須賀敦子のメモワール。(01)
須賀 敦子(すが・あつこ :1929−1998 )
たましいの奥に、まっすぐ届く。

≪夜、駅ごとに待っている「時間」の断片を、
夜行列車はたんねんに拾い集めては
それらをひとつにつなぎあわせる≫
 【1】

今回とりあげる作家は、須賀敦子。彼女の作品の主役は「記憶」である
といえるほど、数冊の美しいメモワールを残した作家です。
まずは、簡単なプロフィールから。

【須賀敦子】:1929(昭和4)年、兵庫県芦屋生まれ。16歳で終戦を迎える。小中高大一貫のミッション・スクールを卒業後、1953(昭和28)年よりパリ、ローマへ留学。その後、ミラノで書店に勤めるイタリア人と結婚。夫の死後帰国し、大学で教鞭をとる。1990年に初の作品集『ミラノ 霧の風景』で女流文学賞を受賞。生前に5冊の作品を発表して1998(平成10)年に逝去。その後も数冊の著作が編まれる。

ミッション系のお嬢様学校を出てヨーロッパに留学。イタリア語が堪能で翻訳もこなす女流作家。と聞けば、「まぁ、素敵ねぇ…」とあこがれる方と、「ちっ、関係ねぇ…」と思う人に、はっきり分かれてしまう気もしますが、どうでしょうか。

池内紀(いけうちおさむ):…須賀さんのお名前はぜんぜん知らなくて、『ミラノ 霧の風景』というタイトルが、若い女の子が留学して一年か二年して「霧の素敵なミラノ……」というような感じだったから、しばらく読んでいなかった。ずっと置いてた。送ってくれた編集者が「池内さん、読みましたか」と聞いてきたから、「いや、まだ。若い女の子の何とかみたいだし……」というと、ぜんぜんそういうのじゃないから、ぜひ読んでくれという。それで、すぐに読みだしたら、とっても素敵な本だった。気がつくと部屋が暗かった。そのときのことは、よく憶えていますね。【2】

デビュー作の『ミラノ 霧の風景』が刊行された頃はバブル全盛期で、『マリ・クレール』のような女性ファション誌が、よくそんなタイトルの特集を載せていたので、単なるオシャレな記号として消費される面もあったかも知れません。しかし、この作品は若い女の子の素敵な留学エッセイなどではなく、デビューしたとき、須賀さんはすでに61歳でした。

純粋な時間として考えると、六十年の人生のなかの十三年は、さして長い時間ではないかも知れない。しかし、私にとってイタリアで過ごした十三年は、消し去ることのできない軌跡を私のなかに残した。二十代の終りから、四十代の初めという、人生にとって、さ、いまだ、というような時間だったから、なのかもしれない。【3】

私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思いだしたり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。十一年暮らしたミラノで、とうとう一度もガイド・ブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった。【4】

ガイド・ブックをたよりに観光名所を巡るような留学ではなく、
フェイスブックに写真を載せるような旅でもなかった。

須賀敦子の作品は、どう評価され、どんな風に読まれているのか?
名だたる作家の方々が寄せた文庫本の「解説」の言葉を引用してみます。

『ミラノ 霧の風景』1990 解説:大庭みな子
須賀敦子の名前はそれまで聞いたこともなく、その人の作品が話題を集めていたこともなく、もちろん私は一作も読んだことがなかった。しかし、「ミラノ 霧の風景」は突然霧の中からみずみずしく立ち上がってきた。深い霧の中にいったい何が畳み込まれているのか。頁ごとに読者は立ちすくむ思いがする。【3】

『コルシア書店の仲間たち』1992 解説:松山巖
『コルシア書店の仲間たち』は哀しい物語でもある。一人一人がやがて年老い、或る者は死に、別の者は自分の生きる場所を求め、それ故に別れて行くからである。けれど、作者が友人たちを一人ずつ、石を刻むように丹念に描き得たのは、友を友として認め得たからである。たとえ土地を遠く違えようとも、また死別しようとも、自分の記憶のなかで友人一人一人が息づいているからである。記憶は過去のものではない。私たちは生きて行くなかで記憶を育み、記憶と共に生きる。【4】

