今回は、明治末期から大正時代にかけて宮本常一が生まれ育った村の生活を描いた『家郷の訓(おしえ)』を中心に引用します。文化人類学者の原ひろ子が書いた解説文によると…
この本は、生活の書である。そして学問の書である。年齢や生れた地方の如何(いかん)を問わず、この本を読む人は、自分自身の体験や生活を内省して、自らの成長の過程や、子供の育て方、孫との接し方、地域活動のあり方、地域行政のあり方などを具体的に考える上でのヒントを得るであろう。【5】
まあ、むずかしい話は置くとして、約100年前の日本人の生活の一断面をのぞいてみるだけでも面白い本です。
まずは、瀬戸内海の西部に位置する山口県・周防(すおう)大島の風景から。
村よりの四望は風光明媚と言っていい。そしてこの明快なる風光が、どれほど島の人の心をやわらげ明るくしたかわからない。古くは春の光なごやかな日など、人びとは多く浜に出で、そこに筵(むしろ)をしいて藁(わら)仕事や針仕事をしつつ談笑していた。
静かな夕暮には山から仕事を終えてかえった人たちが、浜や石垣の上に集まって沖の方を見つつ少時を雑談した。【5】
いいですねぇ、のんびりした島の風景。経験したことないのに、なつかしい感じがするのはなぜでしょう。
夕焼の空がこの海にうつっている時はことさら美しい。そういう時は不思議に子供たちが浜へ出て来る。そして暗くなるまで遊ぶ。
この静かにして美しい海は子供たちの石投げでいくつもの波紋を作る。それがまた美しい。石が空に弧線を描いてはるか沖でジボンと音をたてて沈むのは耳に快い。
次は平(たいら)な石や瓦などを見出して来てこの海の上をすべらせる。石は水面をピョンピョンと跳びながらすべって行ってついには沈む。これをトークネンボと言った。【5】
この遊びは、今の子供でもやりますね。小石が水面を何回弾んだかを競ったりします。
ヨバレゴト(ままごと遊び)も、なつかしいものです。
貝殻が釜にもなれば茶碗にも皿にもなる。潮が干(ひい)て浜が出てあたたかい日には子供たちはこの貝殻をひろいに浜へ出る。…
たくさん拾った貝殻をそれぞれに選り分けて浜に小さい竈(かまど)をつき、白砂をご飯に盛り、海藻をおかずにしてヨバレゴトが始まる。筵(むしろ)一枚が座敷である。
花嫁が出来たり花婿が出来たり、幼いながらも何か大人に似た感情が動く。こうして五歳位までは女の子があそんでくれるのである。【5】
戦後はプラスチック製の玩具が登場し、ままごと用の小さくて色とりどりのお椀やお皿が全国に広まりましたが、島では貝殻を使っていたんですね。
むかしの子供たちの遊びには、かなり過激なものもあったようです。
たとえば、石合戦(のちにドングリ合戦)。
ドングリとは松毬(まつぼっくり)のことである。行なわれるのは旧三月三日の節句であった。この遊びは昔ほど盛んであって、幕末頃に隆盛をきわめたという。当時は石であった。…
祖父たちの話をきくと一種凄絶(せいぜつ)をきわめたものであったらしい。…子供の遊びがほとんど石合戦で、時には血みどろになってかえって来ることがあっても親は文句をいわなかったそうである。【5】
血みどろになって…って。
私が子どものころ(1970年代)は駄菓子屋で売っていた銀玉鉄砲でしたが、今ならエアソフトガンを使ったサバイバルゲームといったところでしょうか。今は、なんでも遊びに金がかかります。
秋になると、子どもたちが家々を回って、餅(もち)や菓子、小遣いなどをもらう「亥の子(いのこ)」という行事があったとか。
秋十月の亥の日に行なわれる亥の子搗(づ)きは、多くドーシ(朋輩)が一組になって行なった。…
お家の繁盛 祝いこめ祝いこめ
と言ってつきはじめて、先ず大黒舞の歌をうたい、年上の子供たちはそのほかにも色々の歌をうたう。家々ではあまり沢山来るものだからうるさくて、お礼の餅などやらないで知らぬ顔をしていると、
貧乏せえ 貧乏せえ
といって次の家へ行く。【5】
まるでハロウィーンですね。“Trick or Treat”よりも手が込んでいる。知らん顔の家に向かって子供たちが「貧乏せえ」というのも笑えます。
村では、子供も若者も娘たちも家をあけて外泊したという話がありました。
男は十五歳になると村の若連中に入る。…日常の若者たちの生活は若者宿を中心にしてなされる。…筵(むしろ)を織ったり菰(こも)を編んだり、籠を作ったりするようなむづかしい手仕事はたいていこの宿仲間から教えられたという。…【5】
もっと年齢の低い子供たちも老人などのいる家に二、三人で泊りにいって夜には昔話などを聞かせてもらうこともあったそうです。こちらの方は、今だと地域の人たちの協力を得て、小学生が公民館などに寝泊まりする「通学合宿」という体験活動がありますが、これに近いかもしれません。
