【Interview】2008年3月4日
のんびりと南の島でね、
酋長さんの娘と結婚して…と、
そういう夢を持っとった。(笑)
近藤 魁 先生

―――先生は、お生まれはどちらですか?

小倉。金田ってあるでしょ?
どうやらあの辺で生まれたらしいね。
僕は覚えてないけど、戸籍を見るとそうなってる(笑)。

生まれて何ヶ月かして福岡に移って、それから長崎。
両親ともに長崎の五島のね、福江の生まれだったの。
長崎の後は四国の高松。そこで幼稚園に入って、
それから大阪の隣に吹田ってあるでしょ。そこの小学校に入学。

―――小学校までに、ずいぶん変わったんですね。

うん。小学校に入ってからも、5回変わっとる。
親父が保険会社で、転勤が多かったのよね。
小学校
4年生の2学期くらいに八幡に来て、
その後からはずっと八幡ね。

数学が苦手で、大阪外語へ

―――先生は大阪外語で、司馬遼太郎さんと同期だったとか。

そう、彼は蒙古(モンゴル)語で、僕は中国語。
同じ一年生で、隣の教室だったらしいんよ。
で、彼が時々僕たちの教室に来てね、
みんなの前でいろんなことを面白おかしく、講談みたいな話を
しよったとかいうんやけどね。僕はあまりその記憶がない。

―――魁先生は、どうして大阪外語で中国語を学ぼうと?

あ、僕? 他に行くところがなかったの(笑)。
というのが、中学校のとき、数学がものすごく苦手やったの。
で、入学試験で数学のない学校を必死になって探したわけよ。
そしたら大阪外語が一校だけ。
で、ここしかないと思って受けたわけ。
入ってみたら、そういう人間が集まっとった。
だから司馬遼も、あれ、数学が苦手なんよ(笑)。

―――当時は何人くらい生徒がいたんですか?

当時、中国語はとくに需要があって1クラス35人で2クラス。
他の外国語は、15人とか20人くらいで少ないのよ。

本当はね、南方諸島のマレー語というのがあって、
そこを受けたかったのよ。のんびりと南の島でね、
酋長さんの娘と結婚して…と、そういう夢を持っとった(笑)。

で、親父にマレー語を受けたいち言うたら、
親父が「だめっ」ち言ってね。外語を受けるんやったら、
ロシア語か中国語しか受けさせんって言うんよ。

そやから一晩考えて、ロシアは寒いと。
僕は寒いのは苦手なんよ。
中国語やったら南の暖かいところもあるからね、
中国語の方がいいかな、と思って受けたんよ。
だから、非常に単純な話なんよね。

―――なるほど(笑)。学生の頃は、
戦争でいうとどのくらいの時期ですか?

もう終り頃。卒業したのが昭和19年。
だから、学生時代はだいたい楽しいもののはずやけどね、
僕たちの頃はあんまり楽しくはなかったね。

どうせ卒業してもね、兵隊に行かないかんからね。
兵隊に行けば長くて3年、早ければ1、2年で戦死というのは、
みんな覚悟決めとったことよね。そういう時代やったね。

◆士官学校を出て、広島師団へ配属に

―――卒業されて、すぐ召集ということになるわけですか?

僕は入営ではなくて、士官学校。
特別甲種幹部候補生という制度があったんよね。
略して「特甲幹」というんやけどね。
それが昭和19年に最初に募集があったのね、陸軍と海軍と。

―――というと、第1期の候補生?
 
うん。で、そこで1年間訓練を受けたら将校になれるんよね。
将校のなかでも一番下の少尉やけどね。
そういう約束があったから、この方が楽だろうと。
で、海軍と陸軍の両方を受けたら、陸軍の方が通ったわけ。

最初は卒業まで1年間の予定やったけど、
愛知県の豊橋にあった士官学校を
繰上げで半年で卒業したのが昭和20年の3月かな。

そして広島師団に配属になって、いよいよ、
島根県の浜田にある21連隊に配属になって行ったわけ。
連隊のなかは召集した兵隊で満員なんで、
僕らははみ出たような格好で出雲の近くにある
「知井宮(ちいみや)」の国民学校に駐屯することになった。

―――先生の所属部隊は?

僕は重機関銃中隊。重機は30キロぐらいあって、
それを半分に分解して担いで走るんやけどね。
今考えたら、とてもあんなことしきらんと思うんやけど、
当時は必死になってね。

―――毎日毎日、訓練されるわけですよね。

そうそう。出雲の方に駐屯になったというのは、
ロシアから攻めてくるのを防衛するためやろうね。
でも、武器がないんよ。数が足らんし、弾もないんよね。

(つづく)