『ヴェネツィアの宿』1993 解説:関川夏央
彼女は、戦前的な由緒正しい教養の筋目をはずれることなく、またいたずらに文学を疑う流行からも身を避けて、修道女マリ・ノエルの言葉のごとく、自分のカードをごまかさずに自分のなかの日本を育てることができたのである。登場したそのときからすでに完成された作家であった須賀敦子は、わずか八年間だったが「うかうかと人生をついやす」気配などみじんも見せず、旺盛な創作意欲を示しつづけて珠玉のごとき作品群を産み落とした。【5】

『トリエステの坂道』1995 解説:湯川豊
須賀さんの文章を読んだ多くの人が、文章の趣味のよさを感じるだろう。あの趣味のよさは、自分のなかに気むずかしい批評家をかかえていることの、ひとつのあらわれだと思われる。趣味のよさはまた、資質ということもあるだろうが、いっぽうではただならぬ読書量がそれを醸成していったに違いない。こういう人はかんたんに書くことができないだろうし、書いたときは高い完成度をもつ「大家」になる。そういう事情が須賀さんの出現には働いていた。【6】

『ユルスナールの靴』1996 解説:川上弘美
世界を愛し、世界に手をさしのべ、世界にも愛された、そういう作家の書く豊かな文章を、だからわたしはその厳しさにうちひしがれながらも、うちひしがれたその気持の数十倍もの歓びをもって、何度でも読み返すのである。…世界を受け入れる、その過程がなだらかに描かれた本書はだから、たましいをつつみこんでくれるような柔らかさをもち、同時にたましいの奥にまっすぐ届くような強靭さをもそなえた、本なのである。【7】

スゴイですね。みなさんベタぼめです。
ま、文庫の解説とはそういうものですけど、あらためてもう一度読み返したくなります。

ここでは須賀さんのテキストを使い、彼女の「記憶」をモデルにしながら、
大人になるとはどういう体験なのか、
“ことば”と成熟のプロセスに着目して編み直してみたいと思います。

60歳を越えてから次々と作品を発表し、プロの作家たちをも驚かせ魅了した須賀敦子は、登場したときからすでに「完成された作家」と呼ばれました。
なぜそのような作品群を生み出すことができたのでしょう。

◆でも、どれがいったい線路なのか。

そもそも「完成」とは、どういうことなのでしょうか。
この文章は美しいとか、この作品は深いとか、いったいどうしたらわかるのか。
須賀さんが通った寄宿学校のマイヤー院長は、こんなふうに語っています。

「どうすれば、この本は深いとか深くないとかわかるようになるのですか」

ふぉっふぉっふぉっと彼女は笑った。そして編物をやめて、私の片手を綿入れのようにふくよかな自分の両手ではさんで、言った。

いい音楽をきいたり、本をたくさん読んだり、いい絵をみたり。そのうちにだんだん」A little by little.というのを、彼女は、ア リーテル バイ リーテルとつよいドイツなまりで発音した。【5】

◆「A little by little.(そのうちにだんだん)」

「なぜ、どうすれば」と、私たちはせっかちに正解を求めてしまいがちですが、答えが見つかるまでには、長い時間が必要なこともあります。成熟とは、そういうことです。

自分の幸いを見つけようとして、人は言葉を紡ぐ。
そして、その手がかりはいつも自分の「記憶」のなかにある。

須賀さんの語る思い出、時間のトンネルをさかのぼっていくと、そのはじまりで輝いているのは、幸福な子ども時代の記憶です。これが実にいきいきと魅力的で、こちらまで同じ経験をしたかのような気分になります。では「本に読まれていた」と振り返る須賀さんの記憶をたどっていきましょう。

おまえはすぐに本に読まれる。母はよくそういって私を叱った。また、本に読まれてる。はやく勉強しなさい。本は読むものでしょう。おまえみたいに、年がら年中、本に読まれてばかりいて、どうするの。そんなふうに、このことばは使われた。それからずっとあと、母がもう私たちを大いばりで叱らなくなってから、じつは若かったころ、自分も同じことばで母親に叱られたのだというのを聞いて、なあんだと笑ってしまった。【8】

物語の世界に入り込んで、夢中になってしまう子ども。今ならマンガやアニメの世界でしょうか。子どもが本好きになってほしいと願う親は多いと思いますが、夢中になりすぎるのも、親としては心配なのかもしれませんね。

須賀さんの場合、子どものころに読んだ本の思い出は、父母の記憶とも重なっているようです。

「山のあなた」カアル・ブッセ

山のあなたの空遠く
「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
ああ われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみかへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
  【9】

