そこで、日本では「SF」はどう受容されてきたのか、
どんな言葉で評価されたり、批判されてきたのか、
とくに同時代の"文学"との関係はどうだったのか?
そのあたりに注目しながら、星新一の評伝のなかから
参考になりそうな箇所を抜き書きしておきます。
(以下の青字の文は『星新一 一〇〇一話をつくった人』からの
引用、および孫引きです)
星新一が商業誌にデビューした1957(昭和32)年ごろ。
「科学小説は子供向けの読み物」として認知されていました。
たとえば、当時のSFに対する一般的な見方として、
神戸新聞学芸部にいた宮崎修二朗氏の回想があります。
あのころは勉強不足だったので、科学が小説になるなんて邪道、インチキという意識しかありませんでした。志賀直哉や横光利一の世界で育ってきたわけですからね。国枝史郎の時代小説のように面白い話は文学じゃないという考え方があって、吉川英治や山本周五郎でさえ低く見られていた。ましてやSFなんて、言葉は悪いけど、あいの子みたいな感じ、大和撫子じゃない。空想ならいくらだって書ける、なんて思っていたんですね。(宮崎修二朗)
“時代小説”や“推理小説”も、低く見られていた時代、
出版社や新聞社に勤める"教養ある"大人たちには
「面白い話は文学じゃない」という考えがあったんですね。
最相さんは、"純文学"の方が"エンタメ作品"よりも
格上だと見なす考えは、今でも残っていると指摘しています。
純文学では、おもしろい、という評価は決してほめ言葉ではなく、おもしろいけれどただそれだけ、という否定的なニュアンスで受け止められる風潮があった。文学としてのレベルは低いという意味で、「それはエンターテインメントでしょう」などと蔑む作家や文芸評論家はいまだに存在する。(最相葉月)
そんななか、SFを支持していた数少ない"文学者"として
安倍公房(あべ・こうぼう)と三島由紀夫の名前が挙がっています。
空想科学小説は、きわめて合理的な仮説の設定と、空想というきわめて非合理的な情熱との結合という点でコロンブスの発見にも似ている。その知的な緊張と、冒険への誘いの衝突からうみ出されるポエジーは、単に現代的であるばかりでなく、同時に文学本来の精神にもつながるものだ。(安倍公房 「SFマガジン」 1960年3月号)
また、SF同人誌「宇宙塵(うちゅうじん)」の愛読者であり、
「日本人によつて書かれたSFには大てい目をとほしてゐるつもりである」
と豪語する三島由紀夫は、同誌にこんな一文を寄せています。
私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学は
SFではないか、とさへ思つてゐるのである。
その意味で『宇宙塵』の地道な努力には、ひそかに敬意を払つてゐる。
(三島由紀夫「宇宙塵」第二回日本SF大会記念号 1963年)
星新一は1960(昭和35)年下半期の「直木賞」に
ノミネートされましたが受賞には至りませんでした。
当時、雑誌の編集者だった作家の小林信彦は、
星新一の作品をとりまいていた状況をこう回想しています。
当時の印象としては、あれはなんだかわからない、といった受け止め方です。星さんの名前はまだほとんど知られてないときで、直木賞は正直なところ、はじめからとれないと思っていました。というのも、以前は探偵作家といっていましたけど、推理作家でさえ社会的地位が低くて直木賞がとれない時代だったのですから。これは選考委員の問題でもあるのですが…、(小林信彦)
また当時、若手推理作家だった佐野洋は、何かにつけて
「人間が描けてない」と言う直木賞の選考委員と
最先端の海外文学を読み、星新一の作品を高く評価していた
評論家の間ではホメる基準が違っていたと述べています。
直木賞の選考委員と外国文学の最先端を知っていた中村真一郎や福永武彦の基準は違いました。前者の基準では、しょせん頭で書いたもんじゃないかというところではないでしょうか。日本の文学はどろどろしたところがないと評価されないですから。それよりも当時、日本人にもこういうのが書けるのかという驚きがあった。『ニューヨーカー』誌の短編はもう少し長いですけど、そこに載るようなイメージが強かった。(佐野洋)
当時、まだ中学生だった博物学者の荒俣宏さんの弁。
