赤瀬川原平の宇宙。(03)
赤瀬川 原平(あかせがわ・げんぺい :1937−2014)
冗談半分に光は漏れて差し込んでくる

トマソンや路上観察は、なぜこんなにも面白いのでしょうか。
路上の物件を面白がるだけでなく、理屈の上でも、もう少し遊んでみましょう。

トマソンや路上観察の物件は、芸術のように誰かが意図したものではないから、
都市の中に現れた「自然の力」を見ていく作業だとゲンペーさんは説明しています。

トマソンは表現ではないのです。あの場合、こちらが見つけなければまるで価値のないもの、見つけても価値がないかもしれないが、しかし見つけたものの独自な論理に向かってある価値が現われてくる。…その価値だけが物に埋もれてそこにあったわけですね。【9】

「路上観察でやっているのも、人間の力ですべて統御しているはずの都市空間に、人工の力を透過するようにして自然の力がにじみ出てきている、そのことを見ているという気がするのです。」【9】

たとえば「壺庭(つぼにわ)」と呼ばれる物件。道路を歩いていると、たまに直径10センチくらいの丸い穴があいているのを見かけることがありますね。そこに土がたまって草が生えていたりします。

「ツボ庭」【9】

…夏には緑が濃くなり、秋には紅葉さえして、蟻や蜘蛛が横切ったりもする。そんな道路中央のちょっとした緑の庭を、壺庭という。本来の町家の中の坪庭の、さらに極小のものである。
…道路中央の、全面アスファルトの中にポツンと、直径十センチほどの円形の緑というのは、なかなか在り難いことである。だからそれに出合うと、ホッと有難い気持になるのだ。
【7】

ちなみに“壺庭”という絶妙なネーミングは、路上観察学会の藤森照信氏によるもの。
壺庭は、いわゆる“見立て”の面白さですが、盆栽や盆景のように意図して作られたものでなく、路上にひっそりとあって、誰かに発見されるまでは気づかれないままという、そうした風情に日本の「わびさび」すら感じます。笑

昔の人がよくいうことで、一本の樹から仏像を彫り出した場合、その樹の中にはもともと仏像があったのだというような、だからいろいろなものがこの世の中には埋もれていて、たとえば路上観察物件の「ブロック塀の猫の目」を例にとると、たまたまあそこではネコに目をつぶらせてブロック塀がパッチリ目を開いたのかもしれない。【9】

資料写真が見つからないのでイラストで解説すると、塀の前にネコがいて、顔はこっちを向いているのですが、気持ちよさそうに目をつぶっています。

で、よく見ると、ん?後ろのブロック塀のすき間が、まるで猫の目のように開いていたという偶然の物件です。 この世界にはいろんな意味が埋もれていて、それが発見されたり、彫り出されてきたりする。無意識や自然が顔を出すというのは、そんな瞬間のことではないでしょうか。

逆にいうと、いまの世の中がいずれも恣意的に、人間の意図によってすべて固められている。いわゆる管理社会ということですが、それに対する辟易さかげんが路上やトマソンに向かわせる原因としてはあるのでしょう。そうではない意外な面白さ、新しいもの、そもそも意外なものというのは全部新しいものですね。その新しさを探している結果が、そういうものを発見させているという気がします。【9】

トマソンや路上観察に向かわせる社会的・心理的な要因について、たとえば…
ムダや偶然を排除し、あらゆるものごとを予測や計算によってコントロールしようとする閉塞的な管理社会からの“逃避”。
だとか、
膨大な情報がデータ化され、システム化され、細かい規則や効率的なマニュアルに縛られた予定調和的な世界からの“離脱”。

