(友人からのメール)
ところで、最近またゲンペーさんの本買ったよ。
『中古カメラあれも欲しいこれもほしい』と『カメラが欲しい』。
出入りの本屋に『カメラが欲しい』頼んだら、
本屋 「赤瀬川原平じゃなくて、尾辻克彦って人が書いてます。」
俺 「あ、それ同一人物。作家として書いてるか、画家として書いてるかの違い。」
本屋 「えーっ!?・・・ああ、そうなんですか。」
毎度、地方ではこんな感じ。今の学校に来たばっかりの頃、文芸部の顧問だったんだけど、文化祭の出し物で路上観察やらせたら、生徒も喜んだし客もけっこう入ったよ。
と、かつては高校の文化祭の出し物としてもウケていたらしい「路上観察」ですが、
今でもやってる学校あるのかな。
【赤瀬川原平(あかせがわげんぺい)】=尾辻克彦(おつじかつひこ)
1937(昭和12)−2014(平成26)年。画家、作家、路上観察学会員。前衛芸術作品の千円札の模写で通貨偽造罪に問われる。イラストレーターなどをへて、1981年に小説『父が消えた』(筆名は尾辻克彦)で芥川賞受賞。『カメラが欲しい』『超芸術トマソン』『新解さんの謎』『老人力』など、著書多数。
◆前衛芸術という言葉があったのです。
1970年頃に美学校で「ハイレッド・センター」※のレッド氏から講義を受けたことがあるイラストレーターの南伸坊さんはこんな風に語っています。
「もし」と考えただけでも、私はドキドキしてしまう。もし、高校生のままで現場に立ち会っていたら、どんなに「オレ」は「ぶっとんだ」だろう?!
と思うからだ。高校を卒業して三年目に、私はハイレッド・センターのレッド氏に出会った。その時レッド氏は先生だった。私はこの出会いを生涯のラッキーであると思っている。…
その時私は、すでにハイレッド・センターが活動していた当時の年齢と、それほど違っていなかったハズだが、そのイタズラのあざやかさ、その頓知、工夫、ユーモアすべての点で、とても足元にも及ばない、と思った。
高校生の私は、ジョン・ケージやマルセル・デュシャンをイタズラッコと思っていたが、実はいまでも思っている。そうして中でもハイレッド・センターのイタズラが、もっとも好きで、もっともカッコイイと尊敬している。【1】
※【ハイレッド・センター(Hi-Red
Center)】:ある集合体。HRCと略称されることもある。発起人とみられる高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の三人の名前の最初の文字、「高」「赤」「中」の英訳でその名称がつくられたというのが定説。
ハイレッド・センターが活動していた1960年前後という時代は、世の中の若者たちがみんな燃えていたそうですが…さて、当時の社会の空気はどんなものだったのか。
一九六〇年というので一番有名なのはアンポだろう。道を行く人がアンポ、アンポといっていて、アンポという名前の飲み屋が出来たほどだ。アンポというのは漢字で書くと安保である。…
そのころは世の中がみんな燃えていたようだ。道を通る人がみんな燃えていた。道路を長島選手がたくさん歩いていたのだ。国会議事堂の前ではその燃えている人が束になって、それがウネウネと曲りくねって走りながらジグザグデモというのをやっていた。…
警官隊の方も燃えていたらしく、機動隊の制服を着てキビキビと国会議事堂を防衛していた。…
つまり何千人もの長島選手と何千人もの長島選手が、両方団体になって、お互いの力と力を思い切りぶつけ合っていたのだ。ああ、一九六〇年代の青春。でも本当に時代の青春だったと思うのだ、私自身も青春だったけど、あの時代そのものが青春だったのだ。【2】
「燃える男・長島茂雄」という代名詞は、今の若い人にはもうわからないでしょうか。さしずめ今なら松岡修造?あるいはアニマル浜口?ちょっと違うか…。
そしてまた、若きアーティストたちも、直接的・革命的な表現への衝動に燃えていました。
私たちには破壊的エネルギーだけがあふれてその銀座画廊内に充満していた。そのエネルギーが作品というものに収まりきれずに、不定形にはみ出してきて、画廊の物品類を叩きはじめた。
バケツを叩き、洗面器を叩き、ストーブを叩き、画廊の金属類をすべて叩き潰しながら、テープレコーダーを回して騒音的音楽を録音した。それを画廊の窓から街頭に向けて毎日のように放送した。
