【Interview】2008年3月4日
少しおさまったころ、
じわーっと動きだしたんやけど、
そのときはもう全身火傷よ。
近藤 魁 先生

◆8月6日午前8時15分、ヒロシマで

兵隊の最後のとき、僕はもの凄い経験をしとるのよね。
広島におったわけ。

―――同窓会のとき、少しお話をしてくださいましたね。

広島の原爆が8月の6日、午前8時15分ね。
僕はあれが落とされる30時間前に広島に着いとるのよ。

広島で見習士官の集合教育をするというので、
中国地方の各地の連隊から見習士官が集められたわけ。
5日に開講式をやって、翌日が6日よね。

午前8時に集合して、150人が3つの区隊に分かれた。
で、その日の予定とか、そういう話が区隊長からあったわけ。
第1と第2区隊は先に終わって、練兵場の方へ向かった。

僕たち第3区隊は、話の途中で兵隊がやって来て
なにか区隊長に耳打ちをした。
急用が出来たのか「 みんな一時解散!」ちゅうて、
区隊長は兵舎の中に入っていった。

解散になったんでそれぞれ自由にしとって、
僕は動くのもめんどうだから、
集合した兵舎の前にぼーっと立っとったんよ。
それがちょうど8時15分くらい。
そしたらパーッち光ったわけ。
だから僕は、直撃を受けとるわけやね。

―――うはぁ。

建物の影におった者は、わりによかったのよね。
でも、僕は直撃。左上からパーッと来たのを覚えている。
僕は訓練を受けとったから、目と耳を押さえて地面に伏せた。
もちろん光の方が先やから、遅れとるけどね。

5分か10分くらい、あたりは真っ暗。
砂とかゴミが舞って何も見えないくらい。
少しおさまったころ、じわーっと動きだしたんやけど、
そのときはもう全身火傷よね、とくに上半身。
この指もね、今でも少し痕が残ってるけどね。

―――意識ははっきりしていたんですか?

意識ははっきりしてた。で、建物は木造の兵舎だから
爆風で倒れて、しばらくしてから燃え出した。
倒れた兵舎から「助けてくれー」という声が聞こえるわけよ。

本当なら行って、材木やらのけて助けてやらないかんけど、
火傷で手の指が握れんし、ものが掴めないからどうしようもない。
しかも、火が燃え出したから熱いんよね。火傷してるし、
熱いでたまらんから仕方なくそこから遠ざかってね。
あれはもう、どうしようもなかったね。

第1、第2区隊生は、先に四列縦隊で行進しよったけど、
僕たち3区隊生が熱風を避けて逃れる時に、
彼らが整然と、黒焦げのまま横倒しになっている傍を
心の中で手を合わせながら通った。
壮絶、非情な瞬間だった。

―――……その後は?

タコツボってわかる?地面を掘った簡単な防空壕ね。
そのタコツボが近くにあったから、そこに入った。
いつごろから一緒やったのかはっきりせんのやけど、
もう一人の戦友と。彼は不思議と怪我一つしてなかったんよ。
たぶん建物の影におったんやろうね。

で、元気やった彼に僕は頼んだ。
「僕がこんなやから、どうなるかわからんから、
そばにおってくれ」ち言うて。
そしたら彼は「いいよ」と言ってくれてね。

一時間くらいたって雨が降り出した。 "黒い雨"よね。
それで、飛んできとったトタンを被せて屋根にした。
その後、僕は寝てしまった。そのまま昏睡状態。

翌朝、目が覚めたら、彼は外に出て兵舎の焼け跡から、
真っ白なご飯を持ってきてくれた。
火事でキレイにご飯が炊けとるんよね。
それを「食べんか?」ち言うてくれたけど、
僕はぜんぜん食欲がなかったから「いらん」ち言うて。
そんなことで2晩くらいして、
その場所に掘っ立て小屋を建てた。

―――兵舎があったのは、爆心地からどのくらいの距離なんですか?

1kmくらい。だから僕の被爆者手帳にも1kmと書かれている。

被爆した後、6日ほど経ってからトラックで、
宇品(うじな)の港の近くの船舶兵兵舎に収容された。
兵舎の窓ガラスはぜんぶ割れとったね。

そこで8月15日の終戦のラジオ放送を聞いた。
10人ほど集まって今から何か放送があるらしいというので、
僕も聞いたけど、実際はザーザー雑音が入って聞こえなかった。
後で、終戦の放送だったらしいと聞いて。

その後、1週間ほどして岡山の陸軍病院に移された。
8月の終り頃だと思うんだけど、
その陸軍病院で1週間くらい経った頃、
僕びっくりしたんやけど、両親が病院に来てくれたわけ。

―――その当時、ご両親は福岡に?