そんなふうに考えると、あと一歩で文明批判になりますが、まぁ、好奇心旺盛なこどもの “道草”が、そのまま路上観察にスライドしたというのがいちばん近い気もします。笑

そんなこんなで、ゲンペーさんを中心とするオモシロ好きの面々は、路上を歩くうちに<千利休>とバッタリ出会います。そう、あの昔の有名な茶人(今なら芸術家?)です。

◆偶然や無意識を楽しむ他力思想

「こういう路上のゴミみたいなものを採集してきてはバカみたいに感動しているおれたちの気持って、欠けた茶碗をいいなんて感動していた利休たちの気持に似てるんじゃないかな」と藤森照信が言い、とたんにわたしもうなずいていたのである。【4】

いったいトマソンと千利休にどんな関係が? と、私もビックリしました。
路上観察の用語に、“ウケ波”と“タメ波”があります。“ウケ波”とは、物件が発するウケねらいのエネルギー。“タメ波”とは、何かのタメになろうとするエネルギー。どちらも、人間の作為を感じさせるオーラで、トマソン物件の価値を下げてしまうものです。

たとえば、誰かがワザと面白そうなトマソン物件を作ったところで、そこに面白さは現われてこない。その物件からおのずと発せられる「ウケ波」が無用のトマソンの輝きを打ち消してしまい、ただの芸術作品になり下がってしまうのです。笑

ところが安土桃山的歴史に踏み込むうちに、「侘(わ)びたるはよし、侘(わ)ばしたるはわるし」という利休の言葉を見つけて愕然としてしまった。これはまさに、「無為のトマソンはよし、ウケねらいの芸術はわるし」と言っているのではないか。つまり明らかに意図された固まりの作品というものを回避しようとしている。【4】

昔も今も、あまりに作為を感じさせると、「あざとい!」となって、かえってマイナスなんですね。とはいえ、ついついウケをねらったり、役に立とうとしてしまうのが人間のサガ。無為自然のトマソンの道は、悟りの境地へと続いているのかも知れません。

そういえば、路上観察のスライド講演で、来場した観客の一人から「それは、一種の他力(たりき)思想ですね」と言われてゲンペーさんは、はっと気づいたそうです。他力思想というのは、仏教において仏に救われたいと願う「他力本願」のこと。

トマソンや路上観察物件は、自分で作るものでなくすべて他人が作ったものである。その他人にしても、その自分の知らないところで出来てしまったようなものである。それを歩きながら見つけて、写真に撮って眺める、ただそれだけのことだ。

…考えてみれば、そもそもは自力創作の不毛を見たところから、他力の観察発見に転じているのである。だから路上の物件を見ても、それが無意識的に作られたものほど面白い。【7】

そうか。路上観察とは他力思想だったのか!ゲンペーさんは、さらに他力思想における「偶然」や「無意識」という要素に着目して、こんなふうに語っています。

偶然を待ち、偶然を楽しむことは、他力思想の基本だろう。私はそこに、無意識を楽しむという項目を付け加えたい。利休はいつも臨床的にものごとを考えている。自分から動く、というふうではないのである。じっとしていても、ものごとは目の前にやってくる。そこではじめて自分が対応して何ごとかを成す。

偶然も無意識も、それは自然が成すことである。それに添って歩くことは、自然に体を預けることだ。他力思想とは、そうやって自分を自然の中に預けて自然大に拡大しながら、人間を超えようとすることではないかと思う。【7】

トマソンから路上観察を経て、千利休と出会い、他力思想へ。すごい話になってきました。こんな展開が待っているとは!

もはや思想となり、一冊の本となったトマソンからお気に入りの一節を引用したいと思います。
では『超芸術トマソン』文庫版469ページ。コホン。

…私たちは自然の与えてくれた好奇心に身をまかせて、物件を見つけてきたのだ。
自然とはそういうものだ。
好奇心の出し惜しみをして触らずにいたとしても、何ほどのことがあるのか。私たちはいずれ必ず自然に打ち負かされる。それよりも自然を誘い出して、いっしょに戯れた方が面白い。爽快である。
トマソンにしても、何もないところから発掘したのだ。整理棚が出来たからといっても、それは知れたものだ。私たちはまだほんの一部分だけを見ているのだろうと思う。いずれまたどこかに、とんでもないものが見えてくる。私はまだ初体験に憧れている。メクルメクのが大好きである。
でもそれは計算して狙ったところからは外れるだろう。あらかじめ筋肉で固めたところから光は差してこないと思う。退屈して、好奇心が独りぼっちになってしまって、筋肉がみんな仕事に出かけた隙に、冗談半分に光は漏れて差し込んでくる
【6】

何の役にも立たないトマソンで、こんなに感動してしまうのは私だけ?

