「まあ、温泉でも行って、のんびりして……」
温泉「でも」の前には、たぶん「理屈はともかく」みたいな意味が隠れているのだと思う。温泉とはそういうところだ。どうしても温泉でなければ、というような強いものはない。選び抜かれた何ものか、という厳しい感じはどこにもない。考えだしたら世の中にはいろいろごちゃごちゃあるけど、まあ、温泉でも行って……、というわけだ。温泉ではきっと理屈が蒸発するのだろう。
温泉地に行くとあちこちから湯気が出ていたりするが、あれと同じように、いろいろごちゃごちゃの理屈が蒸発している。人々が厳しい理屈を蒸発させながら寝そべっている。だから「温泉でも行って」の後には「のんびりして」というのが必ずつくのだ。【10】
この本『仙人の桜、俗人の桜』に付いてた惹句は、「日本が、日本人の根っこが見えてくる」でした。要は“路上観察”のまなざしで、全国各地を旅しながら日本の文化を見つめなおすという趣向ですね。読んでいると、温泉に「でも」行きたくなる本です。それにしても、日本の風景に懐かしさを感じて、妙に嬉しくなってしまうのはなぜか。歳のせいか。
◆なつかしい日本の風景
門司がとくにそうだった。二、三歳のころなので断片しか覚えてないが、崖があり、石段があり、上の方に家があり、下の方にも家がある。そういう空間の、何かわくわくするような楽しさをはっきり覚えている。…
そうか、港町の切り立った崖沿いの家並、それが子供のわくわくする楽しみなんだなとそのときわかった。それはたまたま私の子供時代の体験だけど、本当はどの子供もそうだと思う。坂のある町には、何か楽しい秘密が隠れているのだ。
尾道に行ったときにもそうだった。うわ、門司だ、と有頂天になった。…
もう一つ、そもそも崖地の楽しさは、空間だ。道は狭くて石段は急だけど、どこも見晴らしがいい。だから狭苦しいところについどこからか忍び込んでくる惨めさや鬱陶しさが、あらかじめ吹き飛ばされている。海に面した崖地だから物理的にも風が強いが、それが人々の内面にも吹き込んでクリアーにする。だからとても楽しい。【10】
門司に限らず、日本には坂の街が多いですが、ただの山坂ではなく「海に面している」というのがポイントですね。この見晴らしのよさが大事。坂の街で育った人には、実に懐かしい眺めです。
次は、この本の題名となったエッセイ「仙人の桜、俗人の桜」から、日本文化の粋である“お花見”について。
若いうちはなかなか日本人になれないもので、アメリカ人になったり、フランス人になったり、イタリア人になったり、あれこれしている。でも歳をとるとどうしても日本人になってきてしまって、気がついたら満開の桜の下で酒を飲んでいる。私もそうだった。お花見なんて、そんな毒にも薬にもならないことに浮かれているヒマはないんだ、という気持の、嫌な若者だった。…
静かなところでお茶だけを飲んで、純粋に桜の花の美しさだけを観賞する、というのもいいことはいいが、それだとちょっと花見にならない。嫌な酔っ払いがふっと横切り、その場所にちょっと混じったり出たりしている、というところでお花見の独特の、綺麗で、不安で、夢みたいな、柔らかくて、何か破れそうな、それを破らないように、そうっと持ち運びながら、ふわふわ漂い遊んでいるという、そういう空気にひたれるのではないかと思う。【10】
面白いですね、小刻みに修飾語を連ねるレトリック。少しずつ、ちょいちょいと、絵筆の色を塗り重ねて心に浮かんだイメージを描き出していくような文章です。
ゲンペーさんといえば “食”についてのエッセイにもずいぶん面白いものがあります。たとえば、グルメを気取った文化人が食の薀蓄を傾けるような文章とはちがって、こちらはあくまでも庶民派。安心して読めます。
では、“食”のエッセイから、おいしいところをどんどん引用していきましょう。
◆おいしい日本の私
【湯豆腐】
