校内暴力は、教育の“不調”を示す症状の一つです。
(学校だけでなく、家庭教育の機能不全でもあります)
上のグラフは、あくまで警察沙汰になった件数なので、
補導もされず、学校の調査や報告にカウントされていない
中学生たちの裏での悪行は、もっと広がっていました。
カツアゲ(恐喝)やフクロ(集団リンチ)、万引きなどの犯罪から
飲酒や喫煙、シンナーなどの非行、悪ふざけや校則違反まで
軽重さまざまなグラデーションの“ワルさ”がありました。
(近年はオブラートに包んで“やんちゃ”なんて表現しますが)
当時は “ツッパリ”とか“スケバン”と呼ばれた不良だけでなく、
フツーの生徒たちの間にも、学校や教師らに反発する空気が
まるでファッションのように共有されていたように思います。
東京の下町にある公立中学は、こんな状態でした。
非常ベル、爆竹、かんしゃく玉が毎時間のように鳴らされ、風船に水を入れて割ったり投げつける遊びが全校に広がった。ガラス、下駄箱、掲示板、トイレのドアなどが壊され、毎日二、三十人が授業から抜け出した。授業中の私語、トランプ遊び、お菓子やガム、マンガの持ち込みが一般生徒の間にもふえた。暴走族をまねた落書きに混じって、「青春は二度とかえらない」「楽しくさわごう」とあった。
(『いま学校で 校内暴力』 朝日新聞社編1983)
学校や教師に対する反発の理由として、
よくあがっていたのが「厳しすぎる校則」でした。
靴下は白のみとか、靴下の線の数まで決めるとか、
ワンポイントの刺繍までは許すとか。
で、生徒指導の教師に目をつけられるとすぐに体罰、
ビンタにゲンコツ、竹刀、バリカンで丸刈り…。
(教師の体罰は校内暴力とは呼ばれませんでした)
実際の校内暴力は、どのように起きたのか。
令和の若者には、信じられないかも知れませんが、
当時の取材記事をまとめた『いま学校で 校内暴力』から
ほんの一例を紹介してみましょう。
1981(昭和56)年、北九州市の若松にある市立中学で、
「三年生全員の反乱が起き」、校長ら教師10人が殴られ、
生徒11人が送検される事件が起きました。
それまで、この中学では校内暴力はありませんでした。
「番長や非行グループとマークされていた者もいない。事件は「ごくふつうの生徒」達によって起こされた。」
「校長までが暴行を受け、生徒一人が警察に逮捕されたが、事件の背景にあるのは、「規則」への鬱積した不満だった。」
発端は、中学1年生の時に受けた実力テストで
この学年だけが市内の平均点を下回ったことが問題になり、
「学力向上をめざすための生活態度の育成」を掲げる同校は
他の学年よりも厳しい服装検査を行うようになります。
教師たちは「一人の違反も出すまい」と結束し、
違反した生徒は一人ひとり職員室に呼び出されましたが、
その後の実力テストでも相変わらず「平均以下」が続き、
生徒の間に、規則への不満だけが鬱積していきます。
3年生に進級した4月、新しい生徒主導主任が赴任し、
校則に従った服装や髪型の図入りのチラシが配られ、
これまでの毎週月曜の全校一斉の服装検査に加えて、
家庭でも親による毎朝の検査が要請されました。
事件の引き金は、新学期に入って3年の教室近くで
爆竹を鳴らすいたずらが続き、教師が廊下にいた生徒に
「(爆竹を鳴らしたのは)あんた達やろう」と声をかけ、
これを「証拠もなしに犯人扱いした」と受け止めた生徒らが
3年生全員と学校との対話集会を約束させて、
校則や指導の厳しい教師への攻撃を行ない
興奮した生徒が数名の教師を殴ったことでした。
以来、生徒らは「教師は怖くない」とやりたい放題になります。
「理科の実験中、アルコールランプを倒して火をつけて騒ぐ。校内の消火栓を開く。ガラスを割る。授業を抜け出し、かんビールを飲む……。注意する教師はいた。が、そうした教師がねらわれる。」
ある女教師は授業中、女生徒を含む5人から水の入った風船玉を
40数個も投げつけられ、びしょぬれで教壇に立ちすくみました。
もはや教師だけで生徒を抑えることはできず
親たちによる校内の監視・見回りがスタートしますが…
「校庭を歩くと、教室からチョーク、空きびんが飛んできた。その目前で教室のゴミ箱に火をつけた生徒もいた。とがめると、逆にくってかかる。「親を学校に呼んで監視させた」と数人の生徒が、生徒指導主任ら2人を殴りつけ、けがを負わせる。警察が強制捜査に踏み切るのは、この6日後である。」
もちろん当時の中学校のすべてが荒れていたわけではありません。
同じ市内でも私が通っていた市立中学校はとても平和でしたから。
中学生が荒れた原因について、当時の大人たちは