◆直観と形式をめぐるジレンマ

では、利休の話が出たついでに、芸術における「直感」と「形式(言葉)」をめぐる問題について、ゲンペーさんの見事な比喩をご紹介しましょう。

利休が晩年に言い残した、「私が死ぬと茶は廃れる」という言葉を見たときにはドキリとした。…察するところ、すでにこの時代から茶の湯が形式としてだけ固まっていく風潮があったようなのである。利休はそれを嘆いているのだ。茶の湯を好む人がふえるにつれて、師匠も多くなったが、規則ばかりを細かくいいたてて、世俗の義理に堕落し、ちょっとした作法の無知をあざけるようになり果てたという。そんな利休の言葉が残されている。【7】

茶道といえば、素人にはよくわからない作法の集大成みたいな印象がありますが、無作法をあげつらう風潮というのがすでに利休の晩年のころからあったんですね。
もともと前衛芸術家だったゲンペーさんは、利休の残した言葉を、こんな風に受けとめます。

つまり言葉で言えぬことこそが茶の湯の大本であると、それを言葉で言ったのだろう。それを言葉でいうと「私が死ぬと……」となってしまう。誤解されるすれすれのところを言葉が横切る。つまり直感の世界のことだ。

直感とは言葉の論理を追い抜く感覚にほかならない。言葉を追い抜くし、言葉をすり抜ける。言葉の論理からはあるかなきかの、あるといえばそれはまやかしではないかと思えるほどの危ういものである。しかしあてずっぽうではなく、それはあくまで言葉の延長上にあることはあるのである。【7】

茶道であれ芸術であれ、創造行為には“直観”や“ひらめき”がつきものですが、それを論理的に、言葉で説明するのは、不可能に近い。

つまり閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない。言葉にとっては、ほとんど幻想世界だ。つまり言葉の届かぬ先で意味の沸騰している世界である。微細な意味が、その沸点の上で小さなダンスをしている。それが直感的世界の断面図である。

それは後からの言葉ではなく、その沸点の上に身を置いたときにだけ感応できる。そこでやっと、先の利休の言葉が身をもってわかる。この茶の湯の沸点における意味のダンスをこそ踊るべきだと利休は言うのだろう。【7】

すごい比喩ですね。
「意味の沸騰している世界」
「沸点の上での、微細な意味のダンス」

論理だけの形式的な理解ではなく、意味が生まれてくるときの揺らぎに、同調し、共振すること。たとえば、利休の有名な言葉に「一期一会」というのがあります。

◆一期一会の精神と前衛の悲哀

伝え残されている教訓的な言葉では、人と同じことをなぞるな、ということをよく言っている。つまり新しいことをやれ、自分だからこそのことをやれ、ということである。つまり芸術本来の姿、前衛芸術への姿、前衛芸術への煽動である。そのような、人のあとをなぞらず、繰り返さず、常に新しく、一回性の輝きを求めていく作業を、別の言葉では「一期一会」ともいうわけである。【7】

「一期一会」は、おもてなしの極意としても、よく引き合いに出される言葉ですね。ただ、知識として知ってるからといって、それができるとは限らない。これも言葉だけの、形式的な理解の一例です。笑

