やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
日本人一人ひとりの目、口が最大の敵であった。
 当時、私は12歳小学校6年生、八幡市枝光北本町8丁目(現在荒手町2丁目)戸畑市と八幡市の市境付近に住んでいました。昭和19年6月15日18時頃、突然けたたましく警戒警報のサイレンが鳴りました。しかし戦勝ムードの当時、これが本当の空襲なんて夢にも思いませんでした。…16日午前2時頃でしたか、約20世帯全員が一瞬にして変わり果ててしまいました。
 
  後日わかったのですが、町内に3発の50キロ爆弾が投下されていたそうです。その中の1発は、私がいた所から5メートルしか離れていませんでした。罹災者は約50人。無傷で助かったのは、私一人だけでした。…四方八方から「助けて…助けて…」と地の中から断末魔の叫び声がしていた。現在でも私の脳裏にあの悲痛な叫び声は、はっきりと、残っている。…

 5時頃やっと消防団が救助作業を開始した。九死一生を得たのは私たち親子を入れてわずか11人でした。40数人が、むなしく死んでいったのです。罹災後は本当に苦しい毎日でした。罹災現地では、「どこかの家に明かりがもれていたので、ここに爆弾が投下されたのだろう」と言いながら救出作業を続けていた。しかし、ほとんど死亡していた。

  当時の敵はアメリカである。だが初空襲であったせいか、一般の人々の目は、私たちには冷たかった。疎開するまで(19年9月疎開)私たちにとっては、日本人一人ひとりの目、口が最大の敵であった。この手記を、心ある人が一人でも、二人でも読んでいただけたら、数十人の霊は、戦後が終わるのではないでしょうか。

※自由落下爆弾は正確な狙いを定めることができず、偶然そこに落ちたと推測される。
(手記1 ―八幡市枝光にて被災― 近藤道夫)より抜粋