(02) 「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。

前回(01)の「いい先生である必要はない」を補足する意味で、
「先生とは何か?」「学ぶとはどういうことか?」という根源的なテーマを
解説している本、内田樹(たつる)の『先生はえらい』を選んでみました。

中学生・高校生向けの、ちくまプリマー新書の一冊です。

 まず、はじめにいちばん大切なことから。
「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。
 昔からいませんでした。「絶滅寸前種」どころか、はじめから存在しなかったのです。はじめから存在しなかったものを「存在しなくなった」と文句を言っても仕方がありませんし、それで何ごとかを説明することもできません。

 同じように、「先生運」などというものも存在しません。
 先生というのは、あちらからみなさんのところにやってくるものではありません。
「やあ、ヤマダくん。今日から私の弟子になりなさい。私こそは君が待望していた『いい先生』だよ。」
「わ、ほんとですか。ばんざーい。」
というようなチープでシンプルな出会いを期待しても無駄ですよ。それは「ある日、白馬に乗った王子様がやってきて……」というのと同種の妄想にすぎません。
 先生はあなたが探し出すのです。自分で。足を棒にして。目を皿にして。
 先生を求めて長く苦しい旅をした人間だけに、先生と出会うチャンスは訪れます。ふところ手をしていて、昼寝をしながら「いい先生」のご到来を待つというような横着をしたって、何も起こりませんよ。

(内田樹『先生はえらい』2005)

どんな先生を「いい先生」と思うかは、人によって違います。

前回(01)で書いたように、授業の進め方や教え方がうまくて、
いい高校やいい大学へ進学できるように熱心に指導してくれるのが
「いい先生」であると考えている保護者は多いですが、
「そういう教えがいちばんダメ」と言い切る大人もいます。

それから、自分がこれまで出会った大人や目の前にいる先生の
ここがイヤだとか、尊敬できないと不満を漏らしているだけでは、
いつまで経っても学びは始まりません。

 教育におけるボタンの掛け違いは「識見が高く、人格高潔なる人が教師であるべきだ」ということを前提にして、教師の「中味」について、この先生は「けっこうえらい」、あの先生は「それほどえらくない」という「査定」を学ぶ側が行うことができると考えたことにあります。
「査定」をした上で、「あの先生は、いろいろとものを知っていそうだから、あの先生の弟子になろう」、「あの先生はダメだから、やめよう」というふうに弟子が判定することを「学ぶ側の主体性」だと考えたことが実は間違いの始まりなんです。…<中略>…

 師弟関係というものを商取引から類推してはなりません。もし、先生というのは、なんらかの知識や技術を具体的なかたちで「所有」しており、しかるべき対価の代償として、それを「クライアント」に伝授する職業人であると定義するとしたら、そのような関係を「師弟関係」と呼ぶことはできません。つまり、そこでは本当の意味で「学ぶ」ということは成立しないということです。
なぜなら、そのような関係において、習う側は、自分がどのような知識、どのような技術を欠いているのかをあらかじめ知っているということが前提になるからです。…<中略>…

 
ものを学ぶというのは定額の対価を投じれば相当額の商品が出てくる自動販売機を利用することとは違います。
 なぜなら、真の師弟関係において、学ぶものは自分がその師から何を学ぶのかを、師事する以前には言うことができないからです。
(内田樹『先生はえらい』2005)

内田先生はこの本のなかで「学び」には二種類あって、
たとえば、自動車教習所で車の運転技術を習うような一般的な学びと、
真の師弟関係に基づいた学びは違うものだと説明しています。

前者は、誰にとっても共通の知識や技術を習得する学びで、
(たとえば受験勉強に合格というゴールがあるように)
そのレベルや具体的な到達点があらかじめ定まっています。

一方、本質的な学びの場合には、到達点が見えていません。
「学ぶことに終わりはない」という言葉がありますが、
真の学びとは、自分がどんな境地に導かれるのかよくわからぬまま
師の教えによって自分の限界を超えようとする創造的な営みです。

 学ぶというのは創造的な仕事です。
 それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。
 だからこそ私たちは学ぶのです。
 私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。

(内田樹『先生はえらい』2005)

では、そうした本質的な学びを始め、進めていく上で、
先生の果たす役割とはどのようなものでしょうか。
言い換えれば、なぜ尊敬する「師」が必要なのでしょうか。

それは、尊敬する先生が私の“唯一無二性” の保証人だからです。
先生の“真価”や“かけがえのなさ”を弟子たちが独創的に“誤解”して
それぞれに意味を解釈し、学び取ってゆくことができるからです。

