ヴォネガットさん、あなたに神のお恵みを。(02)
カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut:1922−2007 )
<フォーマ>を生きるよるべとしなさい。

◆シリアスとコミカルのあいだの振幅

敬虔なキリスト教徒によって建国されたアメリカでは「いかに生きるべきか」という道徳や倫理の問題は、宗教心とからんできます。“アメリカ小説界No.1のブラックユーモア作家”は、たとえば「神」についてどう考えていたのでしょうか。
ヴォネガットは、わたしは無神論者
   より正確には、宗教心のある懐疑論者」だと語っています。

わたしはこの機会に、わたしの両親やマーク・トウェインや、その他の人々からわたしに伝わり、わたしからまた子供たちに伝えている理想を、ごく短いことばで要約してみたいという衝動に駆られております。その理想とは、まだ実現した人はごくまれですが、こういうものです   「最後の審判の日に、に向かって、「わたしは、あなたを信じてはいませんでしたが、とてもいい人間でした」と言えるように生きよ【8】

神さまに依存しない懐疑論者は、“人生の意味”について深く考えずにはいられません。ヴォネガットは、彼の作品がなぜ若者たちの人気を集めていると思うか?と聞かれて、こんなふうに答えています。

そう、もしかすると人気の秘訣は、大の大人ならとうに片づいたと見なしている青くさい問題をわたしが扱うからかもしれません。わたしは、神とはなんぞや、神が望むものはいったいなにか、天国はあるか、あるとすればどんなものかなどということを話します。大学に入って二年目くらいの学生がやることですね。

… ただ、こんなことをしばらく考えているうちに、笑いだしてしまうのです。笑うことは楽しいですからね、いま言ったようなことを考えては笑うのです。なぜかと言われてもよくわかりませんが。【5】

天国について考えるといっても、ヴォネガットのことですから、たとえば永遠の天国とは死ぬほど退屈な場所に違いないと想像し、作品のなかで天国にいる姉と地上にいる弟の交信の模様をこんなふうに描いています。

   「それはちょうど雨降りの秋の日に、だらしのない七面鳥の飼育場(ターキー・ファーム)へ電話をかけたとしたら、むこうの電話口から聞えてくるだろう物音に似ていた」…
みんな退屈し切っているのよ。だれがこの場所を設計したにしろ、そいつは人間というものを知らなかったんだわ。おねがいよ、ブラザー・ウィルバー。これが永遠というもの。これが永久なのよ!あんたがいまいるところは、時間の点からいえば、問題にもならないわ!お笑い草よ!さっさと自分の頭をふっ飛ばしなさい」
その他いろいろ。
【10】

スラップスティック(ドタバタ喜劇)の映画、ローレルとハーディを例にとって「あのふたりは、いつも自分たちの運命と真剣に取り組むのを忘れない。そこがたまらなく魅力的で滑稽なのだ【10】」と語るように、ヴォネガット作品のユーモアもまた、シリアスな問題と格闘することによって生まれています。

「あんたはまじめなのかい、ふざけてるのかい?」運転手がいった。
「それは自分でもわからんな。この人生がまじめなのか、ふざけてるのか、それがわかるまではね」トラウトはいった。「人生は危険だよ、それは知ってる。それに苦しみもいっぱいある。だからといって、まじめなもんだとは限らんよ
【7】

ヴォネガットは戦争に行って捕虜となり、味方の空襲で焼き殺されるところを奇跡的に助かりました。そんな苛酷な体験をくぐりぬけた人のつむぎだす「笑い」ですから、ただふざけているわけではない。かといって、多くの作家のようにマジメで深刻なだけの話にはなりません。

『スローターハウス5』の主人公であるビリー・ピルグリムのオフィスの壁には、こんな祈りの言葉がかかっていました。読めば「なるほど」とあらためて深く考えさせられるような、あるいは行間でクスクス笑っているような、シリアスとコミカルのあいだの振幅がヴォネガット作品の魅力である、とひとまず言っておきます。

神よ願わくばわたくしに   
変えることのできない物事を
受けいれる落ち着きと      
変えることのできる物事を
変える勇気と      
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえ
 【9】

確かに。変えられることと、変えられないこと。
その違いがわからなくて、人は悩みの淵に沈むわけですね。
「わかっちゃいるけど、やめられない」
というスーダラ節的な境地もありますが。
愚かな私たちに、いったい何がわかるというのか。

