◆夫ペッピーノの早すぎる死。
死んでしまったものの、失われた痛みの、
ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
ため息の、
灰。
ウンベルト・サバ《灰》より
須賀さんが若いころに暮らしたイタリアでの思い出を綴った『ミラノ
霧の風景』(1890年)。亡き夫が好きだった詩人、ウンベルト・サバの詩が掲げられたそのあとがきは、こんな一文で閉じられています。
いまは霧の向うの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる。
【3】
彼女はその後も出版社や編集者の求めに応じて、イタリア時代の追憶だけでなく、幼少期から好きだった本をめぐるエッセイ、学生時代の親しい友人や父や母との思い出など、次々と美しい回想記(メモワール)を発表し続けます。
生前に残された5冊の作品を読んで、最も印象に残るのは「向うの世界に行ってしまった者」
死者を追悼するタペストリーを織るような文章です。
須賀さんはイタリアで結婚して5年あまりで、夫ペッピーノと死別しています。夫は41歳、彼女は38歳でした。
死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとり行ってしまった。
がらんとしてしまったムジェッロ街の部屋で朝、目がさめて、白さばかりが目立つ壁をぼんやりと眺めていると、暮れはてたペストゥムの野でどこかに行ってしまったペッピーノを、石につまずきながら探し歩いている自分が見えるような気のすることがあった。【5】
突然の夫の死に茫然となり、がらんとしてしまった心。部屋の白い壁にぼんやり浮かぶのは、かつて夫や友人たちと訪れたペストゥム遺跡で、ほんの短い間、姿の見えなくなったペッピーノを不安にかられて探し歩いた自分でした。
<(遺跡ではぐれた夫を探し歩いた自分)を
ひとり残された部屋の白い壁に見ていた自分>を
いま思い出して文章にしている自分。
重なり合う時間は、そのまま記憶(こころ)の重層性であり、こうした経験の積み重ねに共振・共感できることを“成熟”と呼ぶのかもしれません。
夫の死後、コルシア書店にも苛酷な運命が待っていました。
六七年に夫が死んだあと、中国の文化大革命の余波をうけてヨーロッパの若者を揺りうごかした革新運動が、書店にも津波のように押し寄せて、あっというまにすべてを呑みこんだ。既成価値のひとつひとつが、むざんに叩きつぶされ、政治が友情に先行する、悪夢の日々が始まった。【4】
学生運動が過激化した1960年代末、若者の側に立ったコルシア書店は教会当局からマークされ、立ち退きを迫られ、仲間たちもバラバラになっていったそうです。書店の仲間たちとその運動について、須賀さんはつぎのように総括しています。
コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。【4】
とくにインテリ層の若者などは、未熟で経験が少ない分、リクツというか、論理を前面に押し出す傾向があります。とくに当時は、連帯を呼びかける思想や政治の言葉が先行して、個々の内実や差異が無視されたようです。
その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生ははじまらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。【4】
理想と現実とあいだで葛藤し、挫折をのりこえることで人は成長する、なんていいますね。もっとも、いまの若者は社会的な理想を思い描いて葛藤することもなく、個人的な趣味に自足することが多いようですが、それもまた人生。
◆父親の死後、イタリアから日本に帰国。
須賀さんは、夫の死後も、翻訳の仕事をしながらイタリアで暮らしていましたが、日本にいた実の父親が亡くなった翌年、42歳のときに帰国しました。その翌年には母親も亡くしています。
60歳を過ぎて書き始められた彼女の回想記のなかには、両親の思い出
父に愛人がいたことや、母が結婚を後悔して愚痴をこぼすエピソードなども綴られています。
両親が死んで20年あまり経過しているとはいえ、いわば“身内の恥”をさらしても…というのは、作家としての覚悟なのか、追悼の思いからなのか、その辺はよくわかりませんが、たぶん両方でしょう。
