やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
見たら、焼夷弾が体に突き刺さり、
血を流していました。
お話:稲垣登志子(敬称略)
稲垣:
 私は当時、中央町のタール製品統制公社というところに出ていました。朝、穴生を出るときに、警戒警報が出ていましたが、今まで会社に行くまでに警報が解除になることが多かったので、中央町まで電車で行きました。ビルの3階で事務を執っていたら空襲警報にならないままに、ヒューヒューバラバラと音がしだしました。窓より南方の製鉄所の方を見たら、弾がボンボン落ちていました。これはたいへんだと支店長らが八幡小学校の地下壕に走れと言われましたが、私ら若い20歳位の女の子ばかり、「あんな所に入ったら焼け死ぬよ。焼夷弾が来たら、みんなで消そう消そう」と言っているうちに、焼夷弾が六畳間の広さくらいに降って来ました。

  コモと水を持って消火活動のため1階に下りて行きました。すると、事務所の前で一人で衣料品店を開いていた奥さんが、助けてくれ、助けてくれと大声で叫んでいました。見たら、焼夷弾が体に突き刺さり、血を流していました。5〜6人で戸板に乗せ、傷ついた体にコモをかぶせ、目的の病院へと走り出しました。上から火の粉が降りかかり、持ったバケツの水を戸板にかければ血が流れ、電柱、電線、電車、家は燃えている。馬が火の中を走って来る。そんな中を、皆で戸板を置いては、かわるがわるで目的の病院を探しながら死に物狂いで走って行きました。途中、警防団の方からお前たちは危ないから戸板はそこに置いてゆけと言われ、その後、軍隊の人が病院まで運んでくれました。後日聞いたのですが、負傷された奥さんは出血多量で死亡されたとのことでした。

 私たち5〜6人だけがマルキュー※の方へ走って、避難所のある警察署へ逃げて行っている時、低空飛行で来た飛行機の機銃掃射を受けましたが、無事に警察署にたどり着くことができました。警報解除になり、前田の友人と山の手を通って穴生へと帰りました。途中、前田の友人の家も焼けており、その家族の方も行方がわかりませんでした。前田の上の方も燃え、高取の防空壕の前では中で死んだ家族のことを思ってか、みんな泣き叫んでいました。焦げ茶色で肥大した親子の死体にも会いました。

 製鉄所の社宅では、警防団の人が床下から焼死体を運び出し、人数を数えながら外に並べそろえているのも見ました。その時の状況はあまりにも悲惨で、兄弟らにも最近やっと話せるようになりました。


※マルキュー:中央町にあった「九州百貨店」。マルキュウと呼ばれた。
(つづく)