◆だれでも、そんなものなのよ。

「山のあなた」をはじめて読んだのは、小学校の国語の教科書でだったような気もする。私が「山のあなたに」と口ずさんだとき、そばにいた母がすばやくそれに唱和したのに、びっくりしたことがあった。こんな詩をどうしてママ知ってるの? とたずねると、そんなぐらい、と母は笑って、ちょっといばった顔をしてから、まるでお経みたいに、カール・ブッセ、上田敏訳というと、おわりまで、そらですらすらといった。

「さいわい」を探しに遠いところまで山を越えて行った人がいる。でも、どういうわけか「さいわい」を見つけることはできなくて、「涙さしぐみかへりきぬ」という、なんだかきのどくな詩なのよねえ。母はそんなふうに説明してくれたが、母と詩の話をするのはめずらしかった。涙さしぐみって、どういうことなの? 私が訊ねると、母は、それは泣きそうになって、という意味よ、としごく簡単にこたえた。ふうん、ずいぶんかわいそうな人だねえ、と同情する私を見て、母は、そうよ、でも、だれでも、そんなものなのよ、と笑った。でも、なにがそんなものなのか、小学生の私にはわからなかった。【8】

須賀敦子は後に、自分の生き方「さいわい」を探しに、海を越えて遠いヨーロッパまで留学することになります。しかし、小学生のアツコちゃんに将来のことなどわかるはずもなく、「だれでも、そんなものなのよ」と笑う母の言葉がしみじみとわかるのは、ずいぶん先のことです。

一方、父親からもらった『平家物語』について、こんな感想を記しています。

いちばんこころを動かされたのは、大原御幸のくだりだった。とくに、後白河院が建礼門院※と悲しい思い出話をするという物語そのものが、私をあの透明な悲しみの世界にすっとさそいこみ、何日も、たぶん何年も、小学生なりの寸法でしかなくても、私は平家の滅亡を、この本のなかでかぎりなく哀しんだ。【8】

※建礼門院(けんれいもんいん):清盛の娘、安徳天皇の母。壇ノ浦で身を投げたが源氏に引き上げられ後に出家。

平家の滅亡を哀しむ小学生…。
ずいぶん早熟な気もしますが、子どもの感受性を甘く見てはいけません。そういえば、私が小学生のころ(1970年代)には、『源氏物語』とか『ベルサイユのばら』を読んでいた同級生の女の子がいました。

学校で読本を読ませられるのは、たいくつできらいだったけれど、ベッドで妹に読んで聞かせるのは、おもしろかった。ほんとうにいやなとき、妹は、両耳に指をつっこんで栓をすると羽根枕の下に頭をうずめて、聞くまいとした。そのころ、ラジオで聞いた落語に、義太夫じまんの家主がいて、自分の語りを聞け聞けとうるさくてしかたがない、あまりのうるささに店子は土蔵に逃げこむのだが、家主は窓にしがみついて、中にいる店子の頭の上から「語りこんだ」という話があった。「語りこまれた」店子は苦しんで「七転八倒」するのだが、それを聞いていた妹は、わっ、おねえちゃんみたい、と口をとがらせた。【8】

お、これは落語の「寝床」ですね。
アツコちゃんは子どもの頃から a little by little さまざまなジャンルの作品に親しんできたようです。

翻っていま、文学や古典作品に限らず、マンガやアニメ、映画などさまざまな「物語」があふれています。若者たちは、魅力的なコンテンツを消費することに忙しく、なかなか成熟のきっかけがつかめないでいるようです。

◆脱線しないようにしよう。

教室であの子はいつも気を散らしています。母が学校の先生に会いに行くと、いつもそういわれて帰ってきた。どうして、ちゃんと先生のいうことを聞いてられないの?母はなさけなさそうに、わたしを叱った。聞いてないわけじゃないのよ。わたしにも言い分はあった。聞いてると、そこからいっぱい考えがわいてきて、先生のいってることがわからなくなるの。そういうのを脱線っていうのよ。お願いだから、脱線しないで。

脱線しないようにしよう。わたしは無駄な決心をした。…

…自分はほんとうに脱線が好きなんだろうか。それから、こう思った。わたしのは脱線というのとはすこしちがう。線路に沿って走らないと、思考と思考はつながらない。それくらいなら、わたしにだってわかる。つなげることがまず大切なのだということぐらいは。
でも、どれがいったい線路なのか。
【1】

笑ってしまいました。
子どものころって、きっと誰でもそうですよね。想像力が旺盛で、どんどん脱線してしまう。「脱線するな」と言われても、どれが線路なのかわからない。

