【Interview】2007年6月24日
平和憲法ができ、学校制度が変わり、
民主主義の時代になったから、
校長とは毎日議論しよったね。
吉田 修 先生
【プロフィール】
1923(大正12)−2012(平成24)。師範学校を出て半年後、昭和19年3月に出征。戦後は黒崎小を振り出しに、昭和57年に花尾中を退職するまで市内の中学校理科教諭を歴任。一貫して民主教育の普及に尽力する。退職後は穴生地区の自治区会、社会福祉協議会などさまざまな地域活動に携わるほか「北九州市に夜間中学をつくる会」の会長としても奮闘。
枝北中での在任期間は1971(昭和46年度)〜1978(昭和53年度)までの8年間

かつて修先生からもらった私信の一部を引用して、
先生が枝北中に赴任したころの時代背景の説明に
代えさせていただきます

……枝北は心暖まる思い出の多い学校です。前任校の尾倉中学校は、1955年から10年間は斗いの職場でした。教職員に対する勤務評定反対の斗争(15年間の法定斗争)、安保、三池と政治対決、労使対決、更に後半は、文部省の全国一斉学力テストの実施(最終的には中止)と、日本の経済成長の裏付けとしての教育政策、小生も振り返ってみるとよく首がつながっていたと思います。学校では父兄と対決する様な時代(教育方針で)もありました。
 その反動もあってか、枝北では仲良くすることをモットーに楽しい勤務が出来ました。環境が良かったのは教師仲間が良かったことです明るい学校づくりをめざす多くの仲間が居たからです。勿論当時でも民主教育は、父兄には必ずしも受け入れられるものではありませんでした。…

◆枝北中に「べトコン先生」が来た

僕は、北九州市の教職員組合の書記長、専従を辞めて、
枝光北に転勤になったわけ。当時は一ヶ月にいっぺんぐらいは
新聞に僕の名前が出よったもんね。
対教育委員会との交渉が決裂したとかいろいろ。
翌日、新聞に書記長談が出るわけよ。

――当時の組合と教育委員会との火種は何だったんですか?

組合への弾圧、切り崩しね。
もう、組合員を脱退させるわけよ、校長が。

――校長がですか?若い先生を呼んで「出世できんぞ」みたいな?

そうよ。とくに教頭前のね。教頭の受験をするのに
組合に入っとったら絶対通らんのやから。
だからまず組織の切り崩しは「あんたそろそろ教頭前やから、
組合脱退した方がいいばい」ちゅうて。
校長やら教頭やら、親戚の者を通じて言ってきたりする。

――えー、そうなんですか。

だから枝北に赴任するとき(※1971:昭和46年)に、
「ベトコンが来るばい」と言われて話題になって。
当時ベトナム戦争があったけね。
(※ベトコン:アメリカ軍と戦った南ヴェトナム解放戦線に対する蔑称。
 組合活動をしていた吉田先生と対立し、揶揄する人たちがいたらしい )


枝北に行ってすぐ、PTAの副会長をしよった母ちゃんがね、
「先生、面白い話があるよ」ちゅうて。
「先生のこと、ベトコンが来たけ、みんな用心せい」というて
父母の間に広まったらしい。
「そら、面白いなあ」と僕は笑ってね。
ほいで夏休み前にはね、「あのベトコン先生は、面白い先生や。
なかなかモノのようわかる面白い先生や」ちゅうことになって。

――だんだん支持者ができたわけですね。

PTAの理事会に出ようとすると、教頭が
「吉田先生、穴生(あのう)でしょう。わざわざ帰って、
八幡の果てから来んでもいいですよ」と言われて、
「いや、僕は楽しみで来よるんやけ、別に何とも思っとらん」
というてね(笑)。PTAでも、言うたら困るような話は、
俺しか言わんのやもんね、校長はありきたりな話しかできんし、
生徒に関わる細かい問題になったら校長は答えにくいだろう。

一度、PTAの理事会で開き直ったことがあったんよ。
「この学校のPTAの1年間の主な議題を言おうか」というてね。
みんな飲みごとたい(笑)


4月は新しい校長・教頭が見えたんで、その歓迎会をいつしましょうか、6月頃になったら夏は納涼でどっか行こうか、そげな話。9月になったら運動会の後どうしようか、忘年会はどうしようか、年が明けたら、新年会とお別れ会。そんなPTAでどげんするですか、と言うてね(笑)。

当時は先生もみんなPTAの各部に所属するわけよ、
総務部とか体育部とか教務部とか。なんか入るわけ。
それで「吉田先生なんがいいですか?」と。
教育部と言いよったかね、1年目はそれに入っとったよ。
教育部に入ったらしゃべることが多いやろ、
やっぱ校長や教頭は俺が煙たいわけたい(笑)。

だから2年目は「教育部は希望者いっぱいやから、
吉田先生 代わってください」といわれて。
「あ、俺はどこでもいいよ。どこが空いとるな?」というたら、
「経理部が空いちょる」ち言われて(笑)。

――経理部ですか(笑)?

経理部は何もないたい(笑)。
2ヶ月にいっぺん、ベルマークの整理があるくらいよ。
そいでベルマークに行って、ワーこらワーこら、母ちゃん達と話してね。ま、合間合間に教育論議をするわけたい。まあ四方山話でいい話、悪い話をね。チクっチクっと(笑)

◆出張中に、PTAで大事件が…
あるとき会議で博多に出張に行くことになって、
その日は、社会科のK先生に
「俺、博多行かんなけ、あんたベルマークを頼むね」と言うて。
で、あくる日に学校行ったら、Kさんがあわてて
「先生、昨日おおごとが起こった」と。

実はPTAの副会長が『うちの学校のPTAは、女性の委員を粗末に扱いよる、軽視しとる、差別しよる』と。で、よその学校を調べたら、枝北のPTAの規約がおかしいので、規約を改正するのをPTA会長に申し入れると、こうなっとるわけたい。

――どのへんが問題だったんですか?

典型的なのは、理事の選出の細則がないわけたい。
あの当時、PTAの理事の選出は、10年以上も会長をしよったMさんがね、1丁目はあの人、2丁目はこの人…って、ぜんぶ名指したい。理事の改選はぜんぶ自分でするんだよ。

それでK先生は、俺が仕組んどったと思い込んで。母ちゃん達に入れ知恵をしとったと思うとるわけたい。で、俺がおらんときに、その入れ知恵が芽を出したと(笑)。
「先生、知らんのですか」
「ぜんぜんそんなこと知らんばい」
「副会長と女性の有志で、会長に申し入れに行こうと思う」と。
僕のいないときに決議しとるわけよ。

――吉田先生はどうされたんですか?

いやだから、それは僕はぜんぜん関係ないと。
それはあなたたちが自分達で思うたようにどうぞと。
で、女性みんなでPTA会長のとこに行ったら、Mさんはもう怒り上げちょるわけたい(笑)。「PTAの会長に向かって、女性部、婦人会がそげな申し入れをするとは何事か!けしからん!」と。「おおかたこれは吉田の入れ知恵やろ」と言うたとか(笑)。で、それが僕の耳に入ったんよ。

それで今度は、僕が押しかけて行ったんよ、Mさんの家に。
「あたかも僕が教唆煽動してね、行かせたような言い方をあんたしたそうやけど、それは心外この上ないと。あんたいつまでPTAの会長をするか、たいがい辞めなさいと僕は思うとったけどね、人を利用してから言わせようなんて、そげな野暮な魂胆はもたん」と。

――以前に、Mさんに直接言ったことは?

うん、ある(笑)。

――じゃあ、もともとMさんも「あの吉田は気に入らん」と
ずっと根に思ってたんですね。


思っとったやろね。僕は文句ばっかり言いよったからね。
あの人、だいたい元は教員やから、僕たちの先輩たい。

――いくつぐらい年が離れていらっしゃるんですか?

20歳以上は離れとるやろねぇ。

――じゃあ、大先輩に当たるわけですね。

うん、大先輩、大先輩。

――よくそんなこと言えましたね(笑)。

俺は、新卒でね、師範学校卒業したときから校長とも喧嘩しよったよ。とくに軍隊から帰ってきてからは、それこそ、平和憲法ができね、学校制度が変わり、民主主義の時代になったから、校長とは毎日議論しよったね。

(つづく)