今回は1960(昭和35)年に発表された宮本常一の代表作『忘れられた日本人』を取り上げたいと思います。
宮本常一の評伝『旅する巨人』(第28回大宅賞受賞)を書いた佐野眞一は、そのあとがきのなかで、中学生のときに読んだ『忘れられた日本人』の読書体験を次のように述べています。
世の中は安保闘争で激しくゆれ動いていた。その一方で、日本の経済は確実に高度成長に向かってひた走っていた。だが、『忘れられた日本人』のなかの愛惜こもる話には、安保も経済成長も影すらなかった。幼い読解力で全部理解できたとは思わなかったが、私はその"反時代性"に圧倒された。そこには、近代化によって忘れられた辺陬(へんすう)の地の人々の身体と生活の記憶が、驚くべき平易さと深さをもって描かれていた。何よりも、いま目の前で人々の息づかいが聞こえるような描写力に打ちのめされた。【2】
なぜこんな本が生まれたのか。社会の流れから置き去りにされ、忘れ去られた日本人の話にじっと耳を傾け、それを淡々と記録した宮本常一の学びのスタイル、その問題意識を共有しておきましょう。実は宮本は、自伝的作品のなかで「昭和三十年頃から民俗学という学問に一つの疑問を持ちはじめていた」【3】と回想しています。
いわゆる民俗的な事象をひき出してそれを整理してならべることで民俗誌というのは事足りるのだろうか。神様は空から山を目じるしにおりて来る。そういうことをしらべるだけでよいのだろうか。なぜ山を目じるしにおりて来るようになったのだろうか。海の彼方からやってくる神もある。土地そのものにひそんでいる精霊もある。
それらはわれわれとどのようなかかわりあいを持っているのであろうか。さらにまたいろいろの伝承を伝えてきた人たちは、なぜそれを持ち伝えなければならなかったのか。それには人びとの日々いとなまれている生活をもっとつぶさに見るべきではなかろうか。【3】
情報を集めて整理し分類する調査を続けるだけでよいのか。生活と切り離された学問的知識をただ積み上げてゆくだけでよいのか。宮本にはそんな問題意識があったようです。
旅の中でいわゆる民俗学的なことよりもそこに住む人たちの生活について考えさせられることの方が多くなった。人々の多くは貧しく、その生活には苦労が多かった。苦労は多くてもそこに生きねばならぬ。そういう苦労話を聞いていると、その話に心を打たれることが多かった。
そうした人びとの生きざまというようなものももっと問題にしてよいのではないかと考えることが多かった。つまり民俗的な調査も大切であるが、民衆の生活自体を知ることの方がもっと大切なことのように思えてきたのである。【3】
書物の上だけではなく、実際に全国を旅し、人に会って話を聞き、彼らの生活について考え、伝え歩くのが宮本常一の方法でした。そんな宮本にとって学問とは何だったのか。
学問をするということも、人が人を信頼する関係をうちたてていくためであり、どのようにすれば安んじて生活していくことができるかを見つけていくためのものであると思う。【3】
残念なことに、今では学校の勉強は「自分のため」にするものとなり、学問のあるなしによってかえって人々が分断されてしまっています。宮本は、そんな閉塞的な文明社会のなかで見向きもされなくなった人々の生きざま、社会の周縁に生きる「忘れられた日本人」を歴史の舞台に浮び上らせました。
世の中のアウトサイダーとして生涯を歩きつづけてきた人、おそらく最後は誰の印象にも残らないように消えていったであろうと思うその人にも、人間として生き、しかもわれわれよりは深いところを歩いた過去があり、多くの考える問題を提供してくれる生きざまがあったのである。【3】
宮本常一に出会うことがなかったら、自分の学問的な方法は生まれていなかったと語る歴史学者、網野善彦が『忘れられた日本人』の解説文を書いています。
それは心のこもった庶民の「生活誌」であるとともに、強烈な個性を持つ宮本氏の民俗学の、最も密度の高い結晶であった。…これらの文章からなにを学びとるかは、もちろん読者によってさまざまであろう。しかしこれは一回で読み捨ててしまう書物ではなく、繰返し読まれうるだけの生命力を十分に持っており、おそらくその度に読者は新たなものを得ることができると思う。その意味で本書は、宮本氏の最高傑作の一であるとともに、最良の文献民俗資料といってよかろう…。【4】
何度読んでも、新しい発見がありますし、歴史の教科書とは違った面白さがあります。
たとえば宮本は、対馬の浅藻に住む80歳過ぎの梶田富五郎翁を訪ねています。梶田翁は、宮本と同じ山口県の周防大島の久賀出身で、明治9年(7歳のとき)に対馬にやって来たそうです。
どうしてここへ来たちうか。それはな、久賀の大釣※にはメシモライというて――まァ五つ六つ位のみなし子を船にのせるならわしがあって、わしもそのメシモライになって大釣へのせられたのじゃ。生まれてはじめてメシモライで乗った船がいきなり対馬へ行くんじゃから、子供心にたまげたのう。【4】
