2007(平成19)年に文庫化されたときに添えられた序文のなかで、
著者の鎌田慧(さとし)さんは、次のような感慨を述べています。
いまからおもえば、悪夢としかいえない状況だった。
「西の愛知、東の千葉」とならび称された、管理教育先進地の学校風景である。ところが、この愛知、千葉の管理方式は、あっという間に全国へひろがっていった。『教育工場の子どもたち』は、生徒の生活と行動が「校則」によってコトこまかく定められ、その励行が教員によってきびしく指導、監視されていた80年代の公立学校の実態報告である。
(『教育工場の子どもたち』 鎌田慧 岩波現代文庫)
令和となったこの時代、「管理教育」と聞いても、
今の学校ではあたりまえの風景で(程度の差はありますが)、
かつて管理教育という言葉が否定的なニュアンスで
語られていたことを知らない若者も多いかもしれません。
ネット上の百科事典「ウィキペディア」では、
【管理教育】は、次のように説明されています。
管理教育とは、学校(教員)が一元的に児童・生徒の在り方を決定し、これに従わせる様式の教育方法、ないしその方針である。主として、命令一下による集団行動の徹底に重きを置く。
ついでに【集団行動】を調べると、こんな説明が…、
集団行動とは各種の組織・集団が、同一の目標の下に、規律のある行動を取ることを指す。統制(集団)行動−学校体育・警察学校・軍隊入営等の初期の授業で実施されることが多い。気をつけの姿勢、前へ倣えなどから始まり、人員点呼等もあり集団を目的地にまで円滑にすすめるには必要だとされる。
ちなみに「学習指導要領」の「保健体育」には、
「集合、整頓、列の増減、方向変換などの行動の仕方を身に付け、
能率的で安全な集団としての行動ができるようにするための指導」
と書かれ、こんな解説が添えられています。
「集団行動の指導の効果を上げるためには、保健体育科だけでなく、
学校の教育活動全体において指導するよう配慮する必要がある。」
つまり集団行動は、体育の時間以外でも指導できることが認められています。
もちろんその方法や厳しさの度合いは、各学校によって違っていますが。
『教育工場の子どもたち』には、愛知県にあるT高校の
“軍事訓練のような”集団行動の話が出てきます。
この県立T高校では、1982年4月の集団訓練のとき、
参加せずに見学していた1年生のSさんが訓練直後に、
校舎4階から飛び降りて自殺する事件がありました。
取材した鎌田さんは、この高校の「集団行動」について
次のような感想を述べています。
集合、整頓、列の増減、方向転換、行進などは、たしかに日常ではまったく無用なものであり、そこから戦時中の教育が想い起こされるのだが、わたしはそれよりも、命令に絶対服従の精神が養われることに脅威を感じる。
なぜ、号令のもとに身体を動かさなければならないのか、そのことに疑問をもつものは脱落する、そんな集団の一員になることが怖い。息子や娘たちが命令通り動く人間になってほしくない。
(鎌田慧 『教育工場の子どもたち』 岩波現代文庫)
取材のなかで「ロボットにされるのが嫌だから」
T高校には行かなかったと話した女性がいました。
その反対に、同校のきびしい管理教育を評価し、
教育熱心な教師を礼賛する母親もいました。
T高校の生徒への取材で明らかになったのは…。
生活指導、学習指導、進学指導とがんじがらめである。赤いハンカチをもっていれば怒られ、宿題をやってこないと廊下にたたされ、質問に応えられないと殴られ、成績が下がるとボウズ刈りにされる。そんな信じられない話ばかり続くのだった。…
生徒への体罰はPTAでも認められている、といって教師が殴りつける。女子の場合は髪の毛を引っ張る、職員室は一種の刑事部屋で、ここでよってたかって生徒をしごく。それでも、成績があがり、どこか国公立大学にでもはいれれば、親たちは学校に感謝する。
(鎌田慧『教育工場の子どもたち』 岩波現代文庫)
1981年の暮れには、愛知県高校PTA・OB会が、
学校教育法で禁じられている体罰を復活させてほしい、と
首相や文部省に陳情をしたそうです。前回示したように
全国の校内暴力のピークがちょうど同じ1981年でした。
保護者たちが、体罰を含む厳しい管理を望むのはなぜか。
管理教育には「校則」などの生活指導面だけでなく、
学力向上のために、大量の宿題や補習を課すなど
厳しい学習指導でしごく、といった側面もあります。
体罰は禁止されていても、教師は言葉(叱責や説諭)で
生徒の成績アップを効果的に管理しようとします。
非行化防止と大学進学。このふたつが父母たちの危機意識を支配する。そのふたつが大義名分となってしまえば、あとは学校の管理強化をはばむものはなにもない。
(鎌田慧 『教育工場の子どもたち』 岩波現代文庫)
管理教育というと、学校や教員に批判が集中しますが
それを支持する保護者がいるからこそできる話です。
ただ、学校に子どもを“人質”にとられている親としては、
学校の教育方針や指導を批判しにくいことも確かです。
子どもたちは、そんな親の思いを察しながら、
(高校は、自分で志望して入学したこともあって)、
「学校を辞める」という思い切った選択がなかなかとれず、
管理教育のなかで、ストレスをためていきます。
なんだか、昨今のブラックな労働環境のなかで
「会社を辞める」ことができず、精神疾患になったり、
自死を選ぶしかなかったという話によく似ています。
今は教師も学校で大きなストレスを抱えていますが。
ところで。
集団行動は、いつごろから学校の授業として
行われるようになったのでしょうか。
ちょっと気になったので調べてみました。
現在の集団行動の起源は、戦前の教練にあります。
教練というのは、兵士を養成する軍事訓練です。
明治時代の体育(体操科)の授業に取り入れられた
「兵式体操 (軍事訓練)」を受けて、1925(大正14)年から
中等学校(12〜16歳の男子)以上の学校に
現役将校が配属され、教練の授業が課されました。
生徒は銃を手にしての戦闘訓練や軍事講話のほか
「気をつけ!休め!」などの規律的訓練や
隊列行進などの集団秩序運動でしごかれました。
敗戦後、GHQの指示によって軍国教育が一掃され、
民主的な教育へと転換しましたが、そのときに、
文部省の指示によって「教練」は廃止されます。
各学校へ、こんな内容の通知が出されました。
◎秩序運動としての命令・号令・指示(気を付け、休め、右(左)向け、廻れ右、整頓、番号など)は最少限度に止め、軍事的色彩を伴わず、愉快な気持を与えるよう行ない、それ自体を反復訓練してはならない。
◎隊列を組んでの行進は、場所を移動する目的で正常歩行進や音楽に合わせて歩行することはよいが、隊列行進それ自体の訓練を目的としてはならない。
(「明治大学正課体育の歴史」佐藤 隆 『明治大学教養論集』2000年)
いまの学校の集団行動に軍事色はありませんが、
生徒たちに「愉快な気持ち」を与えるものではありません。
威圧的な指導で、隊列行進を反復させる学校もあります。
戦後いったんは廃止されたはずの集団行動が
なぜいまも学校教育に残っているのでしょうか。
実は、戦後になって民主的な教育が進められるなかで、
戦前のような「命令=服従」型の授業秩序や規律が崩れてしまい
1960年代になると保守的な教育者や知識人の間から
「今の若者はだらしない」とか「体育教師は何を教えているのだ」
といった批判が出るようになったそうです。
そして文部省が「集団行動」という曖昧な言葉で
学習指導要領のなかに復活させ、1965(昭和40)年に
指導用の「集団行動の手引き」がつくられたそうです。
大分大学の田端真弓准教授は、こう分析しています。
「当時の体育教師たちは戦前の教育の影響とそれによる戦後の衝撃から新しい指導法を生み出すことよりも、戦前の秩序運動や教練をモデルとする「集団行動」の指導に回帰することを要望した。…
集団行動という用語の「再検討」もなされぬまま『手引(改訂版)』は継承され、訓練としての「集団行動」が体育授業に現存しているのである。」
(田端真弓「保健体育科における集団行動の位置づけとあり方
戦後の論説にみる集団行動の必要・不要論の位相と論理」
『大分大学教育福祉科学部研究紀要』2015年)
同論文によると「集団行動は必要」と考える先生もいれば
学校でやるのは妥当ではない、と批判する先生もいるようです。
前回(02)の校則問題と同じく、いろんな意見があるのは当然で、
どこまできびしく指導するかは、各学校での判断です。
たとえて言えば、集団行動訓練とは(とくに新入生には)、
学校という場のルールに従属させるための “通過儀礼”であり、
生徒に反抗する気力をなくさせる“去勢”の儀式です。
学校教育が「支配=服従」の関係に貫かれていることを、
これほどはっきりと体に叩き込む指導法はありません。
「こんな集団行動に何の意味があるの?」といった
生徒の疑問や批判を封じ、教師の説明に納得がいかなくても
なにごとも真剣に全力でやりきるよう強制されます。
もし、生徒が集団行動から何か学ぶことがあるとしたら、
「世の中には理不尽なことがある」ということを
それこそ身をもって体験できるということですかね。
理不尽なことでもガマンして従うのが正しいと思うのか、
こんな理不尽な指導は、やっぱりヘンだと思うのかは、
人それぞれでしょうけど。
数年前に、ある高校の新入生合宿を取材した番組で
そのきびしい集団行動訓練の様子を見る機会があって
「今の学校はそこまでやるのか…」と慄然としました。
応援団の威圧的な指導のもと、1時間半も大声を張り上げて
校歌を歌わせ続け、途中でバタバタと倒れていく生徒たち。
集団行動の場面では、指先や手の位置、足の角度など、
クラス全員の一糸乱れぬ姿勢と行動が要求され、
「声が小さい!」「動きが遅い!」「揃ってない!」と
何度もダメ出しをされ、新入生たちは不安と恐怖のなかで、
泣きながら訓練を受けていました。
もちろん最後は全員合格して、喜びの涙に変わるのですが、
番組は「仲間とともに成長する伝統の物語」とうたいあげ、
痛々しい訓練を、感動的なエンディングでまとめていました。
批判的に描かないようにTV局と学校側が打ち合わせして、
編集しているわけですが「いったい何だろう、これは…」と
考えさせられました。
番組の中で「先生が厳しいのはなぜだと思う?」と
取材レポーターがある男子生徒に質問すると、
彼はこんな風に答えました。
「自分たちがもっと高みをめざせる存在と思って、
それを期待してもらっているからだと思います」
教育的な見地からすれば、実に理想的なコメントです。
(テレビ番組なので、本音はどうかわかりませんが)
支配=服従型の教育とは、場の空気を読んで
生徒たちに自ら進んでそう言わせることです。
集団の秩序を乱さぬよう、ふさわしい行動をとる。
そんな管理社会の空気をつくり、強めてきたのは、
これまでの“正しい学校教育”の成果なのかもしれません。
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