これはもう馬鹿です。いや馬鹿は失礼だけど、ほとんど馬鹿と紙一重です。天才と狂人は紙一重だというけど、あれと同じで、ほとんど馬鹿と紙一重の冒険。
いや冒険とはみなそういうものでしょう。私は唸りました。冗談では言う。エントツに昇ってその自分を自分で撮ったら、なんて。しかし言うだけですよ、ふつうは。だけど飯村君は言うだけでなく、それをやってしまった。モロに。
凄い。感動です。馬鹿への感動。いや馬鹿といってはやはり失礼だ。しかしこの感動の前には失礼も吹っ飛ぶ。これはやはり馬鹿と紙一重の冒険というほかはないでしょう。その紙一重の紙が、もうほとんど破れかけている。【6】
この衝撃写真は、『超芸術トマソン』(ちくま文庫)の表紙になっていますので、興味のある方は書店でどうぞ。
◆トマソンから、路上観察学会へ
いずれにしろ、このような、ちょっと変なものを見つけて歩く学問である。学問ではないという人もいる。では表現かというと、自分では何も表現していない。だけど異常に面白いのだ。これを始めたときには、あまりにも面白くて知恵熱が出た。芸術を紛失したあとだから、その楽しさもひとしおだった。
世の中は深いと思った。もうすべて見尽くして倦怠していた、と思っていた世の中なのに、まだ誰も知らない密林がひろがっている。もちろん知ってもしょうがない密林である。ちゃんとした杉や檜が採出できるわけではない。分け入れど分け入れどゴミだらけの密林である。だけどそこで拾い集めたいくつかのゴミが、私たちの目には宝石のように光りはじめる。【7】
「芸術」が経済のネットワークに包囲されて、ファッションやブランドの世界に逃れてしまった後、赤瀬川さんたちは、路上を歩き回って「ちょっとヘンなものを見つける」学問(というか遊び)で大いに盛り上がります。いわゆる“路上派”の人々です。
では、路上観察学の一分野である<ハリガミ>から、名作のほんの一部をご紹介しましょう。
燃えないゴミは(金)だけです
これは港区麻布の高級住宅街で見つけたものだ。もちろん、曜日のことを言っているのだが、しかし一読して、思わず唸らされる。唸らない人もいるだろうが、しかし台所にうんざりするほどゴミの(金)が積み上げられている、そんな幻の光景が目に浮かぶ。【7】
町を行くあの子もこの子も私の子
ある町の少年補導協会による看板である。町内の児童への博愛を訴えかけてのものだろう。しかしよくよく考えてみて、あの子もこの子も私の子、つまりこの「私」というのは町のほとんどの子供の父親である。となると、ここは何か大変に性道徳の乱れた町内と思えるではないか。という曲解的な面白がり方にも「見立て」は紛れこんでいる。【4】
Don’t ウンコ
これは広尾の辺りの住宅街だ。近辺にあった他のハリガミから類推して、やはり犬の糞禁止であろう。しかし二ヶ国語である。インテリでなければわからない。ところが実際にこの辺りは外人の住民が非常に多く、チリガミ交換もスピーカーから英語と日本語の二ヶ国語を流しているという国際御町内なのだ。
…しかしあらためて考えてみて、これは日本語のわからぬ外人には意味不明だし、英語のわからぬ日本人にも意味不明である。やはりこのハリガミを見るには二ヶ国語の教養がなければならない。【4】
単なる散歩、犬の散歩
これも非常に難しい。前にもよそで話したことがあるが、つまり犬に関するハリガミはその排泄物の始末に起因するものがほとんどである。といってハリガミというものは何を訴えても効果が薄いという無力感があり、しかしそこの住人としてはハリガミででも注意せずにはおれないというイキドオリがあり、その二つの力がせめぎ合いながらハリガミ表現というものは横滑りしつつ爛熟していく、その結果、もう一度見て下さい。
「単なる散歩、犬の散歩」
もはや主義も主張もないこのハリガミが、静かな寺の境内にポツネンと張り出されているのを見るとき、人は深い何というか、深いその、とにかくもはやメッセージを超えた無我のハリガミ境地に突き当たってしまうのである。【8】
面白さを感じとる波長は人それぞれ、トマソンや路上観察に対する反応も人それぞれ。意味と無意味の境目にある不思議な物件は、何がなんでもそれを意味づけようとする困った人々の精神構造まで浮き彫りにします。
たとえば路上観察の報告が雑誌に掲載されると、その所在地が明らかな場合など、テレビや週刊誌のグラビアといったメディアが、これはいける、二分はもつ、見開きになる、というので直ちに現場へ駈けつける。そしてそれを前から後から大っぴらに撮影するのはまあいいとして、
「何故こんなものがここに出来てるの」
という質問を住人にぶつけて答えを得ようとする。
そんな様子を見ていると、子供のころから受験地獄を歩きつづけて形式上の正しい答えを得ることだけを身につけてしまった精神の典型を目撃しているような悲しい気持になるのである。
とくに社会部の記者など、一件落着を使命として、ひたすら落着だけを求めて動き回る。 路上観察というのはまるで役立たずのものだから、そこでは正しい答えの空しさがよけいに際立ってしまうのである。【4】
「正しい答え」を得て安心しようとする態度は、受験勉強の副作用なのかも知れませんね。たとえば、メディアに「正しい答え」(らしきもの)があふれかえっているのは、そんな考えをもった記者が書いているからか?
たぶん「そういうものが売れる(はずだ)」という経済のネットワークにメディアもまた包まれているからですね。笑
そんな「正しい答え」だけが議論される席での「スライド・バカ受け →討論無視」というお決まりの反応に唖然とするゲンペーさん。
昨年の春、日仏会館で都市を考える日仏のシンポジュウムがあった。…私はその時間に路上観察物件をスライド上映しながら話をした。通訳のフランス語がイヤホーンで流れるのだが、場内は爆笑のバカ受けで、フランス人の笑い声もしっかりと混じっていた。
さて一通り終ってから討論に入るのだけど、この路上観察に関する論議は皆無だった。結果的には無視である。…スライドのときにはあれほど感じ入って笑ったものが、論議のときにまるでその一カケラも出てこないのを見るとき、その論議とはいったいなんだろうかと思うのである。【4】
とはいえ、ことさらに主張しないのがゲンペーさんらしいところ。この路上観察学はさらに発展を続け、大学にはゼミが生まれ、文学と結びついて「超私小説」※という概念を生み出します。
もちろん冗談半分ですけど。(※「超私小説」についてはvol.04へ)
東大にとうとう路上観察学のゼミが出来た。単位に計上されるそうである。こうなるほかはなかったのである。藤森照信助教授のもとに、一日目は六十人も集まったというから、やはりこうなるほかはなかったとはいえ驚く。いずれ路上観察学を専攻する文部大臣、なんて生れるかも知れない。
いっぽうそのころ、私は文学講座で路上観察学を講義していた。私は文学の方の尾辻克彦と同一人物であるところから、岩波書店の市民セミナーで超私小説とういものを論じたのである。つまり考現学※→トマソン→路上観察学というベクトルを文学にくっつけたら、私小説というものが自然観察になってしまって超私小説という概念が生れてしまった。【6】
※【考現学】大正時代に今和次郎が提唱。考古学に対し、現在の風俗や生活を観察・記録する学問。
東大にゼミ。冗談半分とはいえ、凄いですね。いや、冗談半分だからこそ、凄いのか。
でも 今では、学問の世界も経済のネットワークに包囲され、「金」にならない=役に立たない人文学系の学部がどんどん整理されていると聞きます。実に残念です。
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