【近藤魁先生の新聞投稿より 6】 1998(H10)年9月16日 毎日新聞

黒沢作品ビデオをもっと安く
 1943(昭和18)年学徒出陣の年、黒沢明監督の第1作「姿三四郎」は発表された。当時は戦意高揚映画がほとんどで、朴訥な青年と可憐な少女のほのかな愛を描いた、この作品は非常に新鮮だった。
 2人が出会った神社の石段に降る雨、落ち葉、雪などのオーバーラップで季節を表したシーンが目に浮かぶ。入隊後、一こま一こま思い出し、こっそりノートに書き留めた。
 第1作上映後、映画化はされなかったが、シナリオ第1作「達磨寺のドイツ人」を読みながら、彼なら、ここはこのように演出するのではないか、と友人と語り合った。
 「七人の侍」以後の自由奔放な浪人モノが特に好きだ。人物、セットはもちろん、吹きすさぶ風、ほこりまでがリアルだ。人間の善と悪を、映画という総合芸術で見事に描いてみせた。
 数年前、発売されたビデオは、かなり高価だった。「クロサワ」の世界の人々、特に若者に見てもらうためには、もっと安く提供できる方法を講じるべきだ。
【近藤魁先生の新聞投稿より 7】 2000(H12)年2月2日 朝日新聞「声」
パソコンなど怖くはないぞ

 我が家にはワープロはあるが、ファックスはない。携帯電話はもちろんない。
 パソコンにしても、「今さら」と気にもとめていなかったが、昨年十月ごろ、突然マウスを扱いたくなった。
 それからはパソコンショップのはしごをした。本屋でパソコン本を立ち読みもした。会費ゼロが魅力の公民館の講座にも申し込んだ。五回くらいならマウスを扱う右肩が凝ることもなくなったが、目の前を吹き抜けたあらしのようで、終わってみると頭の中には何も残っていない。
 講師の言われる「車の運転と同じ。頭でなく体で覚えなさい」を実践するには毎日の練習が必要と、少々無理して中古のパソコンを買い求め、電話代を気にしながらEメールを始めた。
  最後の送信ボタンを押すと、ドスンと音がして送ることができたようだが、自信がない。翌日電話で確かめると、無事先方に着いていた。昨日は着信箱を見ると、メールアドレスを送信していた米国、豪州の友人からもメールが届いていた。このところ、年に一、二回だった手紙の交換も、Eメール活用で今年からは増えそうだ。

【近藤魁先生の新聞投稿より 8】 2001(H13)年5月18日 朝日新聞「声」
中国の街角で心温まる光景

 先日、北京の小学生から写真のお礼を英語のメールでもらった。
 4月初めの2週間、私は北京で中国語の学校に通った。日曜日の昼すぎ、街角に小学生の女の子が数人立っていた。年長らしい1人が自転車の空気入れを手にしている。
 きっと小遣い稼ぎをしているのだろうと近付くと、紙に「…打气(義務打気)」と書いてある。打気はタイヤに空気を入れることか。義務は無理やりなのだろうか、サービスか、分からない。中国語でなんとか尋ねてみた。
 「お金はもらいません」と年長の子が答えたが、納得がいかない。しつこく話していると、いつの間にかリヤカーを押したおじさんたち2、3人が集まってきて、子供の言っていることは本当だ、と応援する。
 彼女は小学5年で、1年から英語を勉強しており、将来は俳優になりたい、と立派な英語で堂々と答えてくれた。今、自分たちで出来る街角での自転車の空気入れをしているという。その純粋なボランティア精神に心を打たれた。
 小学5年で、英語もパソコンも自由に使うことが出来る彼女には、世界中の困っている人に心を配る優しい俳優になってもらいたいと願う。

【近藤魁先生の新聞投稿より 9】 2004(H16)年8月1日 毎日新聞
全員80歳を超え、最後の同期会
 本誌の夕刊特集「中高年の同窓会ブーム」を感慨深く読んだ。私たち同期は44(昭和19)年、250人が繰り上げ卒業、うち半数は前年に学徒出陣していた。
 母校は校名も変わり、校舎は郊外に移転、男ばかりのバンカラな校風も、女子学生が大半を占め、華やかになったそうだ。
 我々21期会は62年から15回続いたが、35人参加の今年が最後になった。全員80歳を超え、老残の身をさらすより、少しでも動けるうちに最後を飾ろう、との世話人会の提案を涙ながらに受け入れたからだ。会員も戦死、病没、行方不明などで、約半数はいない。
 同期生の司馬遼太郎没後、約2年ごとの総会は、彼のゆかりの地を訪れた。「司馬さん」と呼びかけると 「昔どおり、福田、せめて福田君と呼んでくれ」と気さくな彼だった。殺風景だが味のある超高年同期の集いはもうない。
【近藤魁先生の新聞投稿より 10】 2008(H20)年2月6日 朝日新聞「声」
青春の面影を探しに北京へ
 98年末、入門講習会に3回も通ってパソコンを始めた。日本語、英語のインターネットの他に、60年前に習った中国語でメール交換をしたくなったからだ。
 44年、就職と同時に北京事務所勤務の辞令はもらったが、兵役のため行けなかった。戦後中国語とは無縁のまま92年退職。青春時代を過ごすはずだった北京事務所の跡を見たくなった。
 北京市内を探し回るには言葉と地図が必要だ。中国語講習会をのぞいたが全く聞き取れない。60年の間に漢字も変わった。発音表記もローマ字を使った「ピンイン」に変わっている。
 インターネット接続は業者に電話で尋ねた。新しい漢字、ピンインにも少し慣れた。私のパソコンは中国語ソフトを入れるとメール出来る、と分かった。
 北京大学図書館に当時の市街図の有無をメールで問い合わせると、地域の公安に尋ねるのが確実ですよ、と住所を書き添え返信が来た。すぐ手紙を送ると、係の方から北京に来られたら私が案内します、と丁寧な返事が来た。
 パソコンを始めて7年目。05年3月、この付近がそうですよ、と示された跡は北京の街通り「胡同(フートン)」沿いの土壁の中だった。