忘れられた日本人。宮本常一(01)
宮本 常一(みやもと・つねいち :1907−1981 )
旅が、師であったかと思う。

宮本常一は、司馬遼太郎網野善彦など、日本の歴史にくわしい知識人からこぞって敬愛される人物でありながら、(知らない人はまったく知らない)もはや忘れられそうな日本人の一人です。

いったいどんな人なのか? 宮本常一の評伝を書いた佐野眞一によると…

宮本は七十三年の生涯に合計十六万キロ地球をちょうど四周する気の遠くなるような行程を、ほとんど自分の足だけで歩きつづけた。その旅はのべにして四千日におよび、泊めてもらった民家は千軒を超えた。一生の七分の一は旅から旅の毎日だった。…

のちに宮本に決定的な影響を与える渋沢敬三が、「日本列島の白地図の上に、宮本くんの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」といったのは有名な話である。【1】

合計約16万キロ、地球を4周って…。ちなみに江戸時代に日本地図を作った伊能忠敬(いのう・ただたか)が測量して歩いた距離が約4万キロと言われていますから、宮本常一は、その4倍にあたります。

宮本を敬愛してやまなかった司馬遼太郎は、「日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」と、自身のライフワークである『街道をゆく』のプロローグに書き記しました。

宮本はよく旅の巨人といわれる。しかし、その大きさは、歩いた距離にあるわけではなかった。宮本の本当の大きさは、歴史というタテ軸と、移動というヨコ軸を交差させながら、この日本列島に生きた人々を深い愛情をもって丸ごととらえようとした、その視点のダイナミズムとスケールにあった。【2】

知らない方のために、簡単なプロフィールから。

【宮本常一(みやもと・つねいち)】:明治40(1907)〜昭和56(1981)。
山口県・周防(すおう)大島の“百姓”として育ち、17歳で大阪へ出て郵便局員となる。20代で小学校教諭となり民俗学※に興味を持つ。32歳で教職を辞し、渋沢敬三※が主宰する「アチック・ミューゼアム」の研究員となり、戦前から戦後、高度成長以降にかけて、日本各地の農漁村を歩き民俗調査を行う。

民俗学というのは、ざっくり言うと近代化によって失われてゆく民俗  古くからの儀礼や伝承や民具などを対象とする学問であり、歴史学や社会学、文化人類学などと一部重なる学問領域です。

渋沢敬三は、大実業家である渋沢栄一の孫で、日銀総裁や大蔵大臣などの要職にありながら自邸の敷地内に民具などの民俗資料を収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム」をつくり、自ら研究を行なう一方、多くの学者や研究者のパトロンとして学問の発展を陰で支えた人物。

私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということであった。

すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。

多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。

しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩(かっぽ)している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。【3】

宮本常一の著作を読んでいると、いったい人は何のために学ぶのか、私たちにとって幸福とは何か、そんな問いさえ浮かんできます。

宮本は、歩くことについてこんなふうに語っています。

私自身にとって歩くというのはどういうことだったのか。
歩くことが好きだったのである。歩いていていろいろのものを見、いろいろのことを考える。喉がかわくと流れの水を飲み、腹がへると木の実やたべられる植物をとってたべた。

人にあえば挨拶をした。そのまま通りすぎる人もあるが、たいてい五分なり十分なり立ち話をしていく。それがたのしかった。その話というのはごくありふれた世間話であった。要するに人にあい 話をすることが好きだったのだろう。同時にまた人の営みを見るのが好きだった。【3】

17才で山口県の大島から大阪へ出て、柳田国男が提唱する民俗学に出会う前から、宮本は街であれ農村であれ、仕事が休みの日は、とにかく歩き回っていたそうです。

黒のジャンパーに編み上げの兵隊靴をはき、周囲に縁のある紺色の運動帽をかぶり、リュックサックを背負った。リュックサックにはコウモリ傘をくくりつけた。その姿が富山の薬売りに似ているのでよく間違えられた。

そのようにして歩いていってみると、それぞれの土地に実にすばらしい人びとがいた。単にすぐれた伝承者であるばかりでなく、その地域社会の社会秩序や文化を支えてきている聡明で英知にみちた人びとである。【3】

宮本自身、もともと学問のつもりではなく、歩きながらいろいろのことを考え、歩くたびに疑問がわいてきたと語っています。

話を聞く時も「一つ教えて下さい。この土地のことについては(あるいはこの事柄については)私は全く素人なのですから、小学生に話すようなつもりで教えて下さい」と言って話を聞くのが普通であった。

私はその話が納得できるものであれば他へもいって披露した。それが私のように旅をする者の役目だと考えた。【3】

こうした宮本常一の姿勢を“日本民俗学の父”といわれる柳田国男と比べてみると…

思えば、紋付、袴に白足袋をはき、農政官僚や朝日新聞論説委員の肩書きをもって、日本列島を“治者”の眼差しで旅し、昭和三十七年、民俗世界が根底からくつがえされた高度成長期の日本をみることなく瞑目した柳田国男は、きわめて“幸福”な民俗学者だった。【2】

