【Interview】2008年3月4日
恩師との再会で英語教師に。
それまで学校で教えるなんて、
夢にも思ってなかったよね。
近藤 魁 先生

◆この仕事は無理だと、会社を辞して…

―――朝日新聞への投稿に「就職と同時に北京事務所勤務の辞令をもらった」とありましたが…。

僕は、炭鉱会社の日鉄鉱業に勤めとったの。

―――北京への辞令をもらったのは兵役の前ですか?

そう。大阪外語を卒業するとき、士官学校に行く前やね。
兵役で北京事務所には行けなかったけど、
終戦の頃、同じ日鉄鉱業の事務所が福岡にあって、
僕は入社して籍があったから、
終戦の翌年に親父と一緒にそこに行った。

これこれこうで、広島で原爆に遭って、
どうにか動けるようになったから、
おたくの会社で働きたいと思いますと事情を説明したら、
福岡の事務所は人手が余っているので、
飯塚の二瀬鉱業所に行ってくださいと言われて行ったわけ。

―――飯塚の二瀬鉱業所ではどんなお仕事を?

僕は庶務の仕事をしよった。
そうすると、だいたい炭鉱の様子がわかるわけ。

―――なるほど、会社の全体像がですね。

だいたいこれから先、何年くらい石炭がとれるかな。
あと20年くらいしたら、炭鉱はだめになるなとか。
その頃、僕の歳が20いくつやから20年後は、40くらいでしょ。
いちばん働き盛りのときに会社がつぶれたら
どうしようかなと思ってね(笑)。
そこまで考えて、これは早く辞めたほうがいいかなと思いよった。
で、ちょうど3年経ったときに、配置転換があるわけよね。

―――ええ。その次はどの部署に?

人事課に「希望はどこかね」と聴かれたので、用度係。
用度というのは会社で必要な品物を購入する係よね、
そこに知った人もおったから、一応そこに希望を出したんよね。
それがいよいよ発表になってみたら労務係やった。

労務係というたら、炭鉱の社宅に詰め所があって、
そこで工員さんたちのいろんな苦情を聞いたり、
夫婦喧嘩の仲裁役をするわけよね。
だから、かなり力がないとできんのよ(笑)。

で、この仕事は僕には無理やと思って、
いよいよ辞めた方がいいなと思って、
ちょうど3年で、八幡に帰ってきたんよね。

―――そうするとまだ24、5歳くらいの頃ですね。

で、こっちに帰ってきてね、 八幡小学校の頃の同窓生で
5〜6人、悪そう仲間がおったんよ。僕はいい方よ(笑)。
で、集まって担任の先生のところに
遊びに行こうということになって。

で、みんな終戦になって初めて顔を合わせるようなことでね。
卒業以来だから、お互いに今何してる?という話になって。

―――昔の悪そう連中は、何をしていましたか。

みんないいとこ勤めとった(笑)。
市役所とか、建設会社とか。お店をやったりとか。
みんなそれぞれ活躍しよるんよね。

で、「近藤は、何しよるんか?」と聞かれて、
僕は辞めたばっかりやったんで、今は無職と言うたらね、
中学の校長になっとった先生が
「お前ちょうどいい。うちの英語の先生が来月辞めるけ、
お前来い。英語教えきるやろ。」ちゅうて。

英語を教えられんことはないと思ったけど、
そんなに自信はなかったね。
けど、先生がそう言うてくださったからね、
ちょうどいいわと思って、高見中学校に。

―――それが縁で、教職の道に?

そう。それまで学校で教えるなんて、
ぜんぜん夢にも思ってなかったよね。

―――面白いもんですね。教えはじめた頃はいかがでしたか?

今でも覚えているのが、英語を教えるようになって、
教科書をもらって開いてみると、
ビックリしたことが二つあったね。

一つはhave動詞。僕が中学校で習った英語は、
You have….の疑問文は、Have you…?やったんよね。
ところが教科書は、Do you have…?になっとるやろ。
これは教科書が間違うとると思ったよ。

もう一つは、未来の助動詞。僕たちは、shallとwillとね、
それぞれこういうときに使うと習ったんよね。
でも教科書には、shallがぜんぜん出てこないんよね。
willばっかりで。これもおかしい、間違うとると(笑)。

後で聞いたら、今はDo you have…?としか言わんし、
shallも使わんと。
まあ、そんなことが教えながらもいろいろあったねぇ。

―――では、最初が高見中の英語の先生?

そう。高見中に10年、その後は中央中、尾倉中、そして枝光北中。
枝北にも、10年くらいおったね。

―――北中で何か思い出に残っているエピソードは?

僕が学年主任だったころね、
修学旅行に行く前に小遣い銭が決まっとるよね。
まだ1,000円か2,000円くらいやった頃の話やけど、
旅行先で色々回ってるときに、違反しとるのがバレるわけ。
これはぜったいに小遣い銭以内ではおさまらんと。
お土産をいろいろ持ってるからね。

で、帰りの汽車の中で、担任の先生に調べてもらったら、
3分の1くらいの生徒が小遣いを余計に持ってきとった。
それがわかったもんやから、枝光駅で解散するときにお説教ね。

生徒らの親もたくさん駅に迎えに来とるし、
疲れとるし、みんな早く解散したいと思うとるわけよね。
それはわかってるけど、ちょっと腹に据えかねたもんやからね、
繰り返し、繰り返し生徒に説教したわけ。
そしたら横におった先生が、早よ止めてくれと
袖を引っ張るわけよ。それを無視してね(笑)、
長々と説教したことを覚えてる。

もう一つは、僕個人のことやけどね、
枝北におったとき、初めてアメリカの英語の学校に行ったんよ。

―――それは研修みたいなことで?

そう、1976年。アメリカのバッファローに6週間。
ちょっと2ヶ月近くだからね。
夏休みに入る2週間ほど前に出発しないといけないから、
生徒には自習のプリントを2週間分用意して
級長に頼んでいったことがある。

―――1976年というと、僕らの学年が入学する前年ですね。

そうなるかね。その英語の学校には世界中から来とるわけ。
みんなアメリカの大学に留学するための
TOEFL(トーフル)という試験で高得点をとるために。
僕は大学に行くとかじゃないから、気は楽だったけど。

そのとき大学寮の同部屋やった人はポーランドから来とった。
僕は50近くて、そっちは30くらい。で、別れた後も
手紙のやりとりをして、今でもメールをやりとりしてる。
彼は今オーストラリアにおって、
2005年の9月に家内と会いに行ったよ。
ちょうど今年の3月に彼には二人目の孫が、
僕にもやはりこの3月に、初めてのひ孫ができる予定なんよ。

―――えーっ、ひ孫さんですか。おめでとうございます。海外に出かけたり、メールをしたり、とっても活動的ですね。今日は貴重なお話をありがとうございました。

(了)