現在と大きく違うのは、娘たちの奉公です。
娘は年頃になるとたいてい家を逃げ出す。そして町の方へ奉公に行くのである。親が許して奉公に行くということはほとんどなかった。
盆や正月に朋輩(友達)が奉公先から戻って来るとその子たちから様子をきき、またしめしあわしてそっと行李に荷をつめて、親の知らぬ間に荷物だけは持ち出しておいて、折を見て出て行くのである。…【5】
宮本によれば、知らないのは父親だけで、母親は若い頃に同じ経験をしているため、娘のよき理解者であったそうです。
こうした奉公は、米や金を稼ぐだけでなく、世間を知るいい経験になったようです。社会勉強のためのアルバイトですかね。今は、家出まではしませんけど。
二月の灸(きゅう)すえの行事も、なかなか楽しいものだったようです。お灸は「やいと」ともいいました。
娘たちは特にこの日がたのしい日で、それぞれに米や小豆など持ち寄って灸すえのすんだ後でおはぎ餅やぜんざいなど作って食べる。すると若い者たちがそこへ押しかけてお客に来る。…
これが若い男女にはまたとなくたのしいもので、娘たちはあらかじめ、若い男たちのよろこびそうなものを用意しておいて待った。時にはまた、いたずら半分に、ぜんざいの中へ唐辛子など入れて、そのしかめ面を見て手をうって笑ったりすることもあった。【5】
なんだか楽しそう。コンパみたいですね。若い者たちだけでなく、村の人たちは法事や神社の祭礼、節句の行事などさまざまな会食の機会をつくりました。
みんなで集まり神社で豊作を祈ってもらうミヤゴモリ(ヒゴモリ)もそのひとつ。
今日はヒゴモリをしようという家々では朝から魚など買って来て煮たり焼いたりつくったり、また鮨につけたりして支度する。御馳走は重箱につめる。そしてお宮へ参る。
それから神主さんを招いて拝んでもらいお酒をふるまう。その後は皆で食べあって雑談をしたり昼寝したりして夕方までいてかえるのである。【5】
「昼寝したりして」ってのが、いいですね。宮本常一によると、娯楽の考え方が個人主義の都会人と、村の共同体では大きく違っていたようです。
娯楽は都会人にとっては個々がたのしむことのように考えているけれども、村にあっては自らが個々でないことを意識し、村人として大ぜいと共にあることを意識するにあるのであって、これがある故にひとり異郷にあっても孤独を感じないで働き得たのである。【5】
今の社会は、個人主義が基本なので「大ぜいと楽しむ」機会は持ちにくいですね。音楽の野外フェスとか、スポーツ観戦とか、趣味があう仲間やファンが集まるイベントくらいでしょうか。
宮本常一は言います。
本来幸福とは単に産を成し名を成すことではなかった。…
村民一同が同様の生活と感情に生きて、孤独を感じないことである。…そして喜びを分ち、楽しみを共にする大勢のあることによって、その感情生活は豊かになった。悲しみの中にも心安さを持ち、苦しみの中にも絶望を感ぜしめなかったのは集団の生活のお陰であった。【5】
宮本は、こうした生活と感情を一つにする共同体をつき崩していった一因として、明治以来の「立身出世主義」を挙げています。
農村には大きな変貌があった。共に喜び共に泣き得る人たちを持つことを生活の理想とし幸福と考えていた中へ、明治大正昭和の立身出世主義が大きく位置を占めてきた。心のゆたかなることを幸福とする考え方から他人よりも高い地位、栄誉、財などを得る生活をもって幸福と考えるようになってきた。…こうして幸福の基準、理想の姿というものがかわってきた。【5】
近ごろ、子どもが集団で遊べないとか、他人の子を叱れなくなったという意見を耳にすることがありますが、宮本常一が『家郷の訓』を書いた戦時中(昭和18年)に、すでにそんな指摘がなされています。
近頃はこうして集まって遊ぶ風はきわめて少なくなったという。子供たちは学校での成績を争うようになってから、家のあがり口に鞄を投げ出しておいて遊びに行く者はほとんどいなくなった。それよりは少しでもよい成績を得たいと、帰ってくれば静かに本を読む子が殖えた。【5】
子供は親の影響を受けますから、まず親たちが学校の勉強を大事がるようになったのでしょう。宮本は「学校から帰っても父母の仕事の手伝いをする子供は少なくなった」と書いています。
われわれの子供の折までは、理にかなわぬこと、村の生活にそむくことをすれば、独り自分の親のみならず村人のだれでも子供をたしなめかつ叱責して怪しまなかった。親もまたこれを当然とした。しかるにいつか他家の子を叱れば、その親がかえって怒るようにまで変ってきた。子供を叱ることの許されているのは学校の先生と巡査と親だけになってきた。子供をおどす文句が「先生に言いつける」であり、「巡査が来る」がこれを物語る。【5】