 先生は「私がこの世に生まれたのは、私にしかできない仕事、私以外の誰によっても代替できないような責務を果たすためではないか……」と思った人の前だけに姿を現します。この人のことばの本当の意味を理解し、このひとの本当の深みを知っているのは私だけではないか、という幸福な誤解が成り立つなら、どんな形態における情報伝達でも師弟関係の基盤となりえます。
 書物を経由しての師弟関係というのはもちろん可能ですし、TV画面を見て、「この人を先生と呼ぼう」と思うことだって、あって当然です。
(内田樹『先生はえらい』2005)

学ぼうとするものは、自分の先生を見つけなければなりません。

人から「あんな人のどこが尊敬できるの?」と難じられても
たとえ一時の気の迷いや誤解や錯覚であったとしても、
敬愛する人の言葉を信じ、その意味を理解しようとしない限り、
私たちは成熟することができません。

内田先生が語るように、まるで恋をするのと同じですね。

私たちが「あなたはそうすることによって、私に何を伝えたいのか?」という問いを発することのできる相手がいる限り、私たちは学びに対して無限に開かれています。私たちの人間としての成熟と開花の可能性はそこにあり、そこにしかありません。
私が「先生はえらい」ということばで言おうとしたのはそのことです。
(内田樹『先生はえらい』2005)
内田先生がくり返し説いているのは「学びの主体性」、
つまり「人間は自分が学びたいことしか学ぶことができない」という事実です。
いくらエライ先生が素晴らしい授業や講義をしたところで、
生徒一人ひとりが受け取る解釈は違います。話を聴かない生徒もいます。

もちろん理解力の差もありますが、もっと根源的な問題として
生徒一人ひとりの欲望のあり方、学びたいと思っていることが違います。

では逆に、教師の立場から「学びの場」を考えてみたとき、
教師と生徒の関係はどうあるべきなのでしょうか。
別の著書『街場の教育論』から引用してみます。
前回(01)、吉本隆明のいい先生である必要はない」という考えを
紹介しましたが、内田先生も似たようなことを述べています。

 教師がひとりの個人として何ものであるか、ということは教育が機能する上で、ほとんど関与しない。問題は教師と子どもたちの「関係」であり、その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでゆく。極端なことを言えば、教壇の上には誰が立っていても構わない

 
私は「よい教師」を育てるという基本の考え方がそのものが間違っていたのだろうと思います。「よい教師」が「正しい教育法」で教育すれば、子どもたちはどんどん成熟するという考え方が、人間についての理解として浅すぎる。私はそう思います。
(内田樹『街場の教育論』2008)

多くの大人たちは、成績を上げてくれるのが「よい教師」であり、
いい大学に合格させるのが「正しい教育法」だと考えていますが、
そんな教育しか知らない子どもたちが成熟できないのは当然です。

 教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことはできない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。

(内田樹『街場の教育論』2008)

なかなか刺激的な意見です。今の学校はまったく反対で、
先生は生徒一人ひとりを見つめて
<関心・意欲・態度>など
あらゆる面を細かく評価し
、生徒をうまく操作するように
文科省や地教委から強制されているからです。

教師が学ばされているのは、教育制度の改革にともなう
新しい学校運営のあり方や指導法や管理の技術だったりします。
必要かもしれませんが、本質的な学びではありません。

教える立場にあるものは、先生だけでなく親だってそうです。
むしろ、幼い子どもの学びへの意欲や知的好奇心は
家庭内での親からの教えや影響の方が決定的かも知れません。

“欲望とは他者の欲望の模倣から始まる”という理論
( ルネ・ジラールの「欲望の三角形」)を借りれば、
私たちに学びたいという欲望が起動するのは、
「学んでいる」人の欲望を模倣する(まねぶ)からです。

親であれ教師であれ、本やメディアを通じてであれ、
現に「学んでいる」人からしか学ぶ仕方を学べないのは、
学んでいるオトナの先にも、尊敬する師がいることを知り、
そんな「外部にある知」を欲望することが
私の学びを起動させることに他ならないからです。

…「私には師がいた」というのが、教師が告げるべき最初の言葉であり、最後の言葉なのです。 ですから、学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。…この「(その場にいない)師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのです。…

 「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。
(内田樹『街場の教育論』2008)

すでに述べたように、人間は自分が学びたいことしか学ばないので、
教師の仕事とは「学び」を起動させることだと内田先生は言います。

そのためには、教師自身が「私の外部」の叡智を信じ、
学びたいという知への欲望を強く抱いている必要があります。
内田先生が、中学2年用の国語の教科書のために書いた
「学ぶ力」と題する文章には、次のような一節があります。

それは中学生だけでなく、大人にとっても必要な力です。

「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
 この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。
(内田樹の研究室:ブログ「 学ぶ力」
2011-09-02)