◆手榴弾をつくってました。――女学校時代
こないだタクシーに乗ったときにね、白髪頭の運転手さんが
「お客さん乗せて山田緑地まで行ったら、たいそうキレイな
公園になっとってですね。」と言うからね、私はすぐさま
「はぁ、そんなになっとるね。私は女学校のとき、
あそこに手榴弾を作りに行きよりました」と言うたんよ。
当時は、山田弾薬庫ちゅうてね。私らは女学校の2年のころから
勤労奉仕に行きよったもんね。小倉造兵廠(ぞうへいしょう)が
大門(だいもん)のとこにあって、軍装品なんかに使う馬の皮を
みんなで囲んで磨いたよ。それが臭くてたまらんでねぇ。
山田弾薬庫では、手榴弾の安全ピンを
紙の絆創膏(ばんそうこう)みたいので巻くんよ。
工員さんが「安全ピンがはずれたら、
できるだけ遠くに投げてください」とだけ言うて。
それが注意よ。
―――うわ、危なっ。女学校2年というと何歳ぐらいですか?
15歳くらいよ。いい歳をした運転手さんから
「そういう話は、もう昭和の語り部として、
残しといてもらわないけん」と言われて、
私も年をとったもんやなあと思ったよ。
盧溝橋事件※が小学校のときで、すぐ日支事変※やろ。
今「支那(しな)」とか言う人はおらんもんね。
※盧溝橋(ろきょうこう)事件:1937年、日中戦争がはじまるきっかけとなった事件。
※日支(にっし)事変:日中戦争は宣戦布告が行われず、当時「日支事変」と呼ばれた。
―――照先生の頃は、どういう学制だったんですか?
小学校までが義務教育で、そっから上はお金を出して行くわけ。
男の人は中学校、女の人は高等女学校。
経済的な理由で行かれん人は、高等小学校ちゅうのが
2年あって、それに行く人は行きよったね。
―――先生は女学校ですか?
うん、勝山高等女学校。今の三萩野女子高よ。
私たちのときは戦争が激しくなって、
入学試験のペーパーテストがどこも廃止になったんよ。
頭より体力の時代やから、運動場走らされたり、懸垂したり、
短棒ちゅうのを投げたりする体力検定があったよ。
―――その当時は将来について、どう考えていたんですか?
なーんも。(笑)
―――何も?他の学生たちは?
男の人は、兵隊になるということよね。
―――お国のために死のうとか?
死ぬとかは、やっぱ思わんでしょうね。
うちの弟は小倉中学に通いよったけど、
予科練※の先輩やらが来て講堂で話をするらしいんよ。
カッコよく、剣やら下げてね。男の子はみな憧れるんよね。
※海軍飛行予科練習生
―――ああ、なるほど。
弟は一人息子なのに、中学2年のころから戦車隊に
志願するちゅうてがんばりよったが、親は往生してね。
思いとどまらせるのがたいへんで。
若いうちは、時代の雰囲気に流されるままよね。
◆ タバコを覚えました。――京都女専時代
―――女学校を出た後は、京都でしたっけ?
東山七条にあった京都女子専門学校。
当時から"京女(きょうじょ)"と呼ばれよったよ。
京都の女専は右京区の桂にもう一つあってね、
そっちはまじめな固い学校。 ウチらの方がだんぜんモダンやった。
勉強はできんかったけど。(笑)
―――"京女"では、どんな生活だったんですか?
タバコを覚えたんが女専の寮よ。17歳から。
寮生がどっかから手に入れたタバコの葉っぱを、
はさみで切り刻んで、紙に巻いてね。
英語のコンサイスの辞書の紙が大きさもちょうどいいのよ。
消灯後にロウソクをつけて、一晩でひと山できるわけ。
朝になったらみんなが来て、わーっと取っていくわけよ。
―――巻いたタバコを売ったりするんですか?
売ったりはせんよ。それはお互いさま。
こっちがないときはもろたりするから。
―――いくつもルートがあるわけですね。あっちに手に入ったとか。
京都女専を出た人が寮長をしよって、
もう一人のエラい男の舎監の先生と各部屋を回って
点呼をとることになっとったのよ。その寮長にね、
「ちょっと何号室の人おいで」と呼ばれて行ったら、
「あんたたち、もっとうまいことやらないと
ダメじゃないの。匂うわよ」と言われて。
急いで安い香水をまいてごまかしたりしてから。
―――話のわかる寮長ですねぇ。
で、夜9時の点呼が済んでから、寮を抜け出ていくわけ。
門の下が30センチくらいしか隙間がないんやけど、
そこを這い出していくんよ。
―――外で、逢い引きとかするんですか?