ぼくが読み始めたころの星新一はもう、才気突っ走るって感じでピカピカ輝いていた。なんといっても言葉遣いが新しいでしょう。誰でも書けそうだと思って真似して挑戦してみるけど、何本も書けないことはすぐにわかるんだよね。つまり、星新一はアメリカの雑誌の短編小説のエクリチュール(文体)を輸入した人です。ぼくたちは、植草甚一と並んで認識していましたね。カリスマ性がありました。ぼくたちの先生です。(荒俣宏)
こうして、一部の若い人たちには支持されたものの、
文学の世界からは星新一に代表されるSFなんかは
「文学ではない」と見なされていました。
さらに星新一に対する無理解や偏見は、彼が得意とする
"ショートショート"という形式にもついて回りました。
【ショートショート】
とくに短い小説で、不思議な内容と印象的な結末をもつことが多い。
1959年、ミステリ雑誌の編集長だった都筑道夫(つづき・みちお)が
アメリカで使われていた言葉を日本に紹介し、小林信彦が星新一の
作品を初めて"ショートショート"の名前で呼んだ。
星新一とSF同人誌『宇宙塵』に参加していた斎藤守弘の弁。
星さんはよく、何を書いてもどうしても短くなっちゃうんだよね、といっていました。ずばっと本質をいっちゃう。ぼくもそうなんですが、理系なんですね。小説家というのは本質をずばっといえないからいろいろまわりくどく書くわけですが、それができない。どちらかというと評論家的資質なんです。それがショートショートという形式によく合った。(斎藤守弘)
1960年代の経済成長期には、マスメディアが発達し
新しい週刊誌や企業のPR誌が続々と創刊され、
ショートショートが掲載される場も増えました。
そんななか、直木賞の候補に選ばれたこともあって
「星新一 = ショートショート = SF」という図式が
広がりはじめます。
星新一のほかにも、多くの作家が編集者の求めに応じて
ショートショートを書きましたが、文学としては評価されず、
作家の"お遊び"や"余技"のように軽く思われたり、
多くは、雑誌のページ調整のための埋め草扱いでした。
つい先日(2020年4月26日)に放送された「情熱大陸」に
現在のショートショートの第一人者 といわれる
田丸雅智(たまる・まさとも)さんが登場していました。
「(周りから)ショートショートやってるうちは作家じゃないよ、
みたいなことを言われたこと、実はけっこうあるんですけど…」と
話していて、いまだにそうなのかと知りました。
1970年に文芸誌「三田文学」が企画した対談の中で
星新一が "純文学"にあきたらなくなった原因を語った
エピソードがあります。
星は、"SFは文学ではない"と考える編集者を前にして
次のようなたとえ話をしています。
ネパールという国がある。結核で人が次々と死んでいくため、先進国のヒューマニズムに燃えた医師団が乗り込んで治療にあたった。すると、病気はあっという間に治り、人は死ななくなった。しかしこれまで人口が増えても一定の人口が減ってなんとかまとまっていたのが、死ななくなって人口が増加する一方になったために、職のない貧民があふれ出して収拾がつかなくなった。この「ヒューマニズム公害」は文学の重大なテーマの一つになりうる と。
すると、編集者が新一に質問した。
編集部 公害が文学になるのですか。(中略)さまざまな問題は含まれています。が、なぜ文学があんなものにこだわらなければならないのですか。…
編集者の偏狭な考え方を知って星新一はあきれます。
"文学とはこういうもの"と考えている編集者の想像力が、
あまりに貧しいというか、想像力を排除していたからです。
星:…ぼくが(純文学に・引用者注)あきたらなくなった原因は、そこにあったようだぞ。心臓移植はすでに現実になっている。人間関係に影響を及ぼしはじめている。肉親が死にかけている時、臓器が買えればなあと、現実に考えないでしょうかね。こういうことを考えてみないと、人間というものを冷静に再確認はできないのじゃないかと思うのです。
(星新一「S・Fと純文学の出会い」『三田文学』1970年10月号)
<SFノート:01>で紹介した星新一の
「SFという一つの世界はない」という発言は
この文芸誌の対談のなかで語られたものでした。
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