有田:
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私は14歳で女学校2年生でした。学校は仮校舎で、神原高等小学校(今の鳴水小学校)でした。8月8日に何で学校に行っていたのか、昨日から不思議だなと考えていたのです。
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吉田修:
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8月8日は大詔奉戴日(たいしょうほうさいび)※ですよ。
※戦意高揚を目的とした記念日。1941年12月8日の開戦日にちなみ、
毎月8日が大詔奉戴日とされた。 |
有田:
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ああ、そうですか。なるほど。警戒警報中でしたが校長先生の話を聞いていました。お話し中、機銃掃射を受け、逃げ回りました。学校が少し高い位置にあったので黒崎方面の様子がよく見えました。黒崎から来ている生徒が家が燃えていると言って、わんわん泣いていました。そして河頭山(ごうとうやま)に逃げたのではと思いますが、覚えていません。山の中を逃げている途中、煙で真っ黒くなりました。そして雨がザーッと降って来ました。その記憶が強く残っています。その時、もうこれで助かったねーと言って、泣いている人もみんな喜びあいました。どのようにして家まで帰ったのか、山越えで帰ったのか、よく覚えていません。親が笑って、タヌキのような顔をしているねと言いました。 |
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吉田君:
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私はその時、小学校に勤めていました。5年女子の担任でした。警戒警報が出ていて、まあ、あまり大したことはないだろうと思っていましたが、校長先生が皆を家に帰せということで、帰している最中に空襲警報になりました。校長先生があわてて高い台に上がって、お前たちすぐ学校の防空壕に入れと言われたので、女の子4、50人くらいを避難させました。すると、シュルシュルバンバンと音が聞こえ出しました。子供がみんな泣き出しました。私もいまだ若く、泣きたい気持ちにもなりましたが、みんなしっかりがんばろうねと励ましました。
その間、そんなに長い時間ではなかったでしょうが、本当に長い時間、怖い目にあったような気がしました。女の先生方はずーっと子供についていましたが、男の先生方は校舎を廻っていました。私の教室には焼夷弾が落ちていました。もし教室に生徒を残していたら、誰か死んでいたのではないかと思っています。
防空壕の中では、神原の方が燃えている炎の熱さが感じられました。また、子供たちを励まし、守らねばと、教師としての責任を感じました。上学年の女生徒を連れて、まだ焼け跡がくすぶっている中、中央区の役所にお米をもらいに行きました。たくさんの焼死体を見ました。正覚寺の石段にたくさんの死体が並べられていました。これらの悲惨さを子供たちにも話しますが、体験者として平和がいかに大事かということを痛感いたします。 |
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(つづく)
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