ただ、ベタついた親子愛の話ではなく、一人の人間として親を見つめる須賀さんの冷静な視線は、「個」をおしつぶしてきた日本の家制度、とくにその犠牲となってきた多くの女性たちの哀しみまで浮び上らせます。
父親に愛人がいることを知ったのは、須賀さんが20歳のとき、
ヨーロッパに留学する前のことでした。
どうしても結婚しようって、あんまり熱心に頼むから、結婚してしまったのが、まちがいだったのよ。母はその夜、なんどもそうくりかえした。…私は三つも年うえだし、家のしきたりも違いすぎるから結婚はいやだっていったのに。天井を見つめたままで母はつづけた。膝が痛むから仰向けになっているのではなくて、横をむくと、私と目があってしまうからだった。
あの人は、がんらいわがまままのよ。エゴイストなのよ、母は言った。自分がいったんこうしようと思ったら、だれがなんといっても、ぜったいにいうことを聞かない。結婚がそうだったでしょう。双方の親類中が反対だったのに、強情いってんばりで押し切って。結局、いやな目を見るのは、わたしだけなのよ。おばあちゃんに気ばかりつかって、いいことはなにもなかったわ。【5】
嫁姑問題。結婚後にやってくる“家”のしがらみ。家父長制の上にあぐらをかく、わがままな男と<結婚してしまった>多くの女性たちに共通する苦しみです。
「冗談のわかる人間」を、「冗談ひとついえない人間」ときびしく区別して、冗談がわからないほうの人種を母はひそかに軽蔑していた。そして、そのつまらない種族の代表が、夫の家の人たちだった。どうして、ここの家の人たちは冗談をいわないのかしら。結婚したころ、わたしは、毎日がつまらなくて、どうしていいかわからなかったわ。そう母は言って嘆いた。母にとって、冗談は、おいしいものを食べるのとおなじぐらい、大切なのだった。【5】
ひょっとすると須賀敦子は留学する前から、父と母、二つの世界の間で葛藤していたのかも知れません。
夫の死後もイタリアに留まり続けていた敦子のもとへ、父親が危篤の知らせが届きます。
父親の最後の望み 若い頃にヨーロッパ旅行をしたときオリエント・エクスプレスの車内で使っていたコーヒー・カップを持って帰ってほしいという望みをかなえてやる話(「オリエント・エクスプレス」)は、くっきりと印象に残る短編小説のようなエッセイです。
…死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかかえてきたワゴン・リ社の青い寝台車の模型と白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。【5】
父親が若い頃に乗った「オリエント・エクスプレス」の記憶。父親のことが大好きだった須賀敦子は、その青い列車が駆け抜けたイタリアの都市の名前を、
『ミラノ 霧の風景』
『ヴェネツィアの宿』
『トリエステの坂道』
自分の三部作のタイトルに使っています。
文学好きの長女を、自分の思いどおりに育てようとした父と、どうしても自分の手で、自分なりの道を切りひらきたかった私との、どちらもが逃れられなかったあの灼けるような確執に、私たちはつらい思いをした。いま、私は、本を読むということについて、父にながい手紙を書いてみたい。そして、なによりも、父からの返事が、ほしい。【8】
◆コルシア書店の仲間だったガッティも…。
半年に一度、商用で日本にやって来る友人のステファノが、今年の二月に来たとき、開口一番、君に言わなければならないことがある、と言った。「ガッティが死んだ」
また、ひとつ、どこかに暗い穴があいたような気がした。【3】
ガッティの死を知らされた須賀さんに、アルツハイマーになって施設に入ったガッティを最後に見舞った日の記憶が蘇ります。
そして、夫ペッピーノを亡くした後の、辛かった日々の思い出も浮んできます。心のなかの暗い穴
ひとつの死が、別の死の記憶とつながるからです。
ムスタキのかわりにレナード・コーエンをくれたガッティ、夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつくいましめたガッティは、もうそこにはいなかった。彼のはてしないあかるさに、もはや私をいらいらさせないガッティに、私はうちのめされた。【3】