柳田国男の場合はきっと“上から目線”だったんでしょうね。
たとえば、民族学者の岡正雄は、柳田のことをこんな風に皮肉っています。

(柳田)先生という方は、「常民」の発見者で常民が先生の終生の関心事であったのだが、おおよそ性格的には常民的でなかったと思います。

貴族的という言葉も適当ではないが、常民と境なしに話のできる方ではなかった。帝国大学法学部を出られ、官位も高く、柳田家は当時のハイ・クラスであり、そして相当わがままな方だった。【2】

「常民」とは、各地の村々で民俗を伝承してきた庶民のことですが、柳田は、常民とはかけ離れたエリート、農商務省の高等官僚でもありました。

一方、自ら“山口県大島の百姓”だと言う宮本常一はどうか。宮本の聞き取り調査に同行した人がその様子を語っています。

田んぼのあぜ道を歩きながら、野良仕事をしている人に気安く声をかける。『ようできてますなあ。草はどのくらいいれましたか』と宮本さんがいうと、野良仕事をしていた人が手を休め、『まあ、一服するか』とこっちへやってくる。

あとのやりとりは、蚕に糸を吐かせるように実にみごとなものでした。まったく無駄なく話がつづいていく。…相手も宮本さんを、民俗学者でなく、同じ百姓仲間として扱ってくれた。あんなに聞きとりのうまい人はあとにも先にもみたことがありません【2】

もう一人、宮本をよく知る写真家はこんな証言を残しています。

調査にいっても、はじめは都会からうすぎたないジジイがやってきたという顔をされる。ところが宮本さんと話しているうち、相手の目がランランと輝き、最後は必ず『あんたの話は本当のことをいっている。学者先生とは違う。今晩はどうしてもうちに泊まっていってくれんか』ということになる。宮本先生との旅はそんなことの連続でした。【2】

宮本は後に、学者のやるような調査より、もっと民衆の生活自体を知ることの方が大切なのではないかと考えるようになります。

なぜ宮本がそのような民衆の生活に目を向けるようになったのか、その生い立ちにせまってみましょう。

山口県の周防大島に生まれ育ち、後に日本各地をめぐり歩いた宮本常一は、自身の学びのスタイルについて、こんなふうに語っています。

郷里から広い世界を見る。動く世界を見る。いろいろの問題を考える。
私のように生まれ育った者にとっては、それ以外に自分の納得のいく物の見方はできないのである。足が地についていないと物の見方考え方に定まるところがない。…

ふるさとは私に物の見方、考え方、そして行動の仕方を教えてくれた。ふるさとがすぐれているからというのではない。人それぞれ生きてゆく道があるが、自分を育て自分の深くかかわりあっている世界を、きめこまかに見ることによって、いろいろの未解決の問題も見つけ、それを拡大して考えることもできるようになるのではないかと思う。【3】

農村であれ、都市であれ、どんな人にも生まれ育った地域があります。そんな身近な世界とのかかわりからいろんな問題を考える。それが宮本にとって唯一納得できる“地に足のついた”物の見方でした。

私が民俗学という学問に興味を持つようになったのは私の育った環境によるものであると思う。幼少のときから十六歳まで、百姓として生きてゆく技術と心得のようなものを祖父母や父母から、日常生活の中で教えられた。そしてその後の私の生活は幼少のときの親身の人たちから教えられたことの延長として存在しているように思う。【3】

民俗学とは、前近代から近代への過渡期、それまでの社会や生活様式が大きく変貌していくなかで生まれてきた学問です。宮本が村の生活の中で受け継いだ民俗は、近代化のなかで次第に「消えゆくもの」でした。きっとそれは幼い頃のなつかしい思い出と結びついていたことでしょう。

宮本が郷里の祖父や父母から受けた教えの一部を抜き出してみます。

ある日、日がくれかけて、谷をへだてた向うの畑を見ると、キラキラ光るものがある。
何だろうと祖父にきくと、「マメダが提灯をとぼしているのだ」といった。マメダというのは豆狸のことである。

マメダは愛嬌のあるもので、わるいいたずらはしないし、人間が山でさびしがっていると出て来て友だちになってくれるものだとおしえてくれた。【4】

なんだか「まんが日本昔ばなし」の世界ですね。一方、いまの子供たちにとって、空想の世界を広げてくれるのは、TVアニメのキャラクターでしょうか。

私はこの祖父に十歳になる頃まで育てられたといっていい。夜になると祖父に抱かれて寝た。そしてこの祖父から童謡や民謡や昔話を数かぎりなく聞いたのである。それが私の心をはぐくんでくれた。【3】

昔の農村では働き盛りの両親は農作業で忙しく、子守りをするのは祖父母の役目でした。いまの日本では核家族の世帯が多くなり、むかし話の桃太郎や浦島太郎も、CM出演で忙しいようです。

六、七歳の頃からは畑の草ひきをさせられた。
「一本でもいいからひいてくれ、一本ひいたらそれだけわしの仕事が楽になる
それが祖父のことばであった。
はじめは草ひきをやめてどこかへあそびにいくことが多かったが、少し力を入れて仕事をすると祖父はすごく喜んでくれた。
【3】