日本の伝統的な芸能や職人の世界では、まず「型を覚える」というのがありますね。個性や我を捨てて型に没入するなかから新しいものを生み出すという方法論。

お茶にしてもお花にしても、お稽古ごとといわれるもの一般が同じ構造を生きている。そこにある形式美に身を潜めることの快感があるのである。
そうではない、本来の侘び茶というものは形式美ではなく、それを崩すことにあるのだ、それを打ち破って新しい気持のひらめきを見出すことにあるのだ、とマラソンの先頭ランナーが説いたとしても、それは後方集団では何のリアリティももたないのである。
 私たちはこれでいいの。決められた形が上手に出来ることが嬉しいわけ。あなたは早く前に戻って、先頭を走りなさいよ、となってしまうところが、前衛の悲哀というものかもしれない。
【7】

どんな文化も、あるスタイルが一般化すると、その形式を破って、また新しいものが生まれる。その繰り返しなのかも知れません。ファッションなんか、まさにそう。

さて。
理屈っぽい話が続いたので、ちょっと凝りをほぐしに、温泉にでも行きましょうか。

「まあ、温泉でも行って、のんびりして……」

温泉「でも」の前には、たぶん「理屈はともかく」みたいな意味が隠れているのだと思う。温泉とはそういうところだ。どうしても温泉でなければ、というような強いものはない。選び抜かれた何ものか、という厳しい感じはどこにもない。考えだしたら世の中にはいろいろごちゃごちゃあるけど、まあ、温泉でも行って……、というわけだ。温泉ではきっと理屈が蒸発するのだろう。

温泉地に行くとあちこちから湯気が出ていたりするが、あれと同じように、いろいろごちゃごちゃの理屈が蒸発している。人々が厳しい理屈を蒸発させながら寝そべっている。だから「温泉でも行って」の後には「のんびりして」というのが必ずつくのだ。【10】

この本『仙人の桜、俗人の桜』に付いてた惹句は、「日本が、日本人の根っこが見えてくる」でした。要は“路上観察”のまなざしで、全国各地を旅しながら日本の文化を見つめなおすという趣向ですね。読んでいると、温泉に「でも」行きたくなる本です。それにしても、日本の風景に懐かしさを感じて、妙に嬉しくなってしまうのはなぜか。歳のせいか。

◆なつかしい日本の風景

門司がとくにそうだった。二、三歳のころなので断片しか覚えてないが、崖があり、石段があり、上の方に家があり、下の方にも家がある。そういう空間の、何かわくわくするような楽しさをはっきり覚えている。…

そうか、港町の切り立った崖沿いの家並、それが子供のわくわくする楽しみなんだなとそのときわかった。それはたまたま私の子供時代の体験だけど、本当はどの子供もそうだと思う。坂のある町には、何か楽しい秘密が隠れているのだ。 尾道に行ったときにもそうだった。うわ、門司だ、と有頂天になった。…

もう一つ、そもそも崖地の楽しさは、空間だ。道は狭くて石段は急だけど、どこも見晴らしがいい。だから狭苦しいところについどこからか忍び込んでくる惨めさや鬱陶しさが、あらかじめ吹き飛ばされている。海に面した崖地だから物理的にも風が強いが、それが人々の内面にも吹き込んでクリアーにする。だからとても楽しい。【10】

門司に限らず、日本には坂の街が多いですが、ただの山坂ではなく「海に面している」というのがポイントですね。この見晴らしのよさが大事。坂の街で育った人には、実に懐かしい眺めです。

次は、この本の題名となったエッセイ「仙人の桜、俗人の桜」から、日本文化の粋である“お花見”について。

若いうちはなかなか日本人になれないもので、アメリカ人になったり、フランス人になったり、イタリア人になったり、あれこれしている。でも歳をとるとどうしても日本人になってきてしまって、気がついたら満開の桜の下で酒を飲んでいる。私もそうだった。お花見なんて、そんな毒にも薬にもならないことに浮かれているヒマはないんだ、という気持の、嫌な若者だった。…