もう何も文句はいわない。湯豆腐なら全面的に満足である。鍋の中の熱い湯の中で、白い豆腐が沈んでいる。ほんの少し揺れたりしている。こちらはその熱い湯の中にそっと箸を入れながら、もうその段階でしあわせにひたりきっている。日本人に生まれてよかったと思う。いや別に外国人でもいいのだけど、ナイフとフォークではこのしあわせはない。これは絶対的に箸に限る。…
そうやって長年の日本人をやっている箸の先が湯の中の豆腐に達すると、それだけでもうこちらの人柄まで穏やかになっている。優しくいたわる気持でそっと白い豆腐をつまみ上げる。誰でもこのとき、いつくしみの気持をもつのである。そして葱と鰹節の醤油にちょっとつけて口に入れる。うまい。【11】
冒頭でいきなり、「もう何も文句はいわない」笑。もちろん私も、湯豆腐には全面的に賛成です。そっと箸を入れると、人柄まで穏やかになり、つまみ上げると、いつくしみの気持さえあふれて…。優しい日本人は湯豆腐でつくられる。となれば、やはり一杯のみたくなりますね。
【日本酒】
昔は日本酒というとお燗が常識だった。まず徳利とお猪口なのだ。火にかけた鍋とかやかんのお湯の中に、日本酒を入れた徳利をぽんと入れる。そのとき徳利の底の窪みがお湯の湯面でぽとんと鳴って、そのぽとんという独特の音をお湯の中まで籠らせながら徳利本体が沈んでいく。この感じにも何かたまらないものがある。その場に何かしっとりした温もりがあり、その場からもう立ち上がりたくないという気持。
それもまた日本酒の味なのだけど、台所で冷たいのをきゅっとやるのも日本酒の味である。どちらが本当の味かといって、言い切れるものではない。寒風の中を歩いてきて、屋台に首を突っ込んでまず注文したいのは、やはり熱燗の一杯である。【10】
徳利(とっくり)の底の、ポトンという独特の音。あーっ、たまりませんね。湯豆腐に日本酒ときたところで、いっきに『ぱくぱく辞典』へとまいりましょう。
この本に収められた文章は、雑誌「マリ・クレール」に1988〜1991まで連載されていたものです。当時のマリクレは、尾辻克彦と赤瀬川原平の二人を同時に起用するほど贅沢な雑誌で…。と、そんな話はどうでもよかったですね。
わたしは味に関しては保守的な人間だと思うが、いわゆる洋食というものが2とすると、和食は8くらい好きだ。それを分析してみると、キーワードは「箸」と「味噌醤油味」ということになるらしいことに気がついた。つまり中国料理に接しても韓国料理に接しても、和食からそのままスライドして好きになれるのだ。
【12】
ではまず、その韓国料理の代表選手から。
【全州ビビンバ】
とにかくソウルから車で南を巡った。全州というところで遺跡を見たりした後、「全州ビビンバを食べよう!」ということになったのである。あえて感嘆符をつけたが、私はすでに、「全州ビビンバ」という語感からして、それは感嘆符モノであった。ぜんぜん意味がなくて恐縮であるが、中国料理の「満漢全席」という何か物凄料理を連想する。…
地元の人は、その底に出来るお焦げがまたうまいんだよ、と教えてくれた。そうか、と思って、掻きまぜるのを休む。熱いといっても石の器の余熱なので、真っ黒けに焦げるということはない。ちょうどいいお焦げが発生している。それをスプーンでこそいで食べると、美味しいんですね。本当の話が。たんなるビビンバではなく、さすがは「全州ビビンバ」だと、私は全面的に感動した。【12】
あーねー。和食の釜飯もそうですが、おこげがまた、うまいんですよね。和食から横にスライドする中華や韓国料理と、洋食はどう違うのでしょうか?ゲンペーさんの意見を聞いてみましょう。
洋食の場合は異なる。スライドではなく上に伸び上がる。つまり上昇志向を持ってこそあのふにゃふにゃしたものを好きだと思うのだけど、その努力を怠ればたちまち下降して、あんなホワイトソースなんてどうでもいいわい、と本音を吐くようになるのである。そうでしょう、皆さん!いや、ごめんなさい。別に本音を吐くだけが人生ではない。ホワイトソースに背伸びするのもまた美しいパフォーマンス。【12】
