(04) 管理によって麻痺した教育現場。

前回まで、校内暴力や集団行動訓練などを切り口に
1980年代の学校教育を振り返ってきましたが、
今回は雑誌『現代思想』(2019年5月号)の論考から
(特集タイトルは「教育は変わるのか
   部活動問題・給特法・大学入学共通テスト」)

とくに巻頭の討論(内田良・大内裕和・岡崎勝)
麻痺する教育現場から問い直す」を参考にしながら
1980年代から現在までの教育現場での管理強化の実際を
いっきにたどりなおしてみようと思います。

まずは、前回引用した鎌田慧(さとし)のルポの続きから。

『教育工場の子どもたち』1983年の「あとがき」で
鎌田さんは、書名についてこう説明しています。


競争が前面に押しだされるのにともなって、学校での不自由さについて無感覚になってきたのは、産業社会での価値観の反映ともいえる。…この本の題名を「教育工場」としたのは、産業社会に似せて「経営」されている学校を見直してみたかったからである。
(『教育工場の子どもたち』鎌田慧)


産業社会の価値観を、一言でいえば“生産性の向上”です。
市場のニーズに合った製品を効率的につくるということですね。

鎌田さんによれば、当時の父母や教師たちの
最大の関心事(ニーズ)は「非行防止と成績向上」でした。
今でもそれは、変わっていないのかもしれません。

産業社会に似せた学校経営とは、たとえば次のようなものです。

1980年代、愛知県岡崎市の教育委員会が作成した
小学校教師向けの指導マニュアルの序文には、
当時の教育長によるこんな言葉が記されていました。

「自動車は、ラインを通ることによって、計画通りに鋲が打ち込まれ、溶接されて完成された車になる。教師も一時間一時間の授業によって、確実に子どもたちをつくりあげていかなければならない。どの先生が教えても子どもたちが間違いなく力がつく。そうならなくては教師は専門職だと言えたものではない」
(『教育工場の子どもたち』鎌田慧)

あるいは、千葉県教育委員会の指導課長が書いた
『教育実践の手びき』には、こんな一節がありました。

「学校は一つの組織体であり、全職員がある程度の共通理解がなければ、円滑な運営ができるものではない。製造工場の組織工程にミスがあれば、欠陥のある製品が生まれるように、学校においても、校内の不調和は、必ず児童生徒に欠陥として現れる。従って、理論の対立が人間の対立にならないように、お互いに謙虚さを失ってはならない」
(『教育工場の子どもたち』鎌田慧)

どちらも、現場の教員に向けて書かれた文書です。
つまり1980年代には “教育工場”において子どもたちが、
教師からきびしく管理されたように、その教師たちもまた
文部省(当時)や地方の教育委員会(地教委)から管理されました。

なぜ教員は、文科省や地教委の管理に従順になったのか。
行政と対立すると昇進が危うくなると恐れたからか。
産業社会の組織で、社員が会社や上司の命令に
逆らえないのと同じような意識だったのでしょうか。

少し視点を変えて、教員の世代交代について考えてみます。

戦時下の“軍国教育”から戦後の“民主教育”へと
世の中の価値観がひっくり返る体験をした世代がいます。

太平洋戦争のさなか、学校の先生たちは黒板に
“米英撃滅” や“神州不滅”などと書いて、お国のために
教え子を戦地へと送りだす重要な役割を果たしましたが
1945年8月15日に戦争が終わって二学期になると、
手のひらを返して“民主主義”と書いたという話があります。

戦時中の教育を知る世代は、国の方針で“教育”が
支配・統制される恐さを身をもって実感していたはずで、
そんな教育行政に異議を申し立てた組合派の教員たちが
退職を迎えたのが、ちょうど1980年代にあたります。

その一方で、地教委の採用試験に合格する教師の多くは
きびしい受験競争をくぐりぬけた元優等生たちであり、
彼らは「非行防止と成績向上」を目標とする教育工場で
生徒を管理し、また自らも管理される工員となっていく…。

もともと制度に従順な、マジメな人間が教員となって、
管理職へと昇進していくだけの話かもしれません。

「教育工場」でも、やはり、労働者たる教師には発言の自由はなく、「自主管理」された教師たちは、教育の高能率生産に疑いを抱くことなく、子どもの品質管理に血眼(ちまなこ)になっているのである。「不良品」となったり、あるいは不良品を発生させた場合、彼の「出世」は、そこで終りとなる。
(『教育工場の子どもたち』鎌田慧)

教員たちは、よかれと思って管理しているのですが、
生徒も教員も、生きた人間ですから無理も生じます。
校内暴力や学級崩壊、いじめなどの問題が発生するたび
教育現場には、さらなる徹底した管理が求められます。

1980年代初めの学校現場をルポした鎌田さんは、
約30年後の2007年に文庫化された序文のなかで
教育現場の変化をこう記しています。

…いまや管理と統制は、ごく当り前の、空気のようにとらえどころのない、時代の雰囲気になりはじめた。

“管理と統制”があたりまえのシステムとなり、
生徒も親も教員も教育委員会も、産業社会と同じように
「効率化」の価値観にがんじがらめになりました。

子どもたちにたいする管理が徹底されるにつれて、生徒の管理をおこなう教員自身が、校長、教頭(副校長)に管理され、校長、教頭たちがこんどは教育委員会の官僚に支配されるようになる。この串刺しダンゴのような管理の重層構造は、政府の狙いもあって、いまはさらにひろく、体制的なものになった。
(『教育工場の子どもたち』鎌田慧)

高度経済成長のころの“画一的な大量生産”から
産業社会が“多品種少量生産”に移ったのと期を同じくして
教育工場でも “個性”の尊重が唱えられました。
(実際に個性が尊重されたかどうかは別の話です)

「画一的教育はよくない」という財界の要請を受け、
政府が“新自由主義的な教育改革”へと舵を切ったのは、
1984年の臨教審(臨時教育審議会)の設置からです。
それ以来、政治主導の教育改革の流れが作られました。

“新自由主義的な教育改革”とは、ざっくり言うと、
教育制度に自由競争の原理を導入することで、
もっと教育が良くなるはず…という考え方です。

たとえば、学校同士を競争させて活気を生み出そうとし
各学校に強引に「特色づくり」をせまるようなやり方です。

政府・財界が主導するこうした改革のベースにあるのは、
学校や教員は、いわば教育サービスの“供給者”であり、
親や生徒を教育の“消費者”(=お客様)とする市場経済モデルです。

こうした一連の改革によって、いまの教育現場はどうなったか。
教育社会学者の大内裕和さんは、次のように報告しています。

「管理教育以降、学校に生活指導を求め、さらには<消費者>志向が強まっている親たちは、学校に個々の子どもに応じたきめ細かなサービスを求めるようになっている。学校五日制が部活動の長時間化という結果になってしまったのは、この矛盾をよく示しています」 

「個性の<評価>によって、これまで以上に教員が子どもをより細かく見ることを<強制>されるのですから、労働強化が進んでいく。子どもたちも<関心・意欲・態度>など自分のあらゆる面を評価されるようになりますから、試験一点集中ではなく学校生活すべてを頑張らなければならなくなった

(『現代思想』2019年5月号の鼎談「麻痺する教育現場から問い直す」より)

個性に応じた質の高い教育サービスの提供といった、
教員への無理難題の要求、それを管理する地教委への提出文書の増加が、
教員を労働強化へと追い込んでいます。

そして、いまとなっては…

「新自由主義教育改革によって<抑圧>の日常化が進行し、もはや学校現場にいる教員、生徒、親の感覚が<麻痺>する段階に突入しているように感じます。心身の疲弊が進み、現状の問題点を認識することすら難しい」
(『現代思想』2019年5月号の鼎談「麻痺する教育現場から問い直す」より)

生徒も、教員も、親も、誰も幸福にしないシステム。
心身を疲弊させ、たとえ問題があると感じていても
「言ってもムダだよ」の空気に支配された教育現場。

大内氏の指摘しているように、いまの教員の過剰労働は
日本社会の矛盾が教育に押しつけられた結果」であり、
<教育問題>の多くが、<労働問題>や<社会問題>であると
認識を転換することが必要
」なのかもしれません。

同じ鼎談のなかで、小学校の教員として40年以上
働いてきた岡崎勝さんは、こう警鐘を鳴らしています。

「教員の労働問題を突き詰めて考えていくと、どうしても『教育とは何か』というところに突き当たってしまうのです。…教員はよかれと思ってやっていることが多いですが、その根っこを問い直さずにずっときている感じがします。…今ここで『教育とは何か』という問題を再度見直さない限りは、教員も奴隷化の道に行くのではないでしょうか」
(『現代思想』2019年5月号の鼎談「麻痺する教育現場から問い直す」より)

教育って、いったい何でしょうね。
もちろんそれは、教員だけの問いではなく、
親としても考えるべき難しい問題です。