【Interview】2008年4月18日
板がポンと置いてあってね、
試験時間60分で本立てを
1つ作らないかんのですよ。
安永 祐一 先生

◆大学の入学試験で「本立てを作りなさい」

―――美術の先生になった経緯をお聞かせください。
もともと絵を描くのは、お好きだったんですか?


好きは好きやったですね。小学校の頃から
賞をもらったり、貼り出されたりはしよったですね。
中学高校のころは、なにか行事があると
安永君が絵がうまいから、ちゅう雰囲気はあったですね。
ポスターなんか頼まれたりとか。

それでも別に、将来のことなんか考えてなかったんですけどね。
特になんちなかったんですよ、考えてみれば。(笑)

―――美術の方に進みたいと思ったのは?

美術の方に進もうかなと思ったのは、
高校を卒業するまぎわですね。
ほかに特に能力があれば別でしょうけど、
そげん成績もいいほうじゃなかったからね。

―――芸術方面に進む人は、よく親や先生から
「将来、食っていけないぞ」なんて言われますが、
そんな話はなかったですか?


それはあんまりなかったねぇ。
結局、僕は福岡の学芸大学(現・福岡教育大学)の美術科に
行ったんですけどね。
他に京都美術大学(現・京都芸術大学)とか、
金沢の美術大学も受験したけど通らんやったんです。

―――今でも、すごい難関だと聞きます。
美術系の予備校に行ったり、何浪もする人もいるとか。

まして、田舎もんがポンと受けるんやから、通るわけないんよね。
僕もいっぺん失敗したから浪人したんですよ。
先輩から「美大を受けるなら絵の先生に習いに行け」といわれて、
直方でね、一年間デッサンを習いに行ったんですよ。
そして結局、2年目も学芸大しか通らんやったから、結果的にね。

―――いちばん行きたかったのはどこだったんですか。

京都の美大に行きたかったんですよね。
でも、やっぱり通らんですよね、難しい。

―――日本全国からですもんね。

今はたくさんありますけど、あの頃は公立というと、
東京芸大と京都と金沢の3つくらいしかなかったですもんね。
だから、世の中をよう知らんちゃ知らんやったですね。

―――学芸大の美術科に入って、
じゃあ将来は、美術の先生だなと?


それで自然と決まるですよね。
美術科といっても教育系の大学の美術だから、
絵だけでなく工作もあるんですよね。木工なんかも。

だから、今から考えたら勉強になったなと思うですね。
デッサンは習いよったからある程度できるけど、
工作なんかはまったくの素人やないですか。

大学の入学試験でも実技試験があったんですよ。
絵はデッサンやから自信があるけど、
工作なんてのはみんな初めてでしょう。

―――試験は、どんな課題だったか覚えています?

覚えてますよ。材料の板がポンと置いてあってね、
試験時間60分で本立てを1つ作らないかんのですよ。

道具は、鋸(のこ)も鉋(かんな)もそこにあって。
自分でデザインして本立てを1つ作れという課題。
結局、誰も組み立てきらんやったですね。

―――1時間では厳しいですね。

ある程度、経験しとったら作ってみせるけど、
まるっきり鋸(のこ)も引いたことないのがね、
いきなり試験で言われるもんやから。

(かんな)なんち、素人にはようわからんやないですか(笑)。
だから大学時代に木工は鍛えられたから、かなりするんですよ。

―――木工は、教科だと「技術・家庭」の内容ですね。
(※中学校の「技術・家庭」は1958(昭和33)年の指導要領で必修教科として新設された)

だから、僕の最初の赴任校は熊西中だったんですが、
八幡市の方からは「技術」でどうかと言ってきたんですよ。

技術家庭の教員免許というのは、持っとる人が少ないんですよ。
他の教科だと、九大を出ようが、北九大を出ようが、
英語の免許持ったり、国語の免許持ったりしとうやないですか。
でも一般の大学から教員になった人は、
技術科の免許を持ってないんですよ。

―――技術の先生が足りなかったんですね。

僕は大学を卒業するのがちょっと遅れて、
夏休みに急に、大学の先生に呼び出されてね。

同じような連中と何で呼ばれたかわからんから
「お前なんか悪いことしてないか?」
「いいや、した覚えはない」とか言いながら、
その教授の部屋に行ってみたら、
「実は就職を言われとるが」という話で(笑)。

―――何かと思ったら、就職の話だった。


他の学生は福岡やら糸島の連中やったから、
僕がいちばん八幡市に近くて。教育委員会に行ったら、
技術科の教員で入れるという話で。
そのとき、もし"講師"やったら断ろうと思ったけど、
一応正式に採用するというもんやから。
だから僕は最初の半年は、熊西中で技術の先生。

―――美術の先生になったのはいつからですか?

半年後に折尾中に移ったけど、そのときはもう美術。
でもやっぱり、技術の先生が足りなかったから、
美術を半分教えて、あと半分は技術を手伝ったという感じ。

―――美術も技術も受け持ったんですね。

技術は、電気とか機械もあるでしょ?
そんなのは僕はようわからんから、
教えるとしたら1年生の技術ですよ。木工があるからね。
まぁ、それでも技術を見てたのは1〜2年で、
あとはずっと美術になったんですけどね。

―――折尾中には何年ほど?

折尾には8年いました。折尾中の頃は生徒が多くてね、
10何クラスありました。美術の先生でも1学年に2人おったですね。
折尾の次が枝北です。枝北にもちょうど8年いました。


(つづく)