朝日新聞に魁先生!

飲み会のとき、堀田君から
「こないだ、朝日新聞に
近藤魁先生が出とったよ」と
教えてもらったので、
八幡図書館へ行って
その記事を探してきました。

おーっ、
これだ!
近藤魁先生だ。
写真、でかっ!
読者投稿の
「声」じゃなくて、
特集記事なんだ。
すごっ!
そっかぁ、9
1かぁ。
でも、お元気そう。
では新聞記事をそのまま
下に転載します。

(朝日新聞 2015年8月11日 朝刊)

「核といのちを考える 被爆70年 福岡」

米大統領に―――広島、長崎、福島を訪ねて下さい。
何も言われなくても結構です。実行して下さい。

北九州・近藤魁さん(91)

戦争許されぬ やっと話す覚悟

 40年余りの教師生活で教え子には一度も、軍人だったことや広島で被爆したことは話さなかった。孫、ひ孫はもちろん、2人の息子にもまだ話していない。
 近藤魁(かい)さん(91)=北九州市八幡東区=は広島で地獄を見たが、「戦争とは無関係な人間」を貫いてきた。
 大阪外国語大学(現大阪大)在学中に徴兵検査を受け、陸軍特別甲種幹部候補生に。豊橋陸軍予備士官学校を卒業し、見習士官集合教育のため広島市を訪れた30時間後、その時が来た。
 1945年8月6日朝。爆心地から約1キロの広島城三の丸にあった兵舎前で「真っ白い閃光(せんこう)、それから七色のきれいな光を見た」。その後、「ゴーッ」という爆音がし、爆風と共にガラスや石が押し寄せた。とっさに目と耳をふさいで伏せたがすでに遅く、熱線に体を焼かれていた。
 「やられた」。仲間のうめきや叫び声。兵舎は崩れて炎が上がり「助けてくれー」という声が聞こえた。体中に大やけどを負い、肌は焼けただれ、髪の毛も焼けた。必死の思いで風下に逃げると、別の隊は将棋倒しになって息絶えていた。歩く人はみな手をだらりと下げ、皮膚が垂れていた。腹から腸をぶら下げながら歩く男もいた。
 数日後、岡山県の陸軍病院に運ばれた。ハエがやけどの傷口に卵を産み、夕方になるとウジがただれた部分を食っていた。朝に衛生兵が来て頭や体の包帯を取り、ウジをバタバタと払い落としてくれるのが待ち遠しかった。福岡の自宅に戻ったのは8月末。大量の血を吐いたが、輸血を受けて生き永らえた。
 49年、石炭関連の会社から市立中学校の英語教師に転職した。やがて妻となる女性と出会い被爆したことを伝えたが、彼女は「構いません」。54年に結婚。以降は被爆の詳細について口を閉ざした。
 教師生活は充実していた。だが疲れやすく、運動会や遠足といった学校行事は苦手だった。校舎の階段を上る時には貧血に悩まされた。66年に被爆者健康手帳を取得。のちに白内障と大腸がんを患った。
 「戦争や原爆は思い出すのも苦痛だ」。私立高校で英語を教え、被爆体験とは向き合わないまま退職した。日本は平和、子どもたちは「軍隊」とは無関係。そう実感しながら余生を過ごすつもりだった。
 しかし最近、憲法や安保法制をめぐる議論から「この国の指導者はまた戦争をしようとしているのではないか」という疑念がぬぐえない。新聞では、自分と同じ被爆者が反戦を訴えている。自分は口を閉ざしていていいのか――。
 「70年たってようやく口に出す覚悟ができた。戦争は許されない。絶対にやるべきではない」
 近く子どもや孫に体験を話したいと考えている。(山根久美子)

※枝北中の同窓会サイト「北中55!」の
近藤魁先生へのインタビューはこちらです
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