やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
食べものをねだる捕虜。
市民は米粒の見えない粥で辛抱。
お話:金崎守、白石孝夫、稲垣登志子、
山下厚生、椎葉義光、山崎千代(敬称略)
金崎:
八幡製鉄にもたくさんの捕虜がいました。戦争に負けて連れて来られているという感じはなく、わりにのんびりしていたように見受けられました。
 
白石:
ある日、捕虜の飯盒(はんごう)の中身を見ました。馬鈴薯(ばれいしょ)をゆがいたものでした。これが彼らの昼食かなと思いました。
 
金崎:
私が見たのは、馬鈴薯大根の煮たのでした。また、彼らは大豆を上手にふくらましてスープのようなものを作っていました。大きな男ばかりで、凄いなーといつも見ていました。
 
稲垣:
建物疎開で家を崩している時、捕虜が手伝いに来ていました。その中に陽気な人がいて、アスファルトの道路でタップダンスをしていました。そして私たちに見ろと言って、終わった後、何か食べ物をくれと言って、ねだっていました。
 
山下:
私は終戦の翌年、小学校に入りました。当時のことは割合はっきり記憶しています。小倉と八幡の中間くらい、山の中の一軒家に住んでいました。電気もないところでした。食べ物のない時代でしたが、はなかったけれども、雑穀イモカボチャ果物などには不自由しませんでした。戦後は町の方から買い出しに来ていました。ヨモギまでも買いに来ていました。
8月8日の八幡空襲の直後、腹の中に蛔虫(カイチュウ)がわき、母に連れられて仲町の病院に行きました。その時、見渡すかぎりの焼け野原で、ひどい状況を見た記憶があります。
 
吉田修:
昔は蛔虫(カイチュウ)がたくさん腹の中にわきましたね。学校で虫下しを、何と言いましたか、海人草でしたかね、みんな飲んでいましたね。
 
椎葉:
戦争が始まった昭和16年が9歳、終戦の年が13歳でした。勉強よりも軍事教練や防空壕掘り、出征兵士の留守農家での農事奉仕、八幡製鉄所の尾倉鋳鋼へ学徒動員として行っていました。食料難時代の思い出もたくさんあります。遠くの田舎へサツマイモを買い出しに行き、せっかく持ち帰ってきたものを取り締まりの警察官に取り上げられたことや、海に沈んで臭くなった大豆米糠(ぬか)で作ったパンを食ったことなど、苦しい時代でした。親はたいへん苦労しただろうなと思います。
 
山崎:
米のご飯なんて、1カ月に1回くらいがやっとでした。しかし子供たちには、米粒がどこにあるのかわからないほどの粥(かゆ)でしたが、毎日食べさせていました。
 
金崎:
買い出しで買って来たメリケン粉と、イモをお互いに持ち寄り、会社で電気パンを作って食っていました。
 
白石:
陣の原の屠殺場から、牛の頭をもらって来て、大きな鍋に塩水を入れてスープを作ったり、轟沈(ごうちん)大豆を塩酸で煮て、ソーダ灰で中和してアミノ酸醤油を作ったり、海水を蒸すを作ったりしました。
 
山下:
小学1年生のころ、学校の運動場はぜんぶイモ畑で、運動会などできませんでした。