わからなければ、それでよい。

わたしは年をとるにつれてますます教訓的になっていきますが、ほんとうに心にあることを語っているのです。わたしは、人々に探し出させる復活祭の卵みたいに、自分の思想を隠すつもりはありません。ですから、なにか考えが浮かんだら、なにかはっきりしたことがわかったならば、それを小説のなかにはめ込みます。できるだけ明瞭な形でエッセイのなかに書き込みます。【5】

小説であれ、エッセイであれ、ヴォネガットの書くものには、彼がほんとうに言いたいこと、彼の知恵や思想が織り込まれています。たとえば、『猫のゆりかご』(1963)は、ヴォネガットの名を一躍有名にした出世作ですが、この作品のなかで彼は“ボコノン教”というチャーミングな宗教を発明しています。

『猫のゆりかご』の巻頭のエピグラフには、こう記されています。

「<フォーマ>を生きるよるべとしなさい。
それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、
幸福な人間にする」
    『ボコノンの書』 第一の書 第五節
【3】

フォーマというのは、ボコノン教でいう「無害な非真実」のこと。作品中では『ボコノンの書』や賛美歌カリプソなどで、そのユニークな世界観が語られていきます。

訳者あとがきに「ボコノン教は、全体をつらぬく作者の思想であって、いいかえれば、この小説の魅力にとりつかれることは、読者がボコノン教に改宗することでもある」とありますが、ヴォネガットは宗教や神話にまつわる虚構や演劇性を、大掛かりなジョークとしてうまく利用しています。

『ボコノンの書』は、こんな文章ではじまっている。
「わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんなまっ赤な嘘である」 ボコノン教徒としてのわたしの警告は、こうだ。 嘘の上にも有益な宗教は築ける。それがわからない人間には、この本はわからない。 わからなければ、それでよい
。【3】

いいですね。「わからなければ、それでよい」。わからない人には、どれだけ説明してもわかりません。「無害な非真実」によって構成されたこの作品の面白さも、わからない人にはわからない。

彼女は馬鹿だ。そういうわたしも馬鹿だ。誰であれ、神のみわざがどのようなものか知っていると思う人間は、みんな馬鹿なのだ(とボコノンは書いている)。【3】

この小説の舞台となっているサン・ロレンゾ共和国では、聖者ボコノンの教えは、悪役のモンザーノ大統領によって禁止されており、見つかると鉤吊りの死刑に処せられることになっています。

キャッスルの本で、わたしははじめてボコノン教の詩、すなわち「カリプソ」に接することになった。それは、こんなふうだった。

“パパ”モンザーノはわるいやつ         
だけど “パパ”がいなければ
おれはきっと悲しいだろう
だって、悪者の“パパ”なしで
このごろつきのボコノンが
善人面(づら)できるわけがない
【3】

悪があるからこそ、善がある。太古の昔から続く二項対立の図式です。善と悪の対立が生み出すドラマは、神話や宗教における重要なテーマですが、ヴォネガットは戦争から帰還した後、シカゴ大学で文化人類学を学んでいます。そして、この理想主義的な学問を学んだおかげで、自分の無神論がいっそう確固なものとなり、人類学が自分にとっての「宗教」になったとも語っています。

◆勝手に神を味方につける人々

ヴォネガットは、勝手に神を味方につけて、相手を裁き、<正義>を押し付けようとする宗教的独善について語っています。

悪とは何だ? 悪とは、たいていの人間の中にある、限りなく何かを憎もうとする気持、神を味方につけて人を憎もうとする気持のことだ。およそ醜いはずのことに魅力を感じる人間の心にあるんだ。
「そういう人間の白痴的な部分が」とわたしは言った、「人を罰しようとしたり、中傷したり、喜んで戦争をやったりする」
【1】

このセリフを聞いて、ボブ・ディランの名曲、『神が味方/With God On Our Side』を思い起こす人もいるかもしれません。(アルバム『時代は変わる/The Times They Are A-Changin’』(1964)に所収)

おれは名乗るほどの人間じゃない
おれの歳なんて意味がない
おれの出身地は いわゆる中西部
そこで育ち 教えられたことは
法に従えということ 
そして おれの住んでる国には
神が味方についていると

歴史の本は語る じつに巧みに語る
騎兵隊が突撃し インディアンは倒れた
騎兵隊が突撃し インディアンは死んだ
わが国は若くて 神が味方していた…

(『神が味方』by ボブ・ディラン)

歌詞の続きは、いつも『神が味方』していると考えるアメリカが「悪」と闘い、米西戦争、南北戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、東西両陣営の冷戦をくぐりぬけ、ついに核戦争の危機を迎えるという皮肉な内容になっています。

ヴォネガットの『母なる夜』が1961年、『猫のゆりかご』が1963年、ディランの『神が味方』が1964年の発表。1960年代はアメリカがヴェトナムへの軍事介入を強めていく時期でした。