点と点を結ぶことで「線」になるのですが、子どもには(いや、大人であっても)何と何を結びつけたらいいのか、よくわからない。後で振り返ってみたときに、運命のように点と点とがつながったように思える。人生って、だれでもそんなものだから。

いったい私は、どこへ向かえばいいのか。
個という1つの点が、別の点と結ばれるとはどんな経験なのでしょうか。

◆よくわからないけど、すごいねえ。

子どものころから「本に読まれて」いたと回想する須賀敦子。
自分が楽しむだけでは飽き足らず、夢中になった本を学校にもっていき、おもしろいから読んで、読んでと友人にすすめて回る女の子だったとか。

じぶんの好きな本を、じぶんだけでなくて、友人にも読んでほしいと思う、そのことだけに夢中で、好きでもない本を読まされる人間(最大の犠牲者はひとつちがいの妹だった)の苦痛は想像もしたことがなかった。ところが、読んで、読んでといい歩いているともだちが、もうひとりいた。それがしげちゃん※だった。【8】

※しげちゃん:他の作品では「しいべ」「ようちゃん」とも記される。

こんな“おせっかい”な友だちのおかげで世界が広がり、人生が豊かになるわけですね。本に限らず、マンガであれ音楽であれ、何であれ、自分の好きな趣味というのは、「他者」とつながるための道具のようなものです。(ちなみに、現代における細分化された趣味への引きこもり状態が“オタク”ですね)

須賀さんにとって、好きな本について存分に語りあえる友だちはかけがえのないものでした。

どちらも本が好きだとわかってから、私たちは急速にしたしくなった。それは、悪いあらしのような反抗期をようやく抜けだして、やっとじぶんとの和解の道がみえてくる年齢に達したということにすぎなかったのかもしれないのだが、本のことを彼女みたいに話せる友人には、東京にいた八年のあいだひとりも会わなかったから、私はようちゃん※と出会えたことを、<やっぱりもといた学校はいい>と考えて、ほっとしていた。【6】
※ようちゃん:しげちゃん(しいべ)のこと。

とくに親しい友だちは、人が成長する過程でとても重要なカギを握るように思えます。親と子、師と生徒といった権力の関係ではなく、はじめて自由で対等な立場で出会う他者。
とても気が合うし、自分とよく似ているけれど、自分にはないものを持っている。自分とまったく別の人間なのに、お互いに理解しあえる(気がする)他者。

そんな他者と出会い、幸福な時間を共有することが「点」と「点」がつながるという体験なのかもしれません。そんななかでも特別に輝いている点があったりします。

当時の私は、自分も周囲もごまかそうとして、ふだんはふざけてばかりいたのだけれど、しいべといっしょのときだけは、真剣に人生や戦争や宗教の話をした。【8】

背伸びした難しいテーマも、他愛のない会話も、何でも臆せずに話せる友だち。どんな言葉も受けとめてくれ、上手に投げ返してくれる友だち。そんな友だちは、生涯になかなか出会えるものではありません。

ようちゃんの話を聴いていると、いろいろなことをもっとわかるようになりたいという欲望がふつふつと湧いて、あたま、というのか、精神が丈夫になる気がした。
 むろん、ときには、ようちゃんが、なまいきだなあ、と気にさわる日もあった。読んだ本の著者をいばってけなしたりするときなどがそうで、<本を書く人は、わたしたちとは比べられないほどえらいのだ>と思いこんでいた私には、ようちゃんの自信満々な態度がなまいきにみえて、すんなりと受け入れられなかった。それでいて、積み木の三角と四角を組みあわせるみたいに、こわがらないで、自由に、考えのかたちを変えてみせる彼女が、私はうらやましかった。
【6】

親や世間の求める常識やレールに縛られず、いつも知的な刺激を与えてくれる友だち。その考え方や精神の自由さを、驚きとともに素直に認めることのできる関係が、うらやましいですね。こんな友だちといっしょなら、きっと“脱線”するのも楽しいはず。

ただし「自由」といっても、須賀さんが通っていたのは厳格なミッション・スクール。しかも10代の少女時代を過ごしたのは戦時中のこと。シスターは収容所へ、生徒は工場へ勤労動員に送られた時代です。それを思えば、今の私たちが考えるよりもずっと「自由」というものが輝いていたことでしょう。