そう。あの頃はね、列車に乗るのにも切符が買えんでね。
何か特別な事情がないと。もちろん食料もない頃で、
よく来てくれたなぁと思ってね。

聞くと、僕が浜田に駐屯しとった所に親父が行ったら、
広島に行っとると。で、広島に大きな爆弾が落ちて、
僕がやられとるらしいと聞いたもんで、
いったん福岡に帰って、母といっしょに二人で
僕を探しに広島に来たらしいんよね。

幸いなことに広島駅の、駅といっても爆風でやられて
何もないんやけど、テントに兵隊の名簿があったのかな。
それを見たら僕が岡山の陸軍病院に移されているとわかって、
それで来てくれたんよね。

で、2、3日したら陸軍病院の院長が
いよいよアメリカが上陸してくるので、
この病院もどうなるかわからん、責任がもてんと。
だから、動ける者はなるべく自分の故郷に帰ってくれと。
それを聞いて両親も福岡に帰った方がいいと思ったんやろうね。
帰っても困るんやけどね。医者も治療の方法がわからんのに、
素人やったらいよいよどうしていいかわからんしね。
でもまあ、一応帰ろうということになって。

―――歩くことは歩けたんですか?

なんとか歩いたけど、ほんとはきつかったね、その頃は。
広島から岡山の陸軍病院に行くときも、
僕がいちばん状態が悪くて病院の車に乗せてもらっていった。
そのときは僕もちょっと参っていたね。

帰る時、岡山駅で、タコツボで僕を看てくれた、
たしかトヨシマ君(名古屋出身)と別れた。
その後、彼のことは全く分からない。

―――福岡に帰ってきてからは?

どうにかこうにか福岡に帰って、幸いなことに
両親が間借りしとった住吉の家の近くに病院があって、
院長さんは軍医で出征してまだ帰ってなかったけど、
息子さんだったのか、九大の医学部の学生がいて、
その人に学校帰りに立寄って僕の様子を見てくれとお願いして。

福岡に帰って4〜5日目くらいだったか、
僕が洗面器に2杯くらいの血を吐いてね。
その医学生に話をしたら、
輸血をせんとだめということになってね。

―――あー、輸血をですね。

近くにあった軍隊関係の病院に入院したけども、
輸血をしてもらう人がおらんの。僕はA型なんよ。
でも両親は違うし、近くにそういう人もいない。

これは困った、どうしようかというときに、
幸いに私の知っている女性がA型やった。
「私いいですよ」ちゅうてね、輸血をしてもらった。
それで1ヶ月ほど入院しとったけどね。

―――なんとか一命をとりとめたんですね。

その女性は、僕よりも一つ年上やったかな。
僕に言わせると命の恩人なんよね。

―――それからの回復の過程は長かったですか?

退院してもしばらく家で動けないからね、
半分寝て起きてみたいな格好で。で、年が明けて
昭和 21年の3月頃かな、いつまでも家でボーっと
しとっても、ということで勤めに出ることになった。

―――同窓会のときに、広島での体験を
ずっと黙っていたとおっしゃいましたが、
やはり複雑な思いがあるのでしょうね。

というのがね、原爆は自分の子供や孫にも
原爆症が続くかもわからんと言われとったから、
それも一つにはあったね。
なるべく人には話さないでおこうとね。

もう一つは、自分の経験を聞かれた場合は、
なるべく話をした方がいいんかな、と思ってきたわけね。

新聞なんかで戦争の思い出を語る人がおられる。
僕たちが思いもつかんような過酷な経験をされている。
僕の体験も、そういう一つとして伝えておきたいという
気持ちがね、だんだん歳とって出てきたわけやね。

―――それはぜひ伝えていただきたいです。

僕たちの年代の義務というかな。
ほんとは、僕が学校で教えとった頃、
子供たちみんなにそういう話をしてあげた方が
よかったかもわからんけどね。
今になっては、どうにもできんからね。

―――お話を聞くことができてよかったです。

しかし、思い出すのはつらいね。
まあ、こっちの記憶もだんだん薄れかかってはいるけど、
やっぱりあのときのことを思い出すのはね。

といって、僕は戦後、英語を教えて生活してきたけど、
アメリカを憎いとは思わなかったね。
むしろ、日本の東条さんや軍部の責任ね、
今にして思えば、罪は深いなぁと思うよね。

(つづく)