おる人はおったやろうけど、私はおりまっせん。
私と同室の人が直方出身やったんやけど、冷え性でね。
布団に足を突っ込んで来るから、「冷たいっ」って言うたら、
「私の彼はそんな邪険なこと言わないわよ」って。
「じゃあ、彼のとこに行きゃあいいやん」と言ってやったけどね。
その人、実家に帰ったら婚約者がおるのによ。
―――若い女性同士、恋の話で盛り上がったりとかは?
いや、プライベートに深入りはせんね。
「好きにやれば」という感じ。でも、あの時代やから
さすがに最後の一線は越えきらんじゃろ。おとなしいもんよ。
門限過ぎて抜け出すくらい、たいしたことないっちゃ。
◆京都大丸の地下で「平家物語」の講義
―――で、…お勉強の方は?
女専は、ほんとは4年制なんよ。でも、私らのときは戦争で
1年削られて短縮卒業やったから、3年しか行っとらん。
まともに講義を聴けたのは1年だけやもんね。
あとはもう動員、動員で。なーんも、頭からっぽのはずよねぇ。
もともと小学校のときから勉強が好かんやったしねぇ。
―――勤労動員では、手榴弾の次は何を作ってたんですか?
飛行機の発動機。
―――照先生が?飛行機のエンジン?
そう。恐ろしいやろ?この私がよ。
作りよっても、すぐオシャカにしてから。(笑)
旋盤使って、また削って…。
―――日の丸の鉢巻をしめてですか?
そうそう。京都の桂に工場があったのよ。
郊外やから空襲があって、工場の後ろにある竹やぶまで、
どっとどっと逃げよったよ。
結局、市内の方が空襲がないから、後に四条の大丸百貨店の
地下にもぐって、そこに旋盤をおいて作業しよったけどね。
―――はぁ〜。あの京都の大丸の地下で。
私ら1年生のときは、この先生の授業はスカンとかいって、
けっこうエスケープしよったのよ。
でもほら、戦争が激しくなって、授業ができんごとになって、
工場ばっかり行かされるじゃない。
そしたら、勉強できる時間がかけがえのないものになるのよ。
よく覚えとるのが、京都大学から講師として来よった先生に、
あの大丸の地下の薄暗いなかで「平家物語」の講義を
してもらったことがあるよ。
―――工場までわざわざ来てくれたんですか?
そうよ、昼休みの時間に講義してもらったよ。
先生も熱心やったけど、こっちも勉強に飢(かつ)えとったね。
外はもう戦争、戦争でしょう。
何か、別世界に入りたいということよね。
◆40人のクラスが、卒業時には1ケタに
―――8月15日の終戦は、どちらにいました?
戦争が終わる直前に、ソ連が参戦したでしょう?
それで、学校の方からもう危ない、安全の保証はできんから
家に帰ってくれと言われたのよ。
寮が閉まってしもたら、もう食べられんけね。
それなら帰らんとしょうがないねぇ、ちゅうて。
それで家に帰って、戦争が終わったので
また京都の学校に戻ったんよ。10月頃やったかねぇ。
そしたらもう、寮に置いとったものぜんぶ盗られとるんよ。
冬物のオーバーやら本も何もぜんぶひっさらって、
土足で荒らしまわっとるんよ。
その年は、冬物がなくて寒い思いしたのを覚えとる。
―――で、その翌年の春に、1年短縮で卒業したんですね。
そう。入学したときは1クラス40人やったけど、
卒業するときは10人おらんかったもんね。
半分は通学生で、ほとんど大阪の方から来よったけど、
大阪は空襲が激しかったから、死んだのかどうなったのか、
さっぱりわからんままよ。
―――卒業後は、先生になるつもりはなかったとか。
私たちの先輩がモーレツに勉強して成績がよかったおかげで、
「おたくの学校は教員試験を受けんでもいいです」
ということになって、何もせんで教員免許がもらえたのよ。
卒業式も出らんで、汽車の切符やら買いに行って戻ってきたら、
机の上に卒業証書と、なんか丸まったのが置いてあって。
「何やろか?」って見たら、高等女学校の2級の免許やら、
なんたらかんたら書いてあって、そのまま丸めてもって帰ったよ。
そのとき思い出したら、まさか先生になるとはねぇ…。
(つづく)
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