「アメリカが嫌いなの?」と彼女は言った。
「好くのも嫌うのも馬鹿げている」とわたしは言った。
「国に対して感情を動かしたりはしないんだ。不動産に興味はないからね。これはわたしの人格の大きな欠陥だけれど、国境を土台にものを考えることができないんだ。想像上の一線なんて、妖精やなにかと同じくらい非現実的なものに思える。人間の魂にとって本当に大事なことが国境線から始ったり、そこで終わったりするということが信じられない。 美徳も悪徳も、悦楽も苦痛も、国境線で縛られたりはしないよ
「変わったのね」と彼女は言った。
「世界大戦があれば人は変わる」とわたしは言った、
「それでなくて何のための世界大戦だい?」
【1】

「想像してごらん、国なんかないと」と歌ったジョン・レノンの名曲『イマジン/Imagine』(1971)を思い起こす人も多いことでしょう。そして、9.11同時多発テロの後、イラクに対する戦意をなくさせるとして、アメリカのメディアがこの曲の放送を自粛したことも。

ボブ・ディランやジョン・レノンが、ヴォネガットの小説を読んでいたかどうかは知りませんが、フォークやロックに代表される“カウンターカルチャー”とヴォネガットの思想の相性がよいことは確かです。

◆お金の川のそばで生まれた連中

ヴォネガットは現代アメリカ人の生活を、こんなふうに戯画化しています。

「ああ、トラウトさん」と、マイロはトラウトの続き部屋で、言葉をつづけた。「わたしたちに教えてください。歌い、踊り、笑い、泣くことを。わたしたちはこれまで長いあいだ、金とセックスとそねみと不動産とフットボールとバスケットボールと車とテレビとアルコールだけで生きようとつとめてきたんです    おが屑とガラスの破片の上で!」【7】

この作品(『チャンピオンたちの朝食』)が書かれたのは1973年。今ならこれにSNSやゲームが加わることでしょう。競争と嫉妬、不満や不安を一時的に忘れさせてくれる娯楽と消費。アメリカ社会が抱えている問題はいろいろありますが、たとえば「格差の問題」もその一つ。

ヴォネガットは、隣人愛にとり憑かれた大富豪ローズウォーターの口を借りて、金持ち階級についてこう説明します。

<お金の川>    国民の富が流れているところですよ。われわれはその岸辺で生まれました    われわれといっしょに育ち、いっしょに私立学校へはいり、いっしょにヨットに乗りテニスをした、あの月並みな連中の大部分がそうでした。われわれはその川の水を、心ゆくまでガブ飲みすることができました。それだけじゃない、もっと能率よくガブ飲みできるように、ガブ飲みのレッスンまで受けている」
ガブ飲みのレッスン?
弁護士からです!税理士からです!証券屋からです!われわれはいまにも溺れそうなほど、川のすぐそばで生まれました。柄杓やバケツを使うだけで、十代あとまで水に不自由するおそれはないほどでした。なのに、われわれはまだその上に専門家を雇って、水路橋や、ダムや、貯水池や、サイフォンや、バケツ・リレーや、らせんポンプの使い方を教わっている。そして、われわれの教師がこんどは金持になり、その子供たちがガブ飲みのレッスンをうける側にまわるんです」
【6】

富めるものが、ますます富を増やしていく社会の仕組みは変わっていません。実際、世界中で格差は広がっていますし、その格差が嫉妬や憎悪や敵意を生み、テロや紛争にまでエスカレートしています。

この国では金持ち以外に幸せな人はいないのです。なにかがまちがっています。何がまちがっているか申し上げましょう。わたしたちは孤独なのです!わたしたちは隣人から引き離されています。なぜでしょう。それは、わたしたちが一致協力しないかぎり、金持ちはわたしたちのお金をいつまでも奪うことができるからです。

彼らはわたしたちが孤立していることを望みます。ただ妻や子供たちと自宅にこもってテレビを眺めていることを望みます。そうすれば、わたしたちを思いのままに操作できるからです。わたしたちになんでも買わせることができる。自分たちのもくろみどおりに投票させることもできる。…【5】

今では自宅にこもってテレビを眺めるだけなく、ネットで買い物もできるし、孤独に直面しないようネットの“つながり”という幻想に閉じこもることもできます。でも、そうしたネットへの依存によって、隣人や家族がバラバラになり、孤立を深めている人も多いのではないか。

