【Interview】2007年9月19日
こういう育児休業が
とれるようになったのも、
一つの文化遺産だということ。
近藤 逸子 先生

◆歴史を学びたくて、京都女子大へ

―――若い頃から、将来は教師になりたいと?

私はね、別に教師になりたいと思ってなかった。
というか、教師なんて偉い人がなるものと考えていたから
自分はなれん、というような感じやった。

―――当時の学生の進路というのは?

私の頃は1校1区制でね、通っていた枝光中から
受験できる県立の普通科は、八幡高校しかなかったのよ。
商業科とかは自由だったけどね。

―――あ、そうなんですか。

私が八幡高校に通いよったときは、
10クラスのうち4クラスが女子やった。
その頃はまだ男女が別々のクラスだったからね。

女子のなかでも大学に進学するのは4分の1以下やったよ。
私たちの時代は、成績のいい人たちでも
大学に行ってなかったもんね。

―――まだ高校や大学への進学率が低かった時代ですね。
(※:昭和30年頃の高校進学率は約50%。大学進学率は男子約13%、女子約5%)

とくに女子はね。その点は、やっぱり家の経済状況というのが
大きい要素になるわね。

―――京都女子大で、T先生の10年後輩にあたるとか?

そう。私は歴史科に進みたくて。国立は試験科目が多いし、
試験勉強もそんなにやろうという気がなかったからね(笑)
なんでか女子大に行こうと思って見たら、
東京女子大と京都女子大の2校しか歴史科がなかったのよ。

―――あー、歴史を学ばれたんですね。

そう、日本史。京都女子大は私大のなかでも
割合に授業料が安かったし、場所も京都だしね。
最初に授業を選ぶ段階で、一応資格としてね、
ほかに何もないから教職課程をとっとこうと思って。
で、4年生のときに京都の中学校で教育実習に行ったのよ。

―――京都で教育実習だったんですね。

そこではじめて教師をやりたいと思ったのよ。
それで、こっちに帰って採用試験を受けたわけ。

ちょうど卒論の前の忙しい時期と重なってね、
それこそ京都から帰ってくる列車の中で、
教員試験の本を広げたりしてから。

最初は
14クラスの熊西中に赴任

私が大学を卒業して教職をめざしたのは、
いわゆる"団塊の世代"が中学生になる頃で、
生徒の数が増える頃だったの。
だから、幸いなことに私も入れたのよ(笑)

―――教員の採用も増えた時期なんですね。

最初に行った熊西中なんか、14クラスもあったのよ。
とにかく生徒数が多くてね。1クラスの生徒が
50人以上おったんよ。教室はいっぱいいっぱいよ。

先生も多くて、60何人かおったよ、
職員室も2つに分けてから。それでね、
教員の "チョンガー会"というのがあって。

―――独身の先生の会ですか?

そう。その"チョンガー会"だけで、
教員が25人もおったのよ。
うちの夫もその一人やったんやけどね(笑)

―――そこで知り合われたんですか?

うん、そうそう(笑)。
最初の熊西中に6年おって、そこで上の子を産んだのよ。
私たちの頃は産前6週間、産後8週間の産休やったけどね。
今の教員は、さらに3年間育児休業をとれるから、
育てやすくなったと思うわ。

―――昔にくらべたらですねぇ。


でもね、10年先輩のT先生の頃は、
赤ちゃんを産んだとき、家に校長と教頭が来て、
てっきりお祝いに来てくれたと思ったら、
「いつから出てこれるか?」と聞きに来たんだって。
そう言って笑ってたよ。

◆育児休業制度も、一つの文化遺産

今はもう「日教組」といったら
日本の教育をダメにしたみたいに言われよるけど、
そんな話を聞いて、私も色々思うことはあるけどね。

その時代における役割というものがあるじゃない?
私が教員になった頃は、入るか入らんかやなくて、
教員になったときは、もう組合員やったんよ。

―――教員になられたのは、昭和何年くらいですか?

昭和35年。その頃には、教頭やら上の試験を受けるのも、
組合の推薦がないと受けられんみたいなこともあったわけ。

―――ああ、そうなんですか。

今になったら、それもどうかとは思うけどね。
それが民主的だと思ってた時代よね。で、まだその頃は、
教頭やら校長になる試験もなかった時代なんよ。
今は、試験があるのが当り前やと私は思うけどね。

そんな状況のなかで、だんだん組合に入らない人が増えてきた。
でも私はそんな人に無理に入れとは言わんかった。
ただ私がひとこと言ってたのはね、 こういう育児休業が
とれるようになったのも、一つの文化遺産だということ。

―――上の世代が残してくれたものだと。

たとえば、先輩の先生たちは、お産をした途端に
「いつから出てこられるか?」といわれる。
それが私たちの頃には、産前6週間、産後8週間休みがとれた。
枝北におった頃は、1年間の育児休暇がとれるようになっとった。

そういうのは、先輩の組合の先生たちが運動してくれたおかげよ。
そして私たちが運動して、今では3年の育児休業がとれる。
でも私はその恩恵は受けてない。

―――遺産ですよねぇ、やっぱり。

それが文化遺産ということだと思うよ。だからね、
組合に入るとか、入らんとかはあなたの自由だけどね、
それはけっして天から降ってきた権利やないということだけはね、
ちゃんと胆に銘じとってね、というのは 若い人たちに
よく言ってたけどね。

―――さっきの“長髪問題”と同じですね。

(つづく)