目の前にいる変わり果てた友人の姿。かつてのガッティの言葉や表情と重なりあうと、余計にショックと悲しみは深くなる。それもまた“記憶”という時間の重なりによってもたらされる苦い現実です。
まもなく夕食の時間がきて、ふたたび看護人がガッティを迎えに来た。チャオ、ガッティ、という私たちのほうを振り向きもしないで、ガッティは食堂に入ると、向うをむいたまま、スープの入った鉢をしっかりと片手でおさえて、スプーンを口に運びはじめた。幼稚園の子供のような真剣さが、その背中ぜんたいににじみでていた。【3】
◆親友しげちゃん(しいべ)の昇天。
(01)で登場した親友のしげちゃん(しいべ)は、大学を出た後、平凡な結婚の道を選ぶことなく、修道院に入りました。
修道女になったら、とようちゃん※は、やはりなんでもないことみたいに、つづけた。たぶん、もう会えないと思うよ。うん、わかってる。私はあかるくこたえた。もう会えない、とか、別れる、とかいうことについて、なにもわかってなかったから、私は体育会の学生みたいに元気だった。いいじゃない。会えなくたって。忘れさえしなきゃ、いいんだから。【7】
※ようちゃんは、しげちゃん(しいべ)のこと。
修道女というのは、貞潔、清貧、従順の誓いを立てて生涯を修道院のなかで暮らす女性だそうです。その親友から、イタリアで暮らしていた須賀のもとに手紙がとどきました。夫を亡くした直後のことです。
夫が死んだとき、北海道の修道院にいたしげちゃんから、だれからももらったことのないほど長い手紙がイタリアにいた私のところにとどいた。卒業以来、彼女からもらった、はじめての手紙だった。…【8】
むかしのままのまるっこい書体で、私の試練を気づかうことばが綿々とつづられていた。こころのこもったそのことばよりも、なによりも、私は彼女の書体がなつかしかった。修道女になっても、まだおんなじ字を書いてる、と私は思った。もう変体仮名はまじっていなかったけれど、教室でとなりにすわったとき、私のノートのはしに、思い出したことなどをちょちょっと書きつける、あの同じ字だったし、なによりも、むかし、あなただけよと言って読ませてくれた、うすい鉛筆でかいた堀辰雄ふうの小説の、あの字だったのがなつかしかった。【8】
親友のしげちゃん(しいべ)が、15歳のときのバースデーブックに「今のままのあなたで!」と言葉を贈ってくれたエピソードを紹介しましたが、須賀さんは、しげちゃんがそう書いてくれたことが、
夫が亡くなったときも、当の親友が死んでしまったときでさえ 勇気を与えてくれたと記しています。
イタリアから日本に帰ってきて、再会を果たした二人。
若かったころを思い出して語りあう場面があります。
調布で会ったとき、大学のころの話をして、ほんとうにあのころはなにひとつわかってなかった、と私があきれると、しげちゃんはふっと涙ぐんで、言った。ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないのよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてた。
しげちゃんが、ただごとでない人生を終えて昇天したのは、それからひと月もしないうちだった。【8】
「なにひとつわかってなかった」と気がつくまで、人生が「ただごとじゃない」とわかるまで、どれほどの時間がかかったか。いま思えば、それでも大いばりで生きてたころの、なんと懐かしいことか。そんな記憶の、なんとせつないことか。
それぞれが「ただごとでない」自分の人生を歩むなかで、他者との深い共感が生まれる。互いの記憶が重なりあい、響きあう瞬間がある。
フランスに留学する前、若き日の須賀敦子はサン・テグジュペリの『城砦』から、次の箇所を抜き書きしていました。
「大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから」【8】
成熟とは目的地ではありません。私たちも、きっと死ぬまでうろうろと脱線し続けることでしょう。人は、自分の不完全さを深く自覚するからこそ、自分の内に“他者”を抱え、ともに生きていこうとするものなのかもしれません。
だって、ひとりきりじゃ淋しいし、退屈ですからね。
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