それでも何かが足りないようで、そのネオダダ展のパンフレットを吉村の体にペタペタと貼り付け、ミイラのようにして街頭に出て行った。町がまるで外国のように新鮮だった。私たちは満足に形を取れない作品の、そのエキスだけを持って、キャンバスではない現実の町の中に躍り込みたかったのだ。【3】
うわ。凄い。後の世であれば、パンクの破壊衝動にも通じる気持ちでしょうか。「町がまるで外国のように新鮮だった」なんて、なんだかうらやましい気もします。
その当時、上野の美術館で毎年一回「読売アンデパンダン」という一風変わった展覧会が開かれていました。読売新聞社が主催していた無審査自由出品のこの公募展に、おおぜいの若き芸術家たちが争うように作品を出品していたそうです。
前衛芸術※という言葉があったのです。その時代、革命という言葉もありました。古く安定した予定調和の絵の世界を突き抜けて、新しい革命的な表現を手にしようという、その競争みたいなものでした。それが前衛芸術です。
その熱気としては、アメリカ西部開拓史におけるゴールドラッシュみたいなものです。それが日本の上野の美術館で、毎年つづいていたのです。一九六〇年前後のことです。…
若き美術家たちは、まるでツルハシを振って金鉱でも掘り当てるような勢いで、ガラクタを振り回して作品をこね上げていたのです。バカと言えばバカ、しかし何と美しい熱気でしょうか。
【1】
※【前衛芸術】 アバン・ギャルド。第1次大戦後、フランスで興ったシュールレアリスムやダダなどの芸術運動。文学・絵画など各方面で伝統を否定し、革新をめざした。
赤瀬川原平も、その「読売アンデパンダン」に作品を出品しはじめます。21歳のウブな美術青年でした。
その熱気について説明するのに、理念としては何もない。ただ妙な絵がたくさんあるという話を聞いたのだった。絵に釘が打ったり紙が貼ってあったりするという。縄が巻きついていて、布が垂れていたりするという。いちばん驚いたのは机の絵の話だった。キャンバス代わりのベニヤ板のパネルに荒っぽく机の絵が描いてあって、その絵の机の真ん中に穴が開けられ、そこにじっさいの花瓶が置いてあるという。さらにその花瓶にはじっさいの花が活けられて、その花が画面からヒューッと付き出しているのだという。
「ホンモノの花ビラだよ。前を通るとヒラヒラ風で揺れるんだもの」
と、見て来た友人は話してくれた。
私はその話で体中が湧き立ってしまった。何ということだろうと思った。ただの話とはいえ、私にははじめての体験である。世の中にはそんな絵もあり得るのかと思った。ふざけている、とも思った。だけど気持ちはワクワクとして、もう完全に読売アンデパンダンの方を向いていた。
…
何か新しいことが起こりはじめているという予感は、体の中に覚醒剤でも打たれたようだった。【3】
釘、紙、縄、布、ベニヤ板などのほかにも、読売アンデパンダンに出品された作品の<材料>としては、たとえば以下のようなものがあったそうです。
風呂桶。むしろ。出刃包丁。ガラスの破片。ドラム缶。タイヤ。洗濯バサミ。アドバルーン。コッペパン。うどん。もやし。豆腐。そしてその腐っていく匂い。テープレコーダー。それの発する音。そして人体。その全裸のアクション。ETC。【3】
いまの芸術ズレしてしまった人からすれば「あ、現代芸術ね。」と軽く受け流されてしまうのがオチかもしれませんが、なにしろ当時はみんなが燃えていた時代。表現する側も、見る側も、すべてがはじめての体験ですからね。さぞワクワクしたことでしょう。たとえばモヒカン刈り。
モヒカン刈りをはじめて見たときは驚いた。話には聞いていたけど実際に見たときにはショックだった。本当に頭髪の両側を剃り落している。その「本当に」というところにショックを受けた。それは人物から受けるショックというより、作品から受けるショックと同じだった。作品のようなものが、人間のまま歩いているのだ。…
自分のそれまでの作品の解釈を拡張しなければ、その目の前のモヒカン頭に追い抜かれそうな感じだった。理屈や夢想だけのことではなく、先にやったものが勝ちである。不動産の獲得競争によく似ている。まだ誰も手を触れていない新しいものを、自分の手でつかみ出そうと、それぞれが目を輝かせている。そういう時代に「本当に」というのは強い力を持っていた。【3】
それでは、ゲンペーさんの案内で1960年代の“前衛芸術”の作品例を、笑いながら見ていきましょう。
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