※大釣:5〜6人が乗る大型の漁船
今なら、小学校に入学する前の小さな男の子が瀬戸内海の大島から、いきなり対馬へ乗せていかれるということです。聞いてるこちらも、たまげます。
その後、富五郎くんは一人前の漁師になります…。
魚もよう釣れたもんじゃ。まァ一日にタイの二、三十貫※も釣って見なされ、指も腕も痛うなるけえ。それがまた大けな奴ばっかりじゃけえのう。
※1貫は3.75kg、30貫は112.5kg。
ありゃァ、かかったぞォ、と思うて引こうとするとあがって来やァせん。岩へでもひっかけたのかと思うと糸をひいていく。それを、あしらいまわして機嫌をとって船ばたまで引きあげるなァ、容易なことじゃァごいせん。きらわれた女子(おなご)をくどくようなもので、あの手この手で、のばしたりちぢめたり、下手をしたら糸をきるけえのう。
そのかわり引きあげたときのうれしさちうたら――、あったもんじゃァない。そねえなタイを一日に十枚も釣って見なされ、たいがいにゃァええ気持になる。晩にゃ一杯飲まにゃならんちう気にもなりまさい。
そういう時にゃァ金もうけのことなんど考えやァせん。ただ魚を釣るのがおもしろうて、世の中の人がなぜみな漁師にならぬのかと不思議でたまらんほどじゃった。【4】
こんなふうに自分の仕事について語れるというのは幸福なことですね。
あと、海の中にある石を二艘の船で一つずつ運んで、港をひらく話も凄かった。
潮がひいて海の浅うなったとき、石のそばへ船を二はいつける。船と船との間へ丸太をわたして元気のええものが、藤蔓(つる)でつくった大けな縄を持ってもぐって石へかける。そしてその縄を船にわたした丸太にくくる。潮がみちてくると船が浮いてくるから、石もひとりでに海の中へ宙に浮きやしょう。そうすると船を沖へ漕ぎ出して石を深いところへおとす。船が二はいで一潮に石が一つしか運べん。
しかし根気ようやっていると、どうやら船のつくところくらいはできあがりやしてのう。みんなで喜うでおったら大時化(しけ)があって、また石があがって来て港はめちゃめちゃになった。こりゃ石の捨場がわるかったのじゃ、もっと沖の方へ捨てにゃァいかんということになって、今度はずーっと深いところまで持っていって捨てやした。そりゃもう一通りの苦心じゃァなかった。
わしら子供じゃからみておるだけじゃったが、ようやるもんじゃと子供心に感心したもんよの。それがあんたァ、魚を釣りに出る合間の仕事じゃから……。【4】
考えてみれば、港だけでなく、一枚の田にも、段々畑にも、山路にも、必ず人間の手が加わっているわけで、そこには昔からの人々の生活があり、歴史があったわけですね。
やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす。…はァ、おもしろいこともかなしいこともえっとありましたわい。しかし能も何もない人間じゃけに、おもしろいということも漁のおもしろみぐらいのもの、かなしみというても、家内に不幸のあったとき位で、まァばァさんと五十年も一緒にくらせたのは何よりのしあわせでごいした。
だいぶはなしましたのう。一ぷくしましょうかい。【4】
大阪の河内長野の山村に暮らす古老は、12歳のときに、明治維新を体験したそうです。私たちは教科書でしか知りませんけど、実際のところ、一般の庶民はどう感じていたのでしょうか。
村の者のほとんどが字を知らぬということで、どれほど損をしたかわからぬ。明治八年に地租改正ということがあった。いままで米で納められていた年貢が銭になるのだというので、土地から何からしらべあげられたが、その時野山(のさん)が官有林になったことを知った者は一人もなかった。【4】
もともと農村では野山を共有地として、薪をとったり村全体で管理していましたが、明治時代にその多くが国有林にされてしまいました。
これはどこの村も同じことで、字を知らなかったおかげで、みなこづきまわされてきたのである。…弁護士はそのころ三百代言※といった。法律をたてにとってウソばかり言ってみんなからお金をまきあげた。…
※三百代言:わずかな報酬で詭弁を弄する弁護士の蔑称。
(明治)三十年をすぎてやっと世間のことがわかるようになった。その時は村人はすっかり貧乏になっており、字を知っている者だけが、もうけたり、よいことをしたりしていた。字を知らぬ人間はだまされやすかった。【4】
宮本は、文字のない世界に生きる人間について、隣人を愛し、どこか底ぬけに明るくて、「間のぬけたような気らくさと正直さがあった」と記しています。
また、村の老人たちへの聞き書きのなかでとくに驚かされるのが
“性”の習俗です。
たとえば、聖徳太子の廟がある村での「太子の一夜ぼぼ」と呼ばれる行事は…。