ヴォネガットは一つのユートピアとして人類学でいう民俗社会、一人ひとりが家族のようにお互いをよく知り、その関係が一生涯続く共同体社会>へのあこがれを隠しません。

◆ヴォネガットの夢見るユートピア

なんというか、わたしは自分の職業にふさわしい根なし草の生活に慣れてしまった。でも、やはり、人々が生涯ひとつの共同社会にとどまり、たとえそこから世界を見るために遠く旅立つにしても、必ずまたそこへ帰ってくることを望みます。それでこそ心の安らぎがあるのです。…

これは、より幸福な人類についてわたしがいだいている、ぬくぬくとした小さな夢なのです。なにかそういう明るい小さな夢でもないと、わたし自身の悲観主義を克服できそうにないので。あくまでもわたしの夢ですから、それはまちがいだなんて言わんでください。

人類は    癌をなおしたり、火星に到着したり、人種的偏見をなくしたり、エリー湖の汚染をなくしたりしたときではなく    彼らがふたたび原始共同社会に生きる方法を見いだしたとき、きっといまより幸福になれる。それがわたしのユートピア。それこそわたし自身が欲しているものです。【5】

ヴォネガットは『スラップスティック』(1976)で、人工的な拡大家族というアイデアを提案していますが、それは「あらゆる人間に新しいミドルネームを発行することによって、アメリカに人工的な拡大家族を作り出すというユートピア計画。おなじミドルネームをもつすべての人間が、身内になる【10】」といったものでした。

その新しいミドルネームは、花や動物や鉱物などの名前と数字をつないだもので、たとえば、主人公のアメリカ大統領の名は「ウィルバー・ダフォディル-11・スウェイン」に。その孫娘は、「メロディ・オリオール-2・ピータズウォルド」になりました。
※ダフォディル(ラッパスイセン)、オリオール(ムクドリモドキ)

まるで先住民たちが共通の祖先と考える動物「トーテム」のようですね。これも人類学を学んだ影響でしょうか。ともあれ、小説ではダフォディルやオリオールなど、ミドルネームが同じだけで、孤独だったひとたちがつながりあう。身内を思いやるきっかけになります。

メロディはいたるところで身内に出会った    たとえオリオールではなくても、鳥か、それとも動物のミドルネームを持つ人たちに。
彼らはメロディに食べ物を与え、道を教えてくれた。
ある人は彼女にレインコートをくれた。別の人はセーターと磁気コンパスをくれた。ある人は乳母車をくれた。別の人は目覚まし時計をくれた。
ある人は針と糸と、それに金の指ぬきもくれた。
ある人は、自分の身の危険もかえりみず、漕ぎ舟に彼女を乗せてハーレム川を横切り、死の島へと渡してくれた。
その他いろいろ。
【10】

◆砂糖の錠剤に、苦いコーティング

冒頭で「愛は敗れても、親切は勝つ」とヴォネガットの思想を要約した高校生のエピソードを紹介しましたが、まさに親切が際立ったエンディングです。

ブラックな笑いやアイロニー(反語)の裏にあるこうした優しさ    感傷的な甘さもまた、ヴォネガット作品の大きな魅力の一つです。もっとも、それが気に入らない批評家もいるようですが。

わたしが書くあらゆるものの底にはほとんど許しがたいほどの感傷が漂っており、英国の批評家たちはそれについて苦情を述べています。アメリカの批評家ロバート・スコールズはかつて、このわたしが砂糖の錠剤ににがいコーティングを施しているだけだと評したことがあります。いまさら変えようにも手遅れです。【5】

作品に対して不満や嫌悪を表明する批評家の言は置いておきましょう。ヴォネガットもこう言っています。「そういう批評家は(男であろうが女であろうが)まるで、完全武装したうえでシュークリームかアイスクリームに襲いかかる人のようである。」【8】

(03)へつづく
 <引用したTEXT>
【1】『母なる夜』(1961) 池澤夏樹訳 白水Uブックス
【2】『ジェイルバード』(1979)浅倉久志訳 ハヤカワ文庫
【3】『猫のゆりかご』(1963)伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫
【4】『タイタンの妖女』(1959)浅倉久志訳 ハヤカワ文庫
【5】『ヴォネガット、大いに語る』(1974)飛田茂雄訳 サンリオ文庫
【6】『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』(1965) 浅倉久志訳 ハヤカワ文庫
【7】『チャンピオンたちの朝食』(1973)浅倉久志訳 ハヤカワ文庫
【8】『パームサンデー    自伝的コラージュ』(1981) 飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫
【9】『スローターハウス5』 (1969) 伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫
【10】『スラップスティック』(1976) 浅倉久志訳 ハヤカワ文庫
 ※( )はアメリカでの発表年。