【Interview】2008年4月18日
あの頃、枝北中の文化祭は
かなりのレベルの劇を
しよったですもんね。
安永 祐一 先生
【プロフィール】
1938(昭和13)年、台湾生まれ。終戦の翌年、8歳のときに両親の故郷である鞍手に引き揚げ。鞍手高校→福岡学芸大学(現・福岡教育大)美術科を卒業後、1962(昭和37年)から教職に就く(担当教科は美術)。熊西中→折尾中→枝光北中(1971年4月〜1979年3月)→上津役中→香月中→永犬丸中。1999年定年退職。枝北中では、近藤逸子先生とともに生徒会の指導にあたる。

◆運転免許の試験が、生徒につつぬけ

―――僕らの学年は18期生なんで、
先生が枝北におられた最後の2年間ですね。


枝光の駅からずーっと坂を上がっていくと、
まだあの頃は旭硝子(あさひガラス)の社宅があって。
「安永先生が行かれよるから、
今、何時頃ちゅうのがだいたいわかる」
というような話を父兄から聞いたことがある(笑)。

僕は小竹(※直方と飯塚の間)から来よったんで、
通勤時間はずいぶんかかったけど、
枝北は生徒もよかったから
苦にはならんやったですもんね。8年通いました。

―――当時は車ではなく、電車通勤だったんですね。


枝北の最後の年に、車の免許を取りにいったんですよ。
教員のなかでは遅かった方ですね。

―――お幾つのときですか?


40歳ですね。折尾中の時にも取る機会はあったけど、
先生がみんな取りに行きよったから、
あんまり学校をあけるのも悪いということで、
タイミングを逸したんです。

―――枝北の最後の年というと、僕らが2年生のときですね。


折尾の、当時の八幡西高(※現・自由ケ丘高校) の横に
自動車学校があって、あそこに学校帰りに通ったですよね。
あの頃、枝北の事務をされよった方も通いよって
で、実技試験がある日やら、こそっと行こうと思っとったら、
ぜんぶ生徒にバラすんよね。
「今日、安永先生は試験を受けに行っとんなる」とか(笑)。

生徒から「先生、試験どうやった?」と聞かれて
「今回はだめやった」とかね(笑)。
なかなか1回で通らんとですよ。
だから、だいぶあの自動車学校に金を納めたですよね。

◆枝北の子は、純情やったから面白かった

―――枝北のときは、生徒会の指導もされていましたね。


生徒会は、だいたい僕はずっと持ったんですけどね。

―――他の中学校のときも?


はあ、わりと好きやったからですね。
折尾中のときもしよったですね。だから、卒業生から
「先生、まだ生徒会してますか?」とよく言われよったです。
枝北のときは、近藤逸子先生と組んでようしよったですね。
枝北の子は、純情やったから面白かったですよ。

―――生徒会で、何か覚えているエピソードはありますか?

一度、隣の枝光中の生徒から文句を言われたとかで、
生徒会の連中がすごく憤慨して職員室に
言うてきたことがあるんですよ。

確か…「枝北の生徒会長はたいしたことない」とか、
ケチをつけてきたとか、そんなことやったと思うんですが、
うちの会長をバカにされたと言って、
職員室に生徒会の連中がばーっときてね。

―――先生に訴えてきたわけですね(笑)。


そのとき、みんなちょっと興奮しとったからね、
「相手に文句を言う前に、まず自分たちでちゃんと
立派な生徒会をつくろうという気持ちに、なぜならんやったか」
ちいうて、その日は諭して。

それから何日かして、座談会のようなことをさせたことがある。
そういう話し合いができる子ばっかりやったから、子どもたちも
ずいぶん勉強した感じにはなったと思うんですけどね。

―――隣の枝中の生徒に痛いところを突かれて
カッときたんでしょうね(笑)


生徒会長というのは人気で通ったりするやないですか。
生徒会には三役がおって、生徒会長は一つの花形やから
それでいいんですけどね、残りの役員がわりとしっかりしとる。
そういう部分もあるのに、自分たちで生徒会を固めて
しっかり支えていかないかんのやないかと。

―――中学生でも、そう言われたらわかるんですね。


そういう論議ができとったですね。
だから学級担任なんかしとっても、うっかりしとったら
「先生、それおかしいんやないですか?」とか、
学級経営に関しても生徒が先生に
理論的に挑んでくるような姿勢がありましたね。

―――先生もうかうかできませんね。
(笑)

折尾中におったころでも、よう遅くまで残ってから、
生徒同士でいろいろ討議させよったですね。
父兄から「帰りが遅い」と言われたこともあります。

―――生徒同士、意見をぶつけあって、
いっしょにつくっていく空気があったんですね。


3年生くらいにもなると男子は
しっかりした女の子の言うことはわりと聞くやないですか。
男同士やったらケンカになるけどね。
だから、“悪そう”なんかでも、女の子に意見させると
言うことを聞くとか、そういう手が使えたけどね(笑)。
最近はなかなかそういうこともないね。

―――中学生の頃は、女の子の方が大人なんですね。


だから卒業アルバムなんか見よったら、ああ、この女の子は
しっかりしとったなぁとか、思い出すよね(笑)。

◆子どもたちは、学校行事で成長する

枝北のときは、文化祭で弁論大会がありよったでしょ。

―――確か、僕らのときは弁論大会でなくて、
読書感想文の発表会だったように記憶してます。


昔の生徒は、みんなの前で意見を発表する
というのができよったからね。

―――文化祭では1年から3年までの全クラスが劇をしてました。
脚本から配役から大道具からぜんぶ自分たちで決めて。


枝北なんかは、ちょうどいい規模の学校だったから、
それができるんですよね。照先生がよく言われよったけど、
3年間積み重ねるから、あれだけの劇ができるんであって。
かなりのレベルの劇をしよったですもんね。

―――1年から見ると、3年生のは大人のような劇でした。


枝北の文化祭は、かなり密度があったですよね。
文化祭の最後にプロのを見せようということで、
狂言を見せたり、劇を見せたりしよったですもんね。

―――月に1度くらいはクラスマッチもありました。
バレーにサッカーに、水泳に、コーラスがあったり。
先生方もけっこう楽しんでいらっしゃったようで。


ああいう行事で子供というのは成長しますからね。
だから面白かったですよね。僕が枝北に行って1、2年の頃は、
校内陸上競技大会を鞘が谷(さやがたに)でしよったですね。
体育の先生があそこでさせるといって、歩いて行きよったです。

鞘が谷競技場は、正式なグランドやから、
それを経験させるちゅうことやったんでしょうね。
考えてみたら枝北は、そういう面ではいろいろあったですね。

(つづく)