「偏差値主義や管理教育への反発」といった理解で
教育問題として語っていたと記憶しています。
なんのことはない、当時の少年たちが口をそろえて
学校や教師への不満や不信を語っていたからです。
たとえば、1980(昭和55)年に三重県の中学校で
教師11人が生徒に殴られ、警官51人が出動した事件で
補導された生徒の次のような言葉が代表的なものです。
「勉強じゃ、えこひいきするし、服装なんか頭のテッペンから足の先まで文句をつける。ああしろ、こうしろって。そんでな、ぼくらはもう先生がきらいになった」
マスコミは、ツッパリや暴走族のネタなどを
センセーショナルにとり上げて、その風潮を煽り立て、
教育現場が荒れてしまった責任を、学校や教師たち、
その親玉である文部省(当時)に転嫁しました。
(ただし、体罰上等!の暴力教師も実際にいました)
誰かを悪者にする単純な構図は理解されやすいし、
過激な話や映像ほど視聴率や販売部数が伸びるので
それで全国的に流行した面があるのかもしれません。
いじめや不登校、学力低下などの問題と同じように
校内暴力にもさまざまな要因がからんでいて、
「原因はこれだ」と単純化はできません。
だから、誰もが言いたい放題というところがあります。
ともあれ、教育への信頼度が急激に下がった時代に
多感な時期を過ごした子供たちは、大人になった後も
学校や教師に対する不信や反感、そこまでいかなくとも
教育に対するスッキリしない思いがあります。
そういえば最近でも「下着は白でないとダメ」とか
「髪の黒染め強要」とかブラック校則が注目を集めています。
関心のある方は、以下の記事をどうぞ。 |
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http://black-kousoku.org/
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https://www.nishinippon.co.jp/theme/988/
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「ルールは守るのが当然」とか
「中学生らしく、高校生らしく」とか
「集団生活の上でガマンは必要」とか
学校の先生たちの言い分は、昭和の昔と変わっておらず
いまだに校則問題は片付いていないようです。
約40年前、ある中学校の校長先生は、こう語っています。
「靴下のライン1本にこだわるわけではないが、少しでも変わった服装がしたいのは、中学生の本文である学習や運動以外のところに何かを求めている証拠だ。それはエスカレートしやすく、うっかりしているとすぐ伝染し、グループ化する。服装をきちんとしたから非行がゼロになるわけではないが、少なくとも学校にいる時だけは皆同じになって、余計なことで気を散らせたくない」
(『いま学校で 校内暴力』 朝日新聞社編1983)
要するに、校則は生徒を一律に管理するためのものです。
また、学校に対するメディアの論調も昔と変わっていません。
昭和の新聞には、こんな指摘が残されています。
校則が厳しくなると、生徒の反発もまた強くなる。消化器事件の起きた中学がそうであった。問題行動→校則強化→反発→問題行動と際限がない。校則があると、教師には都合がいい。「校則違反じゃないか」とためらわずに注意できるからだ。が、校則をふり回すだけで、なぜ悪いのか生徒にわからせる、辛抱強い努力が欠けていないか。これでは教師と生徒間に信頼関係は生まれない。
(『いま学校で 校内暴力』 朝日新聞社編1983)
ヘアケア製品のPANTENE(パンテーン)で知られるP&G社が
髪型校則について生徒と先生が議論するYouTube動画を見つけました。
(2019年4月7日公開)
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生徒と先生の対話
完全版 PANTENE(パンテーン)
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いまの若者たちは、校内暴力に走ったりはしませんが、
理不尽な校則に対する不満は、昔の中高生と同じです。
教師は「生徒との話し合いが大切」と口では言いますが、
最終的には学校側の判断で処理されてしまう現実は
子どもたちの心に「あきらめと不信」という教育的効果を
及ぼし続けています。 |
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