いまでいう中学校の一、二年だった私たちまでが、勤労動員という名のもとに、勉強をそっちのけにして工場に狩りだされた時代だった。空襲がまもなくあるだろう、そして、それが私たちひとりひとりの死につながることになるかも知れないと言われても、現実感は皆無にひとしかった。朝、家を出るとき、行ってまいります、今日、空襲で死ななかったら、夕方に会おうね、と挨拶して、母が青ざめたのに笑いころげるほど、死は私たちの感覚から遠かった。【8】

今の日本では、空襲で人が死んだりしませんが、中学一、二年生のころの現実感って、今も昔もそんなものかも知れません。自分たちの進んでゆく先に“死”が待っているなんて言われてもピンと来ない。現実が見えていないということは、まだ子どもであることが許されているということです。

そんなある日、親友の口から洗礼を受けると打ち明けられてビックリ!

じぶんにとって大切な友人のようちゃんが、K先生と教理の勉強をしているばかりか、春には洗礼を受けてカトリックになると聞いて、胸の底がどきんとした。どうしてまた、いまのこんな時代に、ようちゃん、そんなこと考えたの?時代とは関係ないよ。そういって、彼女は老人みたいにしわっと目をつぶった。自分の考えに自信があるときの、それは、彼女のくせだった。だいじなのは、じぶんがどう生きたいか、なんだから。いろんな本を読んでいるうちに、やっぱり洗礼を受けようと思ったのよ。へええ、私はもういちど、うなった。よくわからないけど、すごいねえ。ようちゃんは茶色い目をきらきらさせて、息をぐっとすいこんでから、うれしそうに笑った。【6】

現実とは、このように告げ知らされるものなんですね。
自分の生き方を選んだ友人。ずっと一緒にはいられないという、あたりまえの現実。「よくわからないけど、すごいねえ。」としか言えない自分って、いったいなんなのか。自分の選ぶべき道は?

子どもの時間が終わってしまう喪失感、おおげさにいうと、“危機の意識”は、自分をささえてくれる「言葉」を切実に求めさせたことでしょう。

◆バースデイ・ブックに残された親友の言葉

自分の生まれた日に署名だけというのがほとんどの中で、彼女は、まるっこい、すこしえらぶって変体仮名※をまぜたりした特徴のある字体で、名前のまえにこんなことを書いている。

個性を失ふといふ事は、何を失ふのにも増して淋しいもの。
今のままのあなたで!

          一九・一〇・一二

そのまんまでいい。尊敬していた しいべがそう書いてくれたことは、どちらを向いても、変ってる、といわれつづけて頭の上がらなかった私には、このうえなくありがたかった。しいべだけはわかってくれてる。【8】

※変体仮名:「平仮名」以外の漢字をくずした仮名。

今ならLINEやツイートで友だちとメッセージを送り合うといったところでしょうか。ただ、どんなにSNSでつながる友人が多くても、それは成熟の問題とは関係がありません。むしろ成熟とは、自己との対話から始まるものだからです。

というわけで、次回は須賀敦子の思春期、とくに人生の指針となる「ことば」との出会いについてです。

(02)へつづく
<引用したTEXT>
【1】須賀敦子「となり町の山車のように」
  『文藝別冊 追悼特集 須賀敦子』河出書房新社
【2】対談:池内紀×松山巌「記憶が言葉を見つけた時」
  『文藝別冊 追悼特集 須賀敦子』河出書房新社
【3】須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水Uブックス
【4】須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』文春文庫
【5】須賀敦子『ヴェネツィアの宿』文春文庫
【6】須賀敦子『トリエステの坂道』新潮文庫
【7】須賀敦子『ユルスナールの靴』白水Uブックス
【8】須賀敦子『遠い朝の本たち』ちくま文庫
【9】『上田敏全訳詩集』岩波文庫
【10】A・M・リンドバーグ『海からの贈物』
   吉田健一訳 新潮文庫
【11】『須賀敦子全集 第5巻』河出文庫
【12】森まゆみ「心に伽藍を建てるひと  須賀敦子の人生」
  『文藝別冊追悼特集 須賀敦子』河出書房新社
【13】『須賀敦子ふたたび』河出書房新社
【14】丸山猛「須賀さんは『パワフルな子供』だった」
  『文藝別冊 追悼特集 須賀敦子』河出書房新社
【15】鈴木敏恵「哀しみは、あのころの喜び」
  『文藝別冊 追悼特集 須賀敦子』河出書房新社