明治以来の欧米文化へのあこがれは、学問や思想といった方面ばかりでなく、戦後の日本の食文化のなかにも根強かったようで、ゲンペーさんはこんなエピソードを披露しています。
【串カツ】
二十代のころ、小さな洋食屋でランチを頼み、出てきた串カツにナイフとフォークで挑んだ。串を手で持って直接歯でグイと食べれば簡単だけど、それでは品がないという顔をして、金属食器をもどかしいマジックハンドのように操作するが、肉のところを串から抜くのが恐ろしく難しい。あれは肉と串の境目がしっかりとハンダ付けみたいになってるんですね。
ラチがあかないのでエイッとばかりに力を入れたら、肉のカケラがピュンッと飛んで、セメントの床にコロリと落ちた。(しまった!)と思ったが、何食わぬ顔をしてまた次のカケラに取り組み、少々焦りもあってまたエイッと力を入れると、またピュンッと飛んでコロリと落ちた。あとカケラは一つしかない。私はカーッと頭に血が昇りながらも、(欧米ではよくあることだよ)という顔をして、空しくライスに挑んだのだった。青春。【12】
で、いよいよ和食に箸をのばしたいのですが、さて、数あるメニューからいったい何を紹介するか。とりあえず、3品ほどみつくろってお出ししましょう。
【ふき】
いいですね。蕗と書く。ますますいいですね。水彩画のような食べものだ。栄養があるのかないのか、そんなことをくよくよ考えるのが恥しくなるような食べものである。シーズンが来て蕗を食べて、ああこれだった、と思う。どれだと言われても明示できないが、しかし何ごとであれ、「どれだ?」と質問ばかりするのが、現代社会の悪いクセだ。答なんてない。言葉にすると間違ってしまう答というのがあるのである。それを知るには蕗を食べてみるよりほかはない。【12】
【焼蛤】
能登半島の左側のつけ根の千里浜は、砂粒が物凄く細かいので車でドライブできる。でドライブすると海沿いに焼蛤屋さんの小屋が並んでいる。二、三十メートルおきにぽつん、ぽつん。まあせっかくだからと車を止めて、焼蛤を注文。どうということのないオバサンが、ただ単に七輪の上の金網に蛤を載せて、醤油を二、三滴。ジュージュー焼けたのを皿に取って食べる。これがもう最高。世界最高。いままで食べた日本料理の第一位。たまらずお代りを注文。缶ビールも一つもらう。潮風がサービスでいくらでも吹いてくる。一生忘れない。【12】
【ウニ】
ウニといえば有名な、「俺のウニに泥を塗った」という言葉がある。有名といってもこれは私の言葉なので身の周りの一部数人に有名なだけだが、事の起りはこうである。…
俄然逆転サヨナラの雰囲気でゲームがやっと盛り上がってきた。よし、と思ってテレビの前で坐り直していたら、「試合の途中ですが……」時間切れで放送は打切り。アタマにきた。このあともし吉村が逆転打を打ったとしたら承知しないぞ。そう思ってその夜プロ野球ニュースを見たら案の定、吉村の見事な逆転打でジャイアンツが勝ったという。ドタマにきた。その凡試合でそこだけが見どころなのに、よりもよってそこをカットするとは、人をバカにしている。「俺のウニに泥を塗った!」と私はあるエッセイに書いたのである。
その比喩を要約すると、にぎり鮨一人前を食べるとき、マグロ、イカ、赤貝とかある中で、ウニは最高峰だ、と私は思っている。だから最後にとっておいて食べるのだが、その一つだけ残してあった貴重品のウニに誰かがヒョッとタバコの灰でも落としたら、それこそが、「俺のウニに泥を塗った!」となるわけで、先の放送打切りはまさにそのような構造を含む事件だったのである。【12】
これを聞いた“路上観察”仲間の藤森照信氏は、「比喩とは、複雑な事象を分かりやすく説明するものなのに、あんたのは逆に、分かりにくくしている!」と言ったとか。
たしかに分かりにくい比喩ではありますが、矛盾とか、蛇足といった故事成語のように、いつしか「ウニ泥」が広まる日が来ることを願ってやみません。
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