◆自覚ゼロの、新米女教師でした
―――先生になったときは、おいくつだったんですか?
満19歳のとき、昭和22年の4月からよ。
先生になったという自覚がなーんにもなくてね(笑)。
「足立中と曽根中、どっちに行くか?」と聞かれたんやけど、
汽車通勤がしたくて曽根中を選んだんよ。
―――その後に、枝光中学校※に赴任するわけですね。
※枝光中学校:山ノ口小学校(現「ひびきが丘小学校」)の隣りにあった中学校。
そうよ。それが運の尽きよ(笑)。
昭和22年の暮れから14年間おりました。
その間に結婚して、子ども2人産んで。
―――曽根中から移ってきた経緯は?
もともとウチの母が教育熱心でね、
学校の先生に知り合いが多かったんよ。
で、当時の枝光中の校長先生が人集めがうまくてね、
私も引っ張られたんよ。
「大蔵で降りて歩いたら、すぐです」と言いよったのに、
初めて枝光に赴任したとき、歩けど歩けど着かんので、
道をまちごうたんやないかと思ったよ。
あの頃は舗装もしてないし、バスも通らんし、
とんでもないとこに来たわ、と思って(笑)
―――戦後すぐの教育現場はいかがでした?
当時は先生の数が足りなくて、
師範学校卒ではない傍系の人をたくさんとったから、
変わった先生が多くて面白かったぁ。
―――枝光中にも、変わった先生はいました?
東京の映画会社に勤めよったけど、
家が若松やけ、辞めて帰ってきた人とかね、
慶応出身のシャレたおじいちゃんで、
私たちは「慶応ボーイ」とあだ名をつけとったよ。
頭ハゲちゃびんやったけど(笑)
ある日、お固いオールドミスの先生が、
その"慶応ボーイ"を問いつめて
「先生はなぜそんな面倒なことがお嫌なのに
結婚したんですか?」と聞いたら
真面目な顔して一言、
「セックスに便利である」って(笑)
その女の先生は何も返す言葉がなかったよ。
あのシーンは強烈やったけ、私はよう覚えとる。
―――絶句してる姿が目に浮びますね。
一人の英語の先生はね、給料だけでは生活が苦しいけ、
アルバイトで進駐軍相手のパンパンさん※の英語の手紙を
代筆しちゃりよるって、いばって言いよったよ。
※進駐軍(しんちゅうぐん):敗戦後、日本を占領した連合国(主にアメリカ)の軍隊。
※パンパン:在日アメリカ軍将兵を相手にした娼婦。
―――進駐軍とか、まだ多かったんですか?
うん、北方(きたがた)の辺りとか多かったね。
その先生はノミの夫婦で、奥さんは太って大きいんだって。
「僕はいつもお風呂で背中流してやるんですよ」とか
平気な顔でいいよったよ。
―――あけっぴろげというか、おおらかな時代ですね。
後にも先にもあのときだけよ。あんな時代はもう来んね。
うっそー!ち言うごとあるやろ?
そういう傍系の先生は、その次の年までしか入れんかった。
校長は、往生したらしいよ。
―――あー、そうでしょうね。
生徒の前に、先生方をまとめるのに苦労した(笑)
◆先生たちのシャル・ウィ・ダンス
枝光中で体育館ができたらね、カーテンなんてないから
布キレをもってきて光が漏れんようにしてね、
お酒を集めて「バー」みたいなのをつくって遊んだもんよ。
―――体育館を、バーにですか?
うん。自分たちで覆いをして、飲むところをつくって、
ステージの上では太鼓やらギターやら持ってきて演奏するわ、
まんなかでダンスするわで。
太鼓を叩くブラシがないから、ホウキの柄を切り刻んで
バシャバシャにして叩いてから。
―――それ、先生たちだけでですか?
そう、夜ね。遊びに行くところがないし、
みんなでつくろうと。かなり若い連中が多かったから。
―――楽しそうですね。学園祭みたいなノリですか?
そうそう。ダンスパーティーをよくしよったよ。
今晩やるか?ちゅうてから。
―――今では考えられない話ですね。
楽しくて、明るいうちに家に帰ったことがなかったよ(笑)
体育館で電気つけて卓球したりしよったもん。
私は卓球もバレーも就職してから、枝光で覚えたんよ。
戦争中は、そんなのなかったもんね。
―――戦争が終わって、重たい雲が吹き払われて
自由を謳歌するという感じだったんですか?
ああ、終わったぁ。自由だぁと思ったよ。
夜、電気をつけとってもいい、モンペをはかんでいい、
すごい解放感よね。私もう、一番にダンスホール行ったもん。
―――今の人が聞いたら、ええっ?と思いますよね。
なんにもないけどさ、女の人はうれしいよ。
井筒屋がね、一番先にダンスホールを開いたんよ。
あそこカラッポやったんよ、売る商品がないけ。
―――社交ダンスをされていたんですか?
あら、知らんやった?上手よ。
日明(ひあがり)にあった教習所に、学校帰りに通いよったよ。
雪が降ったときは長靴を履いとるから、
ハイヒールを包んで持っていって履きかえたりしてね。
―――枝北中の頃も、ダンスをされていたんですか?