静かなところでお茶だけを飲んで、純粋に桜の花の美しさだけを観賞する、というのもいいことはいいが、それだとちょっと花見にならない。嫌な酔っ払いがふっと横切り、その場所にちょっと混じったり出たりしている、というところでお花見の独特の、綺麗で、不安で、夢みたいな、柔らかくて、何か破れそうな、それを破らないように、そうっと持ち運びながら、ふわふわ漂い遊んでいるという、そういう空気にひたれるのではないかと思う。【10】

面白いですね、小刻みに修飾語を連ねるレトリック。少しずつ、ちょいちょいと、絵筆の色を塗り重ねて心に浮かんだイメージを描き出していくような文章です。

ゲンペーさんといえば “食”についてのエッセイにもずいぶん面白いものがあります。たとえば、グルメを気取った文化人が食の薀蓄を傾けるような文章とはちがって、こちらはあくまでも庶民派。安心して読めます。
では、“食”のエッセイから、おいしいところをどんどん引用していきましょう。

◆おいしい日本の私

【湯豆腐】
もう何も文句はいわない。湯豆腐なら全面的に満足である。鍋の中の熱い湯の中で、白い豆腐が沈んでいる。ほんの少し揺れたりしている。こちらはその熱い湯の中にそっと箸を入れながら、もうその段階でしあわせにひたりきっている。日本人に生まれてよかったと思う。いや別に外国人でもいいのだけど、ナイフとフォークではこのしあわせはない。これは絶対的に箸に限る。…

そうやって長年の日本人をやっている箸の先が湯の中の豆腐に達すると、それだけでもうこちらの人柄まで穏やかになっている。優しくいたわる気持でそっと白い豆腐をつまみ上げる。誰でもこのとき、いつくしみの気持をもつのである。そして葱と鰹節の醤油にちょっとつけて口に入れる。うまい。【11】

冒頭でいきなり、「もう何も文句はいわない」笑。もちろん私も、湯豆腐には全面的に賛成です。そっと箸を入れると、人柄まで穏やかになり、つまみ上げると、いつくしみの気持さえあふれて…。優しい日本人は湯豆腐でつくられる。となれば、やはり一杯のみたくなりますね。

【日本酒】
昔は日本酒というとお燗が常識だった。まず徳利とお猪口なのだ。火にかけた鍋とかやかんのお湯の中に、日本酒を入れた徳利をぽんと入れる。そのとき徳利の底の窪みがお湯の湯面でぽとんと鳴って、そのぽとんという独特の音をお湯の中まで籠らせながら徳利本体が沈んでいく。この感じにも何かたまらないものがある。その場に何かしっとりした温もりがあり、その場からもう立ち上がりたくないという気持。

それもまた日本酒の味なのだけど、台所で冷たいのをきゅっとやるのも日本酒の味である。どちらが本当の味かといって、言い切れるものではない。寒風の中を歩いてきて、屋台に首を突っ込んでまず注文したいのは、やはり熱燗の一杯である。【10】

徳利(とっくり)の底の、ポトンという独特の音。あーっ、たまりませんね。湯豆腐に日本酒ときたところで、いっきに『ぱくぱく辞典』へとまいりましょう。
この本に収められた文章は、雑誌「マリ・クレール」に1988〜1991まで連載されていたものです。当時のマリクレは、尾辻克彦赤瀬川原平の二人を同時に起用するほど贅沢な雑誌で…。と、そんな話はどうでもよかったですね。

わたしは味に関しては保守的な人間だと思うが、いわゆる洋食というものが2とすると、和食は8くらい好きだ。それを分析してみると、キーワードは「箸」と「味噌醤油味」ということになるらしいことに気がついた。つまり中国料理に接しても韓国料理に接しても、和食からそのままスライドして好きになれるのだ。 【12】

