【Interview】2008年4月18日
テレビのニュースで
「八幡の中学生がケンカ目的で
凶器を準備して集まって…」と
安永 祐一 先生

◆修学旅行の列車内で、生徒は大はしゃぎ

―――北中には1971(昭和46)年から8年間いらしたんですね。


1年から3年まで受け持って卒業させたクラスは、
12期生と15期生ですね。
ちょうどその間、
1975年に博多まで新幹線が開通したんで、
それまでは、修学旅行は臨時列車ですよ。

―――夜行列車で行くんですか?

臨時列車で行って、夜行で帰りよったのかな。
だから昔の方がその分1泊長い感じよね。
で、もう最後の夜は列車の中で
他の客はおらんから、ある程度大目に見とると、
子どもたちは寝らんでワーワー騒ぐやないですか。
それが楽しかったごとあるですね。
通路にザーッとゴザを敷いてから。

―――通路にゴザですか?

ゴザは、旅行会社が用意しよったですね。
それを敷いて、みんな靴脱いでからゴザの上を歩き回って、
あっちの席やらこっちの席やら行って。

―――生徒は楽しかったでしょうね。
先生方も、その日は大目にみてあげてたんですね。


◆TVニュースで、凶器を持った生徒たちが…

―――ほかに思い出に残るエピソードはありますか?

枝北でね、だいたい生徒はみんないい子やったけど、
1回ね、ちょっと中学校同士のケンカの騒ぎが起こって
テレビのニュースに出たことがあるんですよね。

夏休みが終わって2学期が始まったころは、
よくいろんなことがあるもんやから、
記者が警察署に詰めとるやないですか、
なんか事件がないかと構えとったところに
ちょうど枝北の生徒がね。

―――網を張られてたんですね。

警察から学校に連絡があって。
何かケンカしようごとあると聞いたけど、
まぁたいしたことないという話で、
奥武先生が生徒らを引き取りにいってね。

―――生徒は補導されていたんですか。

そう。生徒らを学校に連れ帰ってきても、
実際なんでもなかったから、
すぐに「もういいよ」ちゅうて帰らせて。
だから、その時は親も呼んでないと思います。

したら、夕方のテレビのニュースに出たんよ、バーッと。
「八幡の中学生がケンカ目的で凶器を準備して集まって…」 と
大げさに出たから、なして、ああして出るんやろかちゅうて。

何日かして他の学校の先生たちと会ったら
「大ごとやったねぇ」といわれて(笑)。
枝北の先生たちは、何ち思ってないんですけどね。

―――テレビのニュースで聞けば、驚きますもんね。

本人たちに聞いたら、
野球しよったらどっかでケンカがあるちゅうような話で、
ほんなら行こうち、バットやら何やら持っとるのが
野次馬根性で行ったもんやからね、それを見た人が、
子どもが集まって殴り合いになったらいかんちいうことで
警察に電話して話が大きくなっとるんですよ。

―――ああ、金属バットをもってる生徒が
集まっとるということで、話が大きくなったんですね。


結局その話は、ニュースで流れたことを
何でも信用したらいかんといういい教訓になったですよね。

子どもの問題とか、学校の事件がいろいろ報道されても、
いや、実際はそうじゃないんじゃないんか、と
思ったりはするようになりましたね。
                  
◆手がかかるようになった子供たち

―――長い教員生活を振り返って、
子供たちは変わってきましたか?


枝北中の頃はそこまでなかったですけど、その後の
上津役(こうじゃく)中の終わり頃(※1980年代後半)から、
子供の質が変わってきたなぁという感じがしだしたですね。

―――それはたとえばどんな風に?

結局、手がかかるという感じになったですよね。
そりゃあ今の先生の方が、ていねいですよ。
こげなことまでプリントに書いてやらないかんの?
ちゅう感じなんですよね。

僕なんかの若い頃は、指導はかなり大ざっぱやったと
思うんですよね。でもその当時は別に問題なかったし、
それで生徒もついてきてくれたんですよ。
今の先生は、とても指導がていねいですよね。

―――逆に言うと、甘やかされているというか
子どもがサービスされすぎているんですかね。
(笑)

たとえば折尾中におった頃(※1960年代)、
まだ永犬丸中なんかなくて校区が広かったあの頃、
それこそ、平気で夜遅くまで生徒会の仕事をさせて、
生徒を帰らせよったですもんね。

今なら当然生徒を送って行ったりするやないですか。
僕らの頃は平気で帰らせよったなぁと思うてからですね。
だから、今と比べて先生はやりやすかったといえば
やりやすかったですね。自由もあったし。

―――昔より、今の先生の方がたいへんですよね。

折尾中におる頃、学活の時間に自分のクラスだけ
洞海湾まで連れていったことがあるですよ。
「洞海湾行くぞー」とかいうて、
そこで思いっきり遊ばせて学校に帰ってきたら、
もう他の生徒はみんな帰りよるんですよ(笑)。
そげな自由があったですもんね。

今なら、いよいよ教育委員会に届けを出して行かんなとか、
車も多いからああいう風に歩いてはいけんと思うけど、
そういうことを平気でしよったですね。

―――昔は、先生もかなり自由だったんですね。
その方が生徒にもいい影響を与えますよね。

枝北のころまでは、自由だったですよね。そういう意味では。
僕らは実技教科やから、出張するときは自習させるでしょ、
枝北のときは、係の生徒に「これをしときなさい」といって、
安心して行けるんですよね。
自習が終わったら作品を集めてちゃんと棚になおしておくとか。

最近の生徒はそれができんですもんね。
別の教材を用意するとか、別に監督の先生に来てもらわなとか。
枝北のころは、安心して子供たちだけでやらせられたし、
心配はいらんやったですね。

―――なるほど。実技教科だとはっきり見えますね。


だから、教師を辞める終わり頃になると、
手のこんだ教材はちょっと考えるようになりましたね。
それでもやっぱり、いろんなことをさせてやりたいからね。

昔の子の方がはるかにできよったですね。
とくに器用さについてはずいぶん変わった。
こんなことができんやろか?というのがあるですよね。
刃物の使い方とか、昔の子の方がうまかったですよね。

―――今の子の器用さといえば、ゲームですもんね。

枝北のころ、今でも覚えとるけど、
版画か木彫をさせるときに生徒の間を回りよったら、
女の子やったけど、彫刻刀を凄くキレイに研(と)いであるんですよ。
「これ、よう研いどるね」ち聞いたら「お父さん、大工」ち。
「あ、それはプロやね」と言うたことがあるんですけどね。
親も子供のやっていることに、関心を持ってくれとったですよね。

(つづく)