そうよ。中央町に「美松ホール」ってダンスホールがあったよ。
ほかにも飲みごとの2次会とかでキャバレーに行くでしょ。
砂津(すなつ)の方に「月世界」とかあって、
あんなとこでみんなで踊りよったよ。
―――あー「月世界」ってありましたね。銀色の丸屋根の建物。
I先生やら、私がタンゴを踊るのを見て、
「ブラボー!」って声をかけよったよ。
―――北中で踊れる先生はいました? 体育の先生とかは?
O先生はへたくそやった(笑)。Y先生はちょっとだけ。
あと、踊れる人はおらんやったね。私はお酒を飲めんから、
いっぱい踊りよったよ。今はもうさっぱりですけどね。
退職してから黒崎の「そごう」のダンス教室に行ったら、
あなたは慣れとるから中級に行ってくださいと言われたよ。
―――退職しても習ってらっしゃったんですか?
いや、踊る場所がないから踊りに行こうと思ってね。
そしたら、男の人がおらんのよ。女ばっかりで。
それで面白ないからやめてしもうたけどね。
やっぱキャバレーやないと。チークダンスもできんし(笑)
◆食べるのにみんな苦労した時代
―――枝光中で、印象に残っている生徒とかは?
私はね、弁当の時間まで先生が教室に顔を出したら
窮屈やろうと思って、あんまり行かんのやけど、
なんかの時にひょっと教室に行ったら、
ある女子生徒の席が一つあいとるんよ。
ちょっと気になって探したら、枝光中と山ノ口小の間にあった
大きな木の下にポツンと座っとるんよ、その子が。
どうやら弁当がないんよね。そろっと聞いたら、
弁当がないから昼休みになったら、いつもそこに行っとるんよ。
あの頃は、職員も生徒も食べるものがなかったのよ。
―――戦後の食料難の時代ですね。
私もどうやって弁当を渡したか忘れたけど、
あの頃は芋とかばっかりやったと思うんやけど、
その生徒は自分で食べんで、家に持って帰って
小さい弟に食べさせよったらしいんよ。
私はそんなこと知らんで、その子も何も言わんけど、
弁当箱だけ返しに来よったんよね。
その子が卒業して縁が切れて、
私も引っ越してから何年も経った後に、
どうやって住所を調べたのか、乳飲み子を抱えてね、
汗をダラダラ流しながら、突然、萩原(はぎわら)の
アパートを探しあてて来たんよ。
顔は覚えとったから「どうしたんね?」って聞いたら、
「先生の恩が忘れられんで訪ねて来ました」と言うんよ。
私は何のことか忘れとるたい。
「先生がよくお弁当をくれよったでしょう?」と言うんで、
「ああ、そういえば」と思い出したんよ。
その子が身の上話をして「あの頃、洞海湾に母と弟と
三人で何度か身投げをしに行ったことがあるんです」と
打ち明けるもんやから、びっくりしてね。
―――その子のお父さんは?
おらんやったんよ。あの頃は生活保護とかなかったから、
お母さんの稼ぎがなかったら、もう何もなかったんやろね。
そんな事情を何も知らんかったもんね。
―――中学生には過酷な経験ですね。お母さんと弟と…。
そして、今は大阪におりますちゅうんよ。
大阪で工員をしよる人と結婚して、赤ちゃんを連れて
来とるんよ。ちょっとは余裕ができたんやろね。
「先生のおかげで」と言うから、
「とんでもない。わたしはいつも気まぐれで、
なんも続きゃせんのやけ。でもほんと、
幸せになってよかったねぇ」と言うて。
―――いい縁があったんですね。
何年かして、子供と孫に囲まれた写真と手紙が送られてきたんよ。
だから、私はこれだけは捨てきらんでとっとるのよ。
もうだいぶ昔の話よ。今ではその女の子も60歳を過ぎとるやろねぇ。
◆"中央刑務所"で鍛えられました
―――枝光中の後は、どちらへ?
次は、中央中学校。枝光中で14年経ったころ、
1つの学校に長くおったらいけんということになって。
ほかの先生は自分の通いやすいとこ、校長がよくて、
働きやすい学校とか、いろいろ運動しよったらしいのよ。
わたしはそういう芸当はぜんぜんしきらんでね。
当時の中央中の校長は、ものすご厳しくて有名でね、
教師の間で"中央刑務所"と呼ばれよったほどで、
みんな行きたがらんやったよ。
中央中では、補習授業がありよったけ、
朝、真っ暗なうちに家を出て、真っ暗になって帰りよった。
―――高校受験のためのですか?
そうよ。朝は7時30分から、国語だと書き取りとか、
文法を覚えさせるとか、ちょっとしたことなんやけどね。
帰りにも補習があって、一日に9時間くらい授業しよったよ。
―――うわ、一日9コマは凄いですね。
当時はどこの中学でもやってたんですか?
とくに中央中は凄かったんよ。
校長が国語科で、授業をちょくちょく見に来るんよ。
で、気がついたことを指導してくれるわけ。
そりゃあもう、鍛われたよ。それまで枝光中学におって
デレーッとしとったのが、目の覚めるごとあった(笑)
たった3年やったけどね。
(つづく)
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