ここに旧四月二十二日に会式(えしき)があって、この夜は男女共に誰と寝てもよかった。そこでこの近辺の人は太子の一夜ぼぼと言ってずいぶんたくさんの人たちが出かけた。…そのぞめきの中で男は女の肩へ手をかける。女は男の手をにぎる。すきと思うものに手をかけて、相手がふりはなさねばそれで約束はできたことになる。女の子はみなきれいに着かざっていた。そうして男と手をとると、そのあたりの山の中へはいって、そこでねた。これはよい子だねをもらうためだといわれていて、その夜一夜にかぎられたことであった。…
ずっと昔は良家の娘も多かったが、後には柄のわるい女も多くきた。この時はらんだ子は父なし子でも大事に育てたものである。翁も十五になったとき、この一夜ぼぼへいって初めて女とねた。それから後もずうっとこの日は出かけていったが、明治の終頃には止んでしまった。
ところが明治元年には、それがいつでも誰とでもねてよいというので、昼間でも家の中でも山の中でもすきな女とねることがはやった。それまで、結婚していない男女なら、よばいにいくことはあったが、亭主のある女とねることはなかった。そういう制限もなくなった。
みなええ世の中じゃといってあそんでいたら、今度はそういうことをしてはならんと、警察がやかましく言うようになった。【4】
笑ってしまうほど、おおらかですね。
愛知県の三河の山中、旧名倉村の古老は明治の頃の“よばい”の思い出話を、あけっぴろげに語っています。ただ、宮本が訪れた昭和30年頃にはもうよばいの噂もなくなっていたようです。
はァ、申すまでもなく、よばいは盛んでありました。気に入る娘のあるところまではさがしにいって通うたものであります。しかしなァ、みながみなそうしたものではありません。一人一人にそれぞれの性質があり、また精のつよいものはどうしても一人ではがまんができんという者もあります。あっちの娘のところへ通うた、こっちの娘のところへ通うたというのがあります。しかし、みな十六、七になると嫁に行きますから、娘がそうたくさんの男を知るわけではありません。よばいを知らずに嫁にいく娘も半分はおりましたろう。
若い者がよけいにかようのは、行きおくれたものか、出戻りの娘の家が多かったのであります。はいはい、よばいで夫婦になるものは女が年上であることが多うありました。それはそれでまた円満にいったものであります。
はい、男がしのんでいっても親は知らん顔をしておりました。あんまり仲ようしていると、親はせきばらい位はしました。昼間は相手の親とも知りあうた仲でありますから、そうそう無茶なこともしません。【4】
こうした習俗がフツーだった事実を知ると、社会の見方が広がります。
『忘れられた日本人』には、田植えの時の女性同士のエロ話なども記録されていますが、実に明るく、あっけらかんとしたものです。
「わしゃ足が大けえてのう、十文三分をはくんじゃが……」
「足の大けえもんは穴も大けえちうが……」
「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」
「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」
「穴が大けえと、埋めるのに骨が折れるけに」
「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいて……」
「またあがいなことを……」【4】
性的な事柄に対するタブー視が広がったのは近代に入ってからで、学校教育によって都合の悪いことは隠され、昔の日本人の姿は次第に忘れられました。
先ほどの田植えの早乙女たちは、今じゃモンペをはいて田植えをするので、下からのぞく田の神様は面白くないだろうとそんな話をしていました。
「やっぱり、きりょうのよしあしがあって、顔のきりょうのよしあしとは違うげな」
「そりゃそうじゃろうのう、ぶきりょうでも男にかわいがられるもんがあるけえ……」
「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで……」
「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」
こうした話が際限もなくつづく。
「見んされ、つい一まち〔一枚〕植えてしもうたろうが」
「はやかったの」
「そりゃあんた神さまがお喜びじゃで……」
「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」【4】
こういう和気あいあいとした中でのワイ談を聞くと、昔も今も人間てのは変らないなぁと思ってしまいます。人によっては下品とか、不快に感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、もう少し“よばい”の話を続けます。
|