今でも教育的な見地から、子どもに家事の手伝いをさせる親はいると思いますが、それより習い事や勉強を優先させる方が多いかも知れませんね。宮本少年の場合、十歳を過ぎて教育が祖父から父の手に移ってから、いろんな百姓仕事を教え込まれました。

私は幼年期から少年期にかけて土を耕し種子をまき、草をとり草を刈り木を伐(き)り、落葉をかき、稲や麦を刈り、いろいろの穀物の脱穀をおこない、米を搗(つ)き、臼(うす)をひき、草履を作り、菰(こも)をあみ、牛を追い、また船を漕ぎ、網をひいた。【3】

子どもでも、覚えること、やらなきゃならない仕事がこんなにあったんですね。時代が違うと言えばそれまでですが、私たちは小中学生の年齢の子どもがそんな生活をフツーにしていた時代があったことさえ忘れています。

夏の草刈り作業一つとっても、当時はこのようなものでした。

暑さで汗が吹き出て流れ、これが眼にはいる。それに草はチガヤ(篠ともいう)が多くてこれで手をきる。手が血みどろになることが多い。そういう時父は、「しっかりと草を握れ。恐る恐る握るからかえって手をきるのだ。」と言った。
手がきれてもかまわん気で握ってみい。」と言われると、父が無情に思えてうらめしかった。…
手も足も草疵で夜は風呂に入ると痛んで涙がおちるほどであったが、百姓は皆ここをこえて来なければならないのだと父の言葉はきびしかった。
【5】

宮本の故郷、山口県・周防大島は、明治の頃から出稼ぎの盛んなところで、気が向けば大した目的ももたずに旅に出かける者が多かったそうです。

宮本の父親も一年に一度か二度、「ちょっと出て来る」と言って、行く先も告げずに一人旅に出ていたとか。今の時代なら、妻がだまって夫の一人旅を見過ごすことはないと思いますが。笑

父はその知識をどこで得たのであろうかと思うほどいろいろのことを知っていた。これほど私の知識を豊富にし、夢をかきたててくれたものはない。…

小学校へろくにやってもらえなかった人とは思えなかった。本を読んで得た知識ではなく、多くの人から聞いたものの蓄積であり、一人ひとりの人が何らかの形で持っている知識を総合していくと、父のような知識になっていったのであろう。【3】

貧農のため、自ら中学への進学をあきらめた宮本でしたが、父親からは「好きなようにしてよい」と言われ、17歳で郷里を出ることにします。家を出るとき、父親から忘れないようにと言われた教えは次のようなものでした。

(1)汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。
駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

(2)村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

(3)金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

(4)時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

(5)金というのはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

(6)私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

(7)ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

(8)これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

(9)自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。
【3】

旅の体験に裏打ちされた言葉の重み。後に、全国を旅する宮本の道を決めたのは、父親の言葉だったようです。

父にとっては旅が師であったかと思う。そして私を旅に出させることにしたのも旅に学ばせるためであったと思っている。【3】

また、宮本の家は、見知らぬ旅人や修行僧を無料で泊める「善根宿」だったそうです。

子供の頃、私の家へはいろいろの人が泊まっていった。…旅人が出発するとき、米などをおいてゆこうとするときはもらったが、金をおこうとすると、追いかけて戻している母の姿をたびたび見た。…

世の中が好景気になった大正五、六年頃から、村に宿をする家もでき、そういう客は来なくなったが、私の家に旅人を泊めるという慣習のあったことを、母は姑からうけついだ。貧しくいそがしい中で、どうしてそういうことを続けたのか。祖母は相見互いだからと言っていたが、母はそれを忠実にうけついでそのままそれを守りつづけた。【3】

後に宮本は、全国を歩き回るなかで、民家に泊めてもらうこともあったそうで、まさに「情けは人のためならず」。親切にする/されることの「相見互い」は個人を越えて、めぐっているわけですね。

母はどんなに辛いときも愚痴をこぼさず、また決して私を叱らなかった。…学校教育も何もうけていない人であったがおこないの清潔な人で、人のかげ口はほとんどきかなかった。…

政治だの経済だのそういうことについては何も知らぬ、しかし自分の生きなければならない道を、せい一ぱい歩いた人の姿がそこにある。【3】

学校教育など受けていなくても、誇るべき美しい人たちがフツーにいた時代。しかし人一倍働き、つつましく暮らしても借金するしかない家の有様、農村の現状。

自分の深くかかわりあっている世界を、きめこまかに見ることによって、いろいろの未解決の問題も見つけ、それを拡大して考えることもできるようになるのではないかと思う。【3】

全国を歩いた宮本常一の「学び」の根っこには、つねに郷里への思い、祖父母や両親の働く姿があったようです。

(02)へつづく
<引用したTEXT>
【1】佐野眞一『宮本常一が見た日本』NHK出版
【2】佐野眞一『旅する巨人』文藝春秋
【3】宮本常一『民俗学の旅』講談社学術文庫
【4】宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫
【5】宮本常一『家郷の訓』岩波文庫