やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
枝光での空襲体験。
戦後の墨塗りとDDT。
お話:近藤逸子さん:(昭和13年生まれ)

     戦争が終わったときは、おいくつでした?

昭和13年(1938年)生まれだから、
前年に日中戦争がはじまって、
まだ日本が勝ち戦さの頃よね。

昭和16年(1941年)の12月8日が太平洋戦争でしょ?
そのなかで小学校に入って、小学校2年のときに敗戦。
だから戦争を知ってるのよ。

     生まれは枝光ですか?

そう。小学校2年生のときに体験した
戦中の出来事だけは、強く心に残ってるのよ。
その後のいろんな出来事は、忘れてるんだけど。

     それだけ強烈な体験だったんですね。

だって、爆弾で隣の人がみんな死んだんだから。
そのとき、隣の家族はね、
近所の大工さんがつくった頑健な防空壕があって、
そこに入ってたの。

で、その防空壕の上に爆弾が落ちたの。
忘れもせんけどね、私より一つ年上の
すみちゃんって子がおったのよね。その子も亡くなった。

     そのとき、ご家族は?

ウチの父は、徴用されて黒崎の方に
連れて行かれとったのよ。
で、行く前に防空壕を掘ってくれてたので、
私たちはそこに入ってたのよ。

そしたらなんか、わーっと揺れて、そこから記憶があるのよ。
砂ぼこりやら入ってきて、目も開けられないような状況で。
ちょうどそのときに、お隣に爆弾が落ちたわけよね。

そして、回りがだんだんわかるようになったときに、
ちょうどそのときは親戚のおじさんが来てたんだけど、
震えてしまって、ぜんぜん物の役に立たんの。

でも、私たち子どもを抱えとる母親は強くてね、
私たちが怖がっていると、口のなかにね、
一つずつキャラメルを入れてくれたの。
そんなことやら鮮明に覚えている。

     気丈なお母さんですね。

そしてね、恐る恐る外に出ていったら、
爆弾で吹き飛ばされてたの。

それでね、飛ばされた遺体を探しに歩き回るのよ。
母がね「あんたはついてきたらいけん」と言って、
私は押しもどされたけどね。

聞いた話によると、屋根の上に飛ばされとったり、
電車道に落ちとったり、電線にぶら下がっとったりね。

     あー、からだの一部が。

うん。そんな話を聞いた。
けどね、昨日まで、というより空襲警報の前まで
いっしょに遊んでいた子でしょう、ねぇ。
それはやっぱりショックやったね。

ウチの家も傾いてしまってるので、
兵隊か誰かわからないけど、とにかく家を崩すわけよ。
だから、私の家族は、父と中学生だった兄を残して、
私と弟と妹と母の4人で両親の郷里だった鹿児島にね、
疎開したの。

―――鹿児島の疎開先ではいかがでした?

小学校に行くのに1里、約4キロあるのよ。
小学校2年やったけどね、歩いていってたよ。

その田舎が男の子ばっかりでね、みんな裸足なのよ。
「まだあなたは慣れるまで靴はいてきていいよ」って、
先生が言ってくださったけど、
私はけっこう負けん気が強かったからね、
翌日から裸足で行ったよ。

―――痛かったでしょう?

いや、痛くはないんよ。
ただ鶏の糞が落ちてて、それがいやだった(笑)。
でもね、戦争の終わる頃には、
そこも安全なところではなくなったの。

―――鹿児島は、米軍が上陸してくると
いわれていたところですしね。

そう。それでね、もう敵機が低空飛行で
田舎道を歩いてる人を撃つような状況になったの。

で、危ないので午前中の1時間しか授業がなくなったのよ。
たった1時間の授業を受けるために、学校に行ってたよ。
女の子は誰もいなかったら、
私一人で行って帰ってきてたけどね。

そしてある日、あれは何月だったんだろう、
8月が終戦だから、5月だったか6月だったか、
隣村に焼夷弾が落とされて、燃えているのが見えるのよ。
田舎だから大丈夫と思ってたらね。

その翌日、隣村まで見にいったら、
小学校の講堂にいっぱい寝させられとるのよね、
うめき声がいっぱい聞こえてきたのも覚えとるよ。

そんなことがあって戦争が終わったのよ。
そしたら敵兵が上陸してくる、
どんな目に会うかわからんというわけ。
それでね、みんな山の中に逃げたのよ。

―――それは突然、みんな逃げろというような話で?

そうそう。誰の指示だったか知らないけど。
でも、ウチの母は行かないって言うの。
どうせそんなとこ行ったって、
永久に山の中で生活できるわけじゃないしね。

だけど、私たち子供がおるもんやけ、
山の中で蚊帳を吊ってね、一晩を過ごした覚えがあるよ。

田舎におるときは、空襲警報が鳴っても
大丈夫という気持ちがあって、防空壕はないわけよ。
ところが、まだ幼かった私の弟は、
防空壕に連れていかんとだめなのよ。
警報が鳴るとガタガタ震えだして止まらんの。

枝光での怖かった体験がね、カラダにきてるわけ。
それを静めるために、裏山のほら穴に連れて行きよったよ。

―――条件反射で、震えてしまうんですね。

まだあのとき弟は3つよ。すごい恐怖体験よね。
戦争が何なのかも、なんにもわからん子がこうなるんよ。
で、ほら穴に連れていくと震えが静まるの。
幼いながらに大丈夫と思うんやろうね。
何もわからない子がねぇ。
戦争っちゃ、そんなもんよ。


     戦争が終わった後は、いかがでしたか。

9月には、鹿児島から枝光に帰ってきたけどね。
もう、何にもないよ。

小学校はあるけど、それこそ2交替制みたいなことで、
運動場で勉強したりとかだったよ。

     墨塗りとかもやられたんですか?

ああ、もちろん。教科書は墨塗り(笑)。
で、モノがない時代じゃない?
学校でね、いわゆる配給があるわけ。
靴とかなんとかも、クジ引きでね。

あとね、 戦後は不衛生で頭にシラミがわくのよ。
授業中、前の席の女の子の首をシラミがはうのを
見ていた覚えがあるよ。

私も母から目のつまった「すき櫛」で
髪の毛をすいてシラミをとってもらったのよ。
今思い出すと、背中がかゆくなるね(笑)。

     あー、シラミですか。DDTでしたっけ?
何か薬をまいてる映像を見たことがあります。


そう、学校では皆一列に並んで、先生からDDTを頭の中に
「シュー、シュー」と吹き込んでもらってた。
皆、真っ白な頭で授業を受けたよ。
シラミは生命力があって、それでも簡単には死なないのよ。

荒手町の上の方には、まだ家がなくてね、
そこを耕して畑にしてサツマイモを作ったりしてた。
そのイモが給食になるわけよ。
机に向かっての勉強よりも、そういうことの方が
面白かったかな。

     戦後の混乱期に、小・中学校の時期を過ごされたんですね。

私よりちょっと上の成長期だった人たちの方が、
つらかった思いをしてるやろうね。
私はね、家が商売をやってたから、
いよいよお腹がすいたという経験はないのよ。

もちろん、芋を食べたり、麦飯食べたりね、
そういうことはやってたけどもね。
1日に1回くらいはお米を食べた記憶はあるわけ。

だけど学校に行ったら、
みんな破れたのを着たりしてるのは当り前だった時代よね。