やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
それぞれの昭和20年8月8日。
八幡の街は、この世の地獄でした。
お話:白石孝夫、高橋清美、秋吉智(敬称略)
白石:
 そのとき私は、八幡製鉄洞岡(くきおか)第二化成品課に勤めていました。朝すぐ空襲警報になりました。防空壕より出て、外を見まわしたら溶鉱炉の周辺に焼夷弾の火の雨でした。担当していたナフタリン倉庫や石炭酸倉庫も燃え出し、火と黒煙で寄りつけないほどでした。街の方からも黒煙が出だしたので、街も燃えているなと思いました。その日は帰れなくて、2、3日後、前田から焼け跡の電車道を通って熊西まで歩いて帰った記憶があります。その時の様子はまさに、この世の地獄でした。
 
高橋:
 私はその日、学徒動員で門司港駅に行って、切符切りの仕事をしていました。空襲も収まり、門司港から汽車で帰りましたが、枝光から先は動きませんでしたので、枝光から森下まで歩いて帰りました。鉄道の軌条や道路に無数の焼夷弾が埋まり、突き刺さり、燃えた跡の家屋や電車がくすぶり、人や馬の焼死体が散乱し、異様な臭いで我慢できないほどでした。やっとの思いで黒崎まで来ました。喉もカラカラになっていたので神原のおばの家で水でも飲ませてもらおうと立ち寄ったのですが、おばの家も丸焼けになっていました。おばとは言葉も交わさずに帰りました。帰る途中、穴生も全滅だという話を聞きましたが、幸い、家は何事もありませんでした。引野、今の養福寺の下の通りが少し被害に遭っていました。家に帰り着いたのは夕方でした。親もたいへん心配していました。この日のことは一生忘れません。
 
秋吉智:
 私はその年、中学校に入りました。8月8日は夏休み中の登校日でした。登校途中で警戒警報になりました。当時、警戒警報になれば学校に行かなくてもよいことになっていましたので、その帰りに緑町、今の製鉄所西門前に友人がいたので遊びに行きました。しばらくして空襲警報になりました。たいしたことはないと高をくくっていました。ところがそのうちにシュルシュルと焼夷弾が落下してきました。緑町に近い尾倉の小伊藤山(こいとやま)の防空壕で多くの犠牲者が出ました。私もその防空壕に入っていた可能性もあり、もしも入っていたならば一巻の終わりだったでしょう。
 私は製鉄所の方に行って、線路と製鉄所の塀との間に溝があり、そこに多くの人と一緒に避難していました。そこで米機の機銃掃射を受けました。幸い、生命は助かりました。それから穴生まで歩いて帰りましたが、途中、黒い雨が降って来ました。帰り着いたときには、顔から何まで真っ黒けになっていました。異様な光景に出会い、放心状態で帰って来た思い出があります。
 
白石:
桃園の防空壕でも、女子挺身隊や花尾高等小学校の女生徒が犠牲になりましたね。
(つづく)