ではまず、その韓国料理の代表選手から。

【全州ビビンバ】
とにかくソウルから車で南を巡った。全州というところで遺跡を見たりした後、「全州ビビンバを食べよう!」ということになったのである。あえて感嘆符をつけたが、私はすでに、「全州ビビンバ」という語感からして、それは感嘆符モノであった。ぜんぜん意味がなくて恐縮であるが、中国料理の「満漢全席」という何か物凄料理を連想する。…

地元の人は、その底に出来るお焦げがまたうまいんだよ、と教えてくれた。そうか、と思って、掻きまぜるのを休む。熱いといっても石の器の余熱なので、真っ黒けに焦げるということはない。ちょうどいいお焦げが発生している。それをスプーンでこそいで食べると、美味しいんですね。本当の話が。たんなるビビンバではなく、さすがは「全州ビビンバ」だと、私は全面的に感動した。【12】

あーねー。和食の釜飯もそうですが、おこげがまた、うまいんですよね。和食から横にスライドする中華や韓国料理と、洋食はどう違うのでしょうか?ゲンペーさんの意見を聞いてみましょう。

洋食の場合は異なる。スライドではなく上に伸び上がる。つまり上昇志向を持ってこそあのふにゃふにゃしたものを好きだと思うのだけど、その努力を怠ればたちまち下降して、あんなホワイトソースなんてどうでもいいわい、と本音を吐くようになるのである。そうでしょう、皆さん!いや、ごめんなさい。別に本音を吐くだけが人生ではない。ホワイトソースに背伸びするのもまた美しいパフォーマンス。【12】

明治以来の欧米文化へのあこがれは、学問や思想といった方面ばかりでなく、戦後の日本の食文化のなかにも根強かったようで、ゲンペーさんはこんなエピソードを披露しています。

【串カツ】
二十代のころ、小さな洋食屋でランチを頼み、出てきた串カツにナイフとフォークで挑んだ。串を手で持って直接歯でグイと食べれば簡単だけど、それでは品がないという顔をして、金属食器をもどかしいマジックハンドのように操作するが、肉のところを串から抜くのが恐ろしく難しい。あれは肉と串の境目がしっかりとハンダ付けみたいになってるんですね。

ラチがあかないのでエイッとばかりに力を入れたら、肉のカケラがピュンッと飛んで、セメントの床にコロリと落ちた。(しまった!)と思ったが、何食わぬ顔をしてまた次のカケラに取り組み、少々焦りもあってまたエイッと力を入れると、またピュンッと飛んでコロリと落ちた。あとカケラは一つしかない。私はカーッと頭に血が昇りながらも、(欧米ではよくあることだよ)という顔をして、空しくライスに挑んだのだった。青春。【12】

で、いよいよ和食に箸をのばしたいのですが、さて、数あるメニューからいったい何を紹介するか。とりあえず、3品ほどみつくろってお出ししましょう。

【ふき】
いいですね。蕗と書く。ますますいいですね。水彩画のような食べものだ。栄養があるのかないのか、そんなことをくよくよ考えるのが恥しくなるような食べものである。シーズンが来て蕗を食べて、ああこれだった、と思う。どれだと言われても明示できないが、しかし何ごとであれ、「どれだ?」と質問ばかりするのが、現代社会の悪いクセだ。答なんてない。言葉にすると間違ってしまう答というのがあるのである。それを知るには蕗を食べてみるよりほかはない。【12】

【焼蛤】
能登半島の左側のつけ根の千里浜は、砂粒が物凄く細かいので車でドライブできる。でドライブ
すると海沿いに焼蛤屋さんの小屋が並んでいる。二、三十メートルおきにぽつん、ぽつん。まあせっかくだからと車を止めて、焼蛤を注文。どうということのないオバサンが、ただ単に七輪の上の金網に蛤を載せて、醤油を二、三滴。ジュージュー焼けたのを皿に取って食べる。これがもう最高。世界最高。いままで食べた日本料理の第一位。たまらずお代りを注文。缶ビールも一つもらう。潮風がサービスでいくらでも吹いてくる。一生忘れない。【12】