宮本常一は、明治から大正にかけての故郷の小学校の先生の変化について、こんな話を記しています。
私たちの故郷では昔の学校の先生はたいてい郷里出身の人であって、村塾以来の気風をのこしていた。…われわれ百姓との間に距(へだた)りも少なくて親しみを覚えた。…こういう先生はまた家へかえっても百姓の手伝いなどしているので、大してわれわれとも変らなかった。いたってのんきであって、われわれの日常生活がほとんど肯定せられていた。【5】
しかし「師範学校出身の先生が多くなる頃から教育が一新してきた」と宮本は書いています。
師範学校というのは、いまの教育大学ですが、学歴の高い先生が増えて、どう変わったか。
他所(よそ)からの先生が多くなってきた。また村の生活に対しても批判が加えられてきた。ただこの人びとと村人との間に何かそぐわないものができた。それは村里の生活を本当に理解してくれないことが大きな原因のようであった。
先生たちは教えようとすることだけ教えて、村の生活を真剣に考えてくれる場合が少なかった。むしろ一概に旧弊としてつきくずすようになった。これが家庭教育者としての母親の権威を失わしめたことは大きかった。【5】
昔ながらの価値観を大切にする村人と、上からの近代的な教育の対立・葛藤ですね。学歴のない親たちは、社会の変化のなかで子供をどう教育したらいいのか迷い、自信をなくしたことでしょうね。
それまで村の子どもは親だけでなく、年寄りや子ども仲間、村人たちによって育てられていましたが、近代化によって教育の主導権が次第に学校へと移され、師範学校出の先生に握られていきました。
先ほどの「先生に言いつけるよ」という子どもへの脅しは、その帰結ですね。宮本も若い頃、小学校の先生をしていましたが、教育の効果が上がらずに苦悩したようです。
子供の性癖や嗜好すなわち個性といわれるものは先天的なものもあるけれども、その村の性格や家風によるもの、言いかえれば家および村の生活の反映によるものもまた多い…
郷党の希求するところや躾(しつけ)の状況が本当に分らないと、学校の教育と家郷の躾の間にともすれば喰違いを生じ、それが教育効果を著しく削いでいることを知ったのである。
民俗学という学問を、趣味としてでなく痛切な必要感から学びはじめた動機はこの苦悩の解決にあったのだが、いつかその学問を教壇の上に生かすことはしなくて、教壇はすてて学問に専心するようになってしまった。【5】
今の先生は、地域や家庭のしつけと学校教育のくい違いに悩むよりも、中央から下りてくる指導や業務に振り回され、やりたい授業計画を立てる時間がない。そんな話を聞きます。
近代化で失われたものは多いですが、宮本のいう明治以来の「立身出世主義」は若者たちを都市へ、中央へと引き寄せ地域から多くの人材を奪い去りました。
中央と地方の話は、別の機会に譲るとして、さて、宮本先生はどんな授業をしていたのか。
私は体操や図画や唱歌の時間を利用して子供たちを連れてよく校外へ出た。そして丘の上であそんだ。私の生涯の中でこんなにのびのびとたのしかったことはなかった。【3】
今の人が聞くと信じられないでしょうね。「学力が下がったらどうしてくれる!」と、立身出世主義(≒成績主義)の親からクレームがくるかもしれません。笑
実は、宮本の勤めていた小学校の校長は、師範学校はおろか小学校を出ただけで検定試験によって校長になった人物でした。
先生たちを束縛するようなことをせず、「子供はできるだけのびのびと育てるのがよいと日課表などにこだわらずに教育するように」【3】と言うような方で、行政(学務部)からの文書にもたいしてこだわらない校長だったとか。現場の先生の自由裁量にまかせたんですね。
宮本の家には子供たちが毎晩のように押しかけ、休みの日には、村から10キロくらいの範囲を子供たちと歩き回っていたそうです。
「小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたりあそんだりできなくなる。いそがしく働いて一いき入れるとき、ふっと、青い空や夕日のあたった山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる」子供たちによくそんなふうに話した。【3】
卒業すると、学校で習った勉強なんてほとんど忘れてしまうものですが、宮本常一は、自分の子供のころの経験から、生きる力となるもっと大切なものがあると確信していたのでしょうね。
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