【Interview】2007年7月10日
成績がいい子よりも、
そんな子の方が顔も覚えとるし、
やっぱり忘れられんね。
吉田 照子 先生
【プロフィール】
1928(昭和3年)小倉魚町生まれ。終戦の翌年に京都女専(現・京都女子大)を卒業後、1947(昭和22年)から教職に就く(担当教科は国語)。曽根中を皮切りに→枝光中(14年間)→中央中→木屋瀬中→枝光北中(7年間)→香月中→則松中を経て、58歳で退職。
「枝光中」は、1947(昭和22年12月)〜1961(昭和36年度)まで。
「枝光北中」は、1973(昭和48年度)〜1979(昭和54年度)まで。

(笑)
※取材テープを忠実に書き起こすと、文章が(笑)だらけに
なったのでかなり省略しています。発言の後には
すべて(笑)が入っていると思ってお読みください。

◆開口一番、「がっかりしたでしょ?」

―――僕らが枝北中に入学して、照先生とお会いしたときは、
49歳だったんですねぇ。あれから30年ですよ。


あー、そんな歳やったかね。入学式が終ってみんな教室に入って、
後ろに父兄がだーっと並んどる前で、
「あんたたち、がっかりしたでしょう?」と最初に挨拶したのよね。

「1年1組は○○先生、2組は○○先生…とずーっときて、
最後の4組はどんな先生かと思ったら、一番ばあちゃんが来てから…、
と思ったでしょう?」と言うたら、みんな笑いよったね。
「でも心配せんでいいよ、中学は小学校のように1日一緒じゃないからね、入れ替わり立ち替わり、先生が替わるけね」と言うたら、
生徒も安心したのかドッと笑ったんを覚えとるよ。

―――僕は国語の時間に作文を書かされたとき、兄から先生方のあだ名を聞いてたので、苦しまぎれにそれをネタにして書いたんです。
吉田照子=「ブルドッグ」とか失礼な作文を。他にも、頭髪が不自由だったY先生、I先生、K先生=「灯台三人衆」とか書いて、灯台の地図記号もオマケにつけたりして。
そしたら、その作文が照先生にものすごくウケて、職員室じゅう回して読んだよっていう話を聞いて、漠然と「おもしろい先生だなぁ」と思ったのが最初の印象なんです。


あの時の職員は、そういうのを楽しむ人が多かったけね。
「生徒の分際で…」なんちゅう人は、一人もおらんかったからね。

―――放送部の用事なんかで職員室に行くと、いつも先生方の笑い声がしてたような気がします。あの明るい雰囲気はよく覚えてますね。

枝北は通勤がたいへんでねぇ。駅からずーっと坂道と階段やろ。
で、運動場に上がったらまた階段。職員室に着いたら汗だくよ。

いつ頃からか、穴生のY先生が車に乗せてくれるようになって、楽になったねぇ。毎朝、私と技術科のIさん、数学のYさん、あと一人は英語のSさんやったかな。萩原の電停前で待ち合わせして。

運転するY先生は、「頭が痛くて休もうと思っても、ウチのが『ダメ。あなたが休んだら5人の先生が欠席になる。生徒が自習ばかりになる』と言われて、わしゃ来たんばい」と、冗談をよう言いよったよ。

◆受験勉強を離れた「国語」の時間

―――照先生の国語の授業で印象に残ってるのは、中学生相手に
「まだ、あんたたちはわからんやろうけど…」と前置きしながら、
恋愛の話とか大人の世界の話をずいぶんされていたような…。


きっと、愛とか恋とか不倫とか、ロクでもない話ばかりやろ。

―――僕なんか、興味津々で聞いてましたよ。

やっぱり、生徒はそのことがいちばん興味があろうも。
人間としてはねぇ。男と女しかおらんのやけ。

―――よく覚えているのが、教科書に載っていた
白鳥は悲しからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ
という若山牧水の歌の解説をされて。


あの歌ねぇ…、私も読んだときわからなかったのよ、
生徒にどう説明したものか。文学作品というのは
自分がなんとなく感じて心を打つものがあっても、
なかなか説明なんてできないじゃない?

なんか、人生というのはどっちに行っていいかわからんで、
迷ってね、迷いながら終っていくのが多いんやないかなぁ、
と思ったりもしよったけどね。

―――確か、作者が恋をして悩んでいるときに作った歌よ、みたいな話をされて。

それ嘘よ。私が勝手に付け足したんよ。なんでそんなことが指導要領に書いとるね。自分が勝手に解釈したことをいうただけよ。

―――うはは。今明かされる真実(笑)。
それくらい脚色できないと、国語の教師はつとまらない。


やっぱり、そんなところだけしっかり覚えるやろ?
いろんな人生体験に裏づけされて、口からほとばしり出よるんよ。
まじめ一方の人やったら、できんやろねぇ。

―――指導書通りの、退屈な授業しかできないでしょうね。

実は、韻文(※詩や短歌、俳句のこと)というのは
教えるのが難しいから好かんやったのよ。説明なんてできんて。
詩でも文章でも、生徒が初めて読んだときに何が残ったか、
それで終りでしょう?
それを切り刻んで、いろんなこと言わんでもよかろうもんと
思うとったよ。そういう疑いがいつもあったねぇ。

―――読んだときの感じ方は、それぞれですもんね。

北中におったころ、2年、3年と国語を受け持ったある生徒が
転校するんで手紙をくれたのよ。大人しい男の子やったけどね。
「他の授業はどうしても受験に重きを置いた授業であんまり好きやない」とか、「しょうがないと思う」とかなんとか書いてあって、「でも国語の時間だけは受験を離れた授業やったのでうれしかった」とか、そんなことを書いてあったよ。

◆いまでも心に残る名句・迷作

国語の時間に俳句とか川柳をつくらせたら、
職員室の前の廊下にずらーっと張り出してやりよったんよ。
生徒たちは、たいそううれしかったらしいね。

―――いまだに覚えている作品とかあります?

文化祭 主役をおろされ 幕引きへ」ちゅうのがあったよ。
ほんとにその子はその通りでね。あれは笑ったぁ。

ほかに俳句として忘れられんのはね、
柿ひとつ 放りあげて見る 秋の空」。

―――ほう。うまいですね。映像が浮びます。
青い空と柿の色との対比が見事ですね。


うまいでしょう?私もかなわんと思ったよ。
それが成績とかはぜんぜんだめな子でね。

―――やりますねぇ、中学生の分際で(笑)。

それから、夏休みの日記を提出させたときに、
ある男の子が初めの日に一行書いとるんよ。
食っちゃ寝、食っちゃ寝しています。」って。

で、次の日も同じ一行
食っちゃ寝、食っちゃ寝しています。
最後まで40日間ずーっとその一行だけ。堂々と出すんやもん、
豪傑やねぇと思ったよ。私は気に入ったねぇ。

夏休みはこっちも、似たりよったりやもんねぇ。
「お見事!」ち書いて、返してやったよ。
成績がいい子よりも、なんかそんな子の方が顔も覚えとるし、
やっぱり忘れられんね。


―――でも、親は成績のことを言うでしょう?

3年の2学期頃になってから「国語の成績が上がるいい方法はないか」と聞いてくる親がおるんよ。私は「国語の教育というのは、言葉を覚えた頃から始まっているんです」と答えよったけどね。

小さいときからお母さんたちがしゃべったり、絵本を読み聞かせたり、本を与えてやったりとか、いろんなことがからみあってこの子ができとるんやからね。試験のためだけに1ヶ月や2ヶ月では無理無理。「そんな方法があったら、私が教えてもらいたい」って言うたことよ。

―――国語の力は、ふだんの生活の蓄積ですもんね。

それこそ、国語の教科書なんて便宜上のものであって、入試にそのまま出るわけないしね。極端なこと言うたら、教科書は全然使わなくてもすむんだもん。なにかの小説を持ってきてもいいんだもんね、そんなのが私は根底にあるけ、どうも「単元、単元」と指導要領にうるさい先生とは合わんかった。
とくに師範出の人、教育大出身者とかはね。

―――頭が固いですか?

面白ない。教育大出の若い先生の方がかえって杓子定規で、
融通が利かんやったりするのよ。ワープロやらは上手やけど。
クラスを受け持つのを嫌がって、
お金のことばっかりの教員もおったし、いろいろよね。

―――先生はみんなクラスを持ちたがるわけでもないんですか?

逃げる人は逃げるね。そりゃあんた、副担任の方が楽やもん。
それを「やり甲斐がない」と思うか、「楽でええ」と思うか、
そこが境やろね。

◆今の時代なら私、先生なんてやれんよ

―――厳しい受験をくぐり抜けてきた先生が増えて、
ちょっと現場の空気が変わってきたのでしょうか?


それはやっぱ、ものすごく空気が変わったもんね。
北中から移った先の学校では、職員室も冷た〜い感じやったよ。

私らのときは戦後すぐで教員の数が足りんかったから、
資格があるだけで私みたいな者でも引っ張りに来たけどね。
今は教員試験も難しいし、免許も10年に1回更新するとか、
私なんかが通るはずないよ。

―――あ、教員免許の更新制度ですね。

あれ、私なんかぜんぜん意味がわからん。

―――先日お話をうかがったY先生もあきれてました。
先生になろうとする者が、おらんごとなるんやないかと。


そやろ?あんな制度で、何で教員の質が向上すると思うの?
頭が悪い人が上にはおるねぇ。私が考えてもわかるのに。
おざなりな研修でよ、質が向上するとでも思いよるんやろか。

(つづく)