【ウニ】
ウニといえば有名な、「俺のウニに泥を塗った」という言葉がある。有名といってもこれは私の言葉なので身の周りの一部数人に有名なだけだが、事の起りはこうである。…

俄然逆転サヨナラの雰囲気でゲームがやっと盛り上がってきた。よし、と思ってテレビの前で坐り直していたら、「試合の途中ですが……」時間切れで放送は打切り。アタマにきた。このあともし吉村が逆転打を打ったとしたら承知しないぞ。そう思ってその夜プロ野球ニュースを見たら案の定、吉村の見事な逆転打でジャイアンツが勝ったという。ドタマにきた。その凡試合でそこだけが見どころなのに、よりもよってそこをカットするとは、人をバカにしている。「俺のウニに泥を塗った!」と私はあるエッセイに書いたのである。

その比喩を要約すると、にぎり鮨一人前を食べるとき、マグロ、イカ、赤貝とかある中で、ウニは最高峰だ、と私は思っている。だから最後にとっておいて食べるのだが、その一つだけ残してあった貴重品のウニに誰かがヒョッとタバコの灰でも落としたら、それこそが、「俺のウニに泥を塗った!」となるわけで、先の放送打切りはまさにそのような構造を含む事件だったのである。【12】

これを聞いた“路上観察”仲間の藤森照信氏は、「比喩とは、複雑な事象を分かりやすく説明するものなのに、あんたのは逆に、分かりにくくしている!」と言ったとか。
たしかに分かりにくい比喩ではありますが、矛盾とか、蛇足といった故事成語のように、いつしか「ウニ泥」が広まる日が来ることを願ってやみません。

◆意味の生まれる場所/消えてゆく場所

世間の人が見向きもしないモノを「あ、これは…」と拾いあげる貧乏性的な好奇心。普通の社会人がサッと通り過ぎる地点で立ち止まり、不思議がってしまう子供のような “まなざし”。意味と無意味の境目をじーっと観察しているゲンペーさんの文章には、さまざまな“気づき” があります。何よりすごいのは、気がついたからといって、それが見事に何の役にも立たないことです。笑

みなさん当然ながら目撃していることでしょう。黒褐色のコーヒー宇宙に白いミルクが何本も尾を引きながら、くるくる回転して渦巻きギャラクシーを形成していく。それは私たちが夜空に仰ぎ見るアンドロメダ星雲にそっくりであり、私たちの銀河系もほぼそれと同じ形状だと説明される。

とすると、回転の中心から三分の二ほど外側にいった、なるほど、このあたりに私たちの太陽系があるんだな、などといろいろ深く思索しながら見つめるミルクの渦巻きギャラクシーは、何十億年かの寿命を目の前の一分間ほどに短縮して回転を終える。ミルクの渦巻きは、最後は散開星団の形となって止まる。…

余談であるが、大の大人がこんなことをしていてはいけないと思って仕事に戻り、とりあえず目の前の原稿用紙に目を落とすと、そのとき面白い現象があらわれる。静止しているはずの原稿用紙の桝目がゆっくりと回転をはじめる。これにはハッとした。【8】

グルグル回るものをしばらく見つめて、ふと目を横にそらすと、静止しているモノが逆回転して見えるんですよね。ま、大のオトナには、どーでもいい話でしょうけど。笑
視線といえば、2枚のステレオ写真を裸眼で見る遊びも流行りました。「おーっ、来た来た来た!」とか言いながら。

◆燃える瞳の交差法。広い心の平行法。

撮影角度を少しずらした2枚の写真を同時に見つめると、3Dの画像が浮かび上がるステレオ裸眼視の遊びも、ゲンペーさんの本から教わりました。その見方に、“交差法”と“平行法”というのがあって。この“平行法”を習得するのが、なかなか難しいのです。

ステレオ裸眼視の道場があったと仮定するのである。
交差法は一種の寄り目だから、寄り目というのは力を入れる集中力の問題だから、比較的簡単である。ところが平行法はその反対で両目を広げるわけだから、これは難しい。目をぼんやりさせる、つまり「分散力」が必要となるのだ。

でも受験にしろスポーツにしろひたすら集中力だけを鍛えて生きてきたのが人間だから、平行法がなかなかできない。そうすると厳しい教師の叱責の声が飛ぶ。
もっとぼやぼやできんのか!
「集中するなというのがわからんのか!」
「もっと気を抜いてぼやっとせんかい!」
いいかげんにしろ!
もちろんこの「いいかげんにしろ」というのは、目付きをもっと「いいかげん」にしろということである。
【13】

集中力とは逆の「分散力」は、一時ブームになった「老人力」につながる考え方です。「老人力」とは、まだまだ若い者には負けん!みたいな老人パワーではありません。歳をとって物忘れがひどくなったことを「なかなか老人力がついてきた」とプラス評価し、世の中の価値を転倒させてみようといった、笑える話です。

はじめて“平行法”を マスターしたときのうれしさは今でも忘れられません。 ゲンペーさん言うところの、まさに「脳内リゾート」が 開発されたようでワクワクしたものです。

じっと夜空の星を眺める、なんてことも考えてみれば不思議な経験ですね。なぜ、人は星を見るとワクワクするのでしょう。

私はその日一晩中、双眼鏡をのぞいていた。星など見えない灰色の空に、レンズを通していくつもの星が湧いて出て来る。私は夜中に一人で起きたままワクワクしていた。レンズを通した星の光は濡れたようにキレイで、遠慮深くて、私は何故だか悲しくなってしまった。何だかレンズの力でやっと出て来る小さな光が、哀れになってしまったのだ。本当はこちらの方が、人間の方が哀れなのに。【2】

こうしたワクワクする心の揺れに同調して、思わず声をあげて笑ったり、「うーん、すごい」と唸ったりしてしまう体験が、赤瀬川本の魅力です。たとえば、次のような文章はどうでしょう。

買いたての新しい消しゴムにはワクワクとする。早くそれを使ってみたい。早く鉛筆の線を消してみたい。だから鉛筆が間違えるのを待ち構えている。だけどそういうときにかぎって右手は意識しすぎて、キチンと書いてしまう。なかなか間違えることができない。なかなか消しゴムを使う場面がない。そこであらかじめ間違えた線、まったく何の意味も持たない、消すための鉛筆の線というものが描かれることになる。

それは結局は消されてしまう線なのだけど、何故か気になる線である。消しゴムという世の中に不必要なものの力を試すために必要なもの、これほどに純粋に不必要なものの存在というものがあるだろうか。もしも芸術というものが確定した形であるとすれば、この線のようなものなのかもしれないと考えたりする。【14】

人類の歴史上、ゲンペーさん以外のいったい誰が「消されるためだけに書かれた鉛筆の線」なんてものに思いを馳せ、それをわざわざ文章にしたでしょうか。いや、もちろん馳せる必要はまったくないのだけど。

(04)へつづく
<引用したTEXT>
【1】『東京ミキサー計画』 ちくま文庫 (解説:南伸坊)
【2】『優柔不断読本』 文春文庫 (筆名:尾辻克彦)
【3】『いまやアクションあるのみ!』 筑摩書房
【4】『芸術原論』 岩波書店
【5】『常識論』 大和書房
【6】『超芸術トマソン』 ちくま文庫
【7】『千利休 無言の前衛』 岩波新書
【8】『科学と抒情』 青土社
【9】『超私小説の冒険』 岩波書店
【10】『仙人の桜、俗人の桜』 日本交通公社
【11】『常識論』 大和書房
【12】『ぱくぱく事典』 中央公論社(文:尾辻克彦)
【13】『ステレオ日記 二つ目の哲学』 大和書房
【14】『少年とオブジェ』 ちくま文庫
【15】 『純文学の素』 ちくま文庫 (解説:久住昌之)