少なかったのである。今でもそうだ。
(星新一「人間の描写」『きまぐれ博物誌』1971)

1970年代になると、SFは小説ばかりでなく
マンガやTVアニメ、映画へと拡散し浸透していきます。
その一方、面白くない"純文学"は推理小説(ミステリ)や
時代小説などのエンタメ作品に圧倒されはじめます。

1971年に『ボッコちゃん』が星新一の作品として
初めて文庫化されて以来、星の作品は売れに売れ続けました。

とりわけ影響が強かったのは、1960年代末から
星新一の作品が小・中学校の教科書に収録されたこと。
それでいっきに読者層の低年齢化が進みます。

その後もショートショートを書き続けた星新一は
SF界の流行とは無縁な"マンネリ期"に入ったと言われ、
新機軸を求めるSFファンは離れて行きましたが、
一般の中学生・高校生に広く読まれるようになりました。

雑誌「SFアドベンチャー」を創刊した菅原善雄はこう語ります。

小松さん※以降、半村良が登場して、スケールの大きな嘘八百が受けた。科学技術に忠実なハードSFが衰退して、伝奇SFスペースオペラが流行るようになった。そういう流れの中で、おそらく星さんは生きにくくなっていかれたのではないでしょうか。
(※小松左京:代表作『日本沈没』) 

当時の出版業界の星新一に対するイメージについて、
最相葉月は、次のような想像をめぐらせています。

読者の低年齢化によって、星新一のショートショートは子供が読むものというイメージが広がった。…「星新一」イコール子供向けの作家大人の鑑賞にたえない、などというイメージは、文庫が売れるに伴いますます定着しつつあった。(最相葉月)

ひょっとしたら、星のような売れる作家・作品に対して
売れない“純文学” の側からの嫉妬もあったかもしれません。

文学の世界では批判と偏見の目にさらされ、あからさまに差別される。直接間接に侮蔑的な言葉や無理解で失礼な疑問を投げかけられる。文学の可能性に対して想像力を羽ばたかせねばならないはずの文芸編集者たちからもそんな目で見られる。相手が自分の作品を軽んじているかどうかは、書いた本人がもっとも敏感にわかるものである。(最相葉月)

星新一の優れた理解者であり、「作品の上での影響は
自分で計り知れぬほどである」
と語る筒井康隆は、
星新一の葬儀の日、星作品にまともに向き合ってこなかった
文壇への批判を込めて、こんな追悼の言葉を述べたそうです。

星さんの作品は多くの教科書に収録されていますが、単に子供たちに夢をあたえたというだけではありませんでした。手塚治虫さんや藤子・F・不二雄さんに匹敵する、時にはそれ以上の、誰しもの青少年時代の英雄でした。お伽噺が失われた時代、それにかわって人間の上位自我を形成する現代の民話を、日本ではたった一人、あなたが生み出し、そして書き続けたのでした。そうした作品群を、文学性に乏しいとして文壇は評価せず、文学全集にも入れませんでした。なんとなく、イソップアンデルセングリムにノーベル賞をやらないみたいな話だなあ、と、ぼくは思ったものです。 
(筒井康隆『不滅の弔辞』「不滅の弔辞」編集委員会1998)

星新一をまだ読んだことのない若い人のために、
参考までに、2ちゃんねるのスレッドで3年半もかけたという
人気投票ランキングの結果を紹介しておきます。

作品名
収録されている文庫のタイトル
1位
処刑
『ようこそ地球さん』(新潮文庫)
2位
生活維持省
『ボッコちゃん』(新潮文庫)
3位
午後の恐竜
『午後の恐竜』(新潮文庫)
4位
『妄想銀行』(新潮文庫)
5位
おーい でてこーい
『ボッコちゃん』(新潮文庫)
6位
殉教
『ようこそ地球さん』(新潮文庫)
7位
ひとつの装置
『妖精配給会社』(新潮文庫)
8位
最後の地球人
『ボッコちゃん』(新潮文庫)
9位
白い服の男
『白い服の男』(新潮文庫)
10位
ボッコちゃん
『ボッコちゃん』(新潮文庫)
(「星新一作品ベスト50」の投票結果:2006年〜2009年までの期間)
やはり、はじめて星新一を読むならトップ10に
4作も入っているロングセラー『ボッコちゃん』ですかね。
11位以下の作品は、以下のまとめサイトでどうぞ。
星新一作品ベスト50を決めよう!まとめ
onigiri(おにぎり) まとめ