(01) 「いい先生」である必要はない
「教師」について書かれた文章や本のなかから、
心に残ったものを紹介していこうと思います。
まず1本目は、吉本隆明の著作『家族のゆくえ』から。

この本は、吉本が80歳を超えて“家族論”をまとめたもので、
子育てや家庭での教育に対する氏の基本的な考えが示されていて
その中から、教師について語った一部を引用します。

ちなみに、単行本の初版が2006(平成18)年で、
2012(平成24)年に光文社・知恵の森文庫に収められています。
単行本(2006)
文庫版(2012)

「プロ教師」には「人格」が見えない

 テレビに出てくる「プロ教師」や、いい先生、著名な先生といわれる人たちが子供を教えているところを見ていると、まったくお話にならないとおもう。こりゃダメだよというほかない。相手が小学生であれ中学生であれ、子供だとおもってバカにしているだけのことではないのか。自分はプロだからといって高を括って、子供は何もしらないとおもっている。
 たしかに、教える技術は上手だ。冗談をまじえながらうまく教えている。しかし、それでいいとおもったらとんでもない間違いだとおもえる。いくら上手に教えてもそのことの意味がないのだ。一時しのぎにしかならない。

 この時期の子供たちは、この先生はどういう人なのか、はじめからもうわかっている。上手に勉強を教えようが教えまいが、先生というのは子供たちにすべて見抜かれているとおもったほうがいいに決まっている。…<中略>…

 先生にとっていちばん大事なことはふだんの「地」を出すことだけだ。自分がふだん何を勉強しているか、ふだん何をやっているか、また性格はどんなふうか、自分の本来の姿を隠さず出せればそれで充分なのだとおもう。それが子供たちのもっている印象と合致したとき教育は成立する。
 授業は生徒たちにやらせて自分はぼんやりしていたっていっこうにかまわない。そっぽを向いて授業をしたっていい。…

 プロ教師のいちばんいけないところは、そうした「人格」がないのに技術だけが見えてしまうことだ。授業の進め方や教え方はうまいかもしれないけれど、生活の英知の影がない。そこがいちばんの弱点だ。

 プロ教師に教われば、たしかに受験勉強がよくできるようになって、いい高校へ入っていい大学へ進めるかもしれない。だけど、そんなのは全然ダメだぜとおもえてならない。そういう教え方がいちばんダメなんだとおもう。そっぽを向いて授業をしてもいいから、自分の地を出して、地の性格のまま子供に接すればそれでいい。それが生涯に残るいちばんいい教育なんだというのがわたしの理解といえる。
(吉本隆明『家族のゆくえ』第二章

世の中のほとんどの親は、授業の進め方や教え方がうまくて、
成績を上げてくれて、いい高校やいい大学へ進学できるように
熱心に指導してくれるのが「いい先生」であると考えていますが、
吉本は「そういう教えがいちばんダメ」と言いきります。

学校や塾の先生は、教える技術の向上に頭を悩ませていますし、
世の中には「こうして学力を上げた」「合格した」といった類の
ハウツー本があふれ、メディアにも取り上げられたりしますが、
吉本氏はそんな表面的な技術論と、生涯に残る「いい教育」とは
全然ちがうものだと考えています。

「いい先生」である必要はない

 たいていの先生は、熱心にわかりやすく教えれば子供たちも授業に集中するはずだとおもって、悩んだりしている。でも、そうはおもわない。
 先生がうまい口調で教えていると、その場はいかにもわかったように見えるし、はたからもすごくいい授業のように見えるかもしれない。でも、それは嘘だとおもう。上手に教えて子供も熱心に聞いているように見えるのは、先生の側も生徒の側もうまく上辺をとりつくろっているその場のことだ。その場かぎりの熱心さにすぎない。そんな授業が効果を上げたとしても、まあ、いい高校に行くのがせいぜいで、こころの底から生徒が「いい教育だ」と感じることはないはずだ。

  熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも「見かけ」だけだ。

 少年少女期は遊びが生活のすべてなのだから、学校の先生も遊べばいいに決まっている。
 この時期の子供たちの遊びは全身的なものだ。先生も全身でぶつかって授業をしようと考えるのは勘違いだとおもう。先生のほうは年齢(とし)をとっているわけだから、自分は遊ぶ代わりに好きな勉強でもして、その合間にちょっといっしょに遊んだり教えたり、というぐらいの気持ちでいればちょうどいいに決まっている。そういう接し方が、生活全体が遊びという時期にふさわしいやり方だとおもう。そうでなければつくりものだ、タテマエだけの嘘になってしまう。先生のほうも、自分の声でいくよ、自分の性格どおり自然にいくよ、と構えればいい。この時期に仮面のかぶり方などを教えられた生徒は生涯を台無しにするに決まっている。

 ところが先生というのは得てして、子供に悪いところを見せてはいけないとか、子供を可愛がっているんだからそれを見せようなどと考えがちだ。自然の自分ではなく演出した自分を見せようとすると、子供がちょっと反抗したりイヤなことをしたとき、それが気になってノイローゼになってしまう。いつでも子供たちから「いい先生」とおもわれようとしていると、ますます自分を追い込むことになってしまう。教員室を神聖な場所にしてしまうのはそういう先生たちだ。

 平気な顔をして自分の性格のまま振る舞えばいい教育に決まっているとおもう。子供たちから「いい先生」とおもわれようなどと考えないほうがいい。自分は先生なのだから神聖にみせなくてはいけない、道徳的にもそう努めなければいけない、なんておもうのはどうかしている。
 この点は、先生だけでなく、少年少女期の子供をもつ親御さんにもいえることだとおもう。

(吉本隆明『家族のゆくえ』第二章

「自分の性格のまま振る舞えばいい」という大胆な意見は、
いまの教育現場を知らない年寄りの言い草のように聞こえますが、
「いい先生であれ!」という社会からの過剰な期待や要請が、
学校の先生たちを苦しめているのは確かだと思います。

たとえば、メディアが持ち上げる「いい先生」や理想の教師像と
比べられると、実際に子どもたちの前で教えているのは
ごくフツーの「たいしたことない先生」だと映ってしまいます。
(きびしく管理されている今の先生には、魅力的な授業を
準備する時間的余裕も、思い通りの授業をする自由もありません)

また、よりよい“教育サービス”を求める社会の風潮が
「いい先生/ダメな先生」という細かいチェックや品定めを生み、
「あんな先生なんて…」といった不満や否定的な評価が、
学びから逃走する子供たちの言い訳ともなっています。

学校教育が機能不全に陥ったいちばんの理由は、
先生が尊敬されなくなったからかも知れません。

それは、昔に比べて教員の“質”が下がったというよりも、
高学歴の人間が増えて教育に対する期待値が上がった反面、
学校や教師への不満や批判が顕在化したからでしょう。

昔は昔で、ひどい教師はたくさんいましたが、
今はネットで報告される時代なので教師も戦々恐々です。
先生が尊敬されない社会の子供たちにとって、
学